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風の王国 掲示板

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山の神さま  
  2002/8/26 (月) 12:38:19 - くるぶし - 
(添付1) 1030333099.1.jpg
どうも…。自分とこの先祖を調べている最中のくるぶしです…

"東沢さんの奥羽山脈の山窩とウメアイについてのレポート≠フ
山の神さまを見て…山の神さまって、天神信仰の天神さま
に似てると思ったんで、画像をのせてみました。

こっち右手に持っているはシャクですけど…


 返信-12
 2002/9/16 (月) 01:28:55 - 東沢美史 -
東北の場合、宣教師が金属に関係してるらしいです。私はズバリ金山が目的だとおもいます。
キリシタンと言うことは日本人。東北で妙見様の信仰が強くて有名なのは平将門を先祖に持つ千
葉氏の末裔にあたる氏族ですが、相馬氏、国分氏、鹿島信仰の東氏などたくさんいますが誰でし
ょう。歴史好きの松村邦弘が大内氏の配下の子孫とよくTVで話してるの見るけどこの山口やキ
リシタン大名がいた九州あたりではないでしょうか。

 返信-11
 2002/9/3 (火) 17:07:57 - ヤゾ− -
東沢さん とても良いお話しを聞かせて頂きました。
ところで どこかで?なにかで? 
キリシタンが妙見さんを信仰していたと読んだ気がするのです。

 返信-10
 2002/9/3 (火) 02:21:04 - 東沢美史 -
宮城、岩手の例ですが隠れキリシタンの山里と鉄とか鍛冶を結びつける話はあります。でも布教
者であるヨーロッパ人の本来の目的は黄金ではないかとの歴史家もいます。・・・だから東北に
は白人のような顔の人とかグリーンやブルーの目の人がいるのかな。

私は竹細工売りでキリシタンの山里を毎年訪れますが、かつては一軒残らず寄るようにしてまし
た。貧しい家の人でもせっかく来たからといって無理してでもなにか買ってくれるし、何より静
かで温和でありながら人懐っこく、または好奇心の強い人が多いのがキリシタンの里の特長のよ
うで、訪問するのがかなり楽しいです。雰囲気が他の東北の農村、漁村とは明らかに違います。
表現するのが難しいんですが、なんか表情の明るさも違うんです。・・・たとえれば、大雨がや
っと上がった夕方の西空のような明るさとでも言うんでしょうか、思い出す何人かはそんな感じ
です。


 返信-9
 2002/9/3 (火) 01:20:35 - 東沢美史 - 
金の神様と鉄の神様は違うと思ってましたが、
そういえば妙見様は両方に関係してます。
地域によっても違うし。金に関する神は多義性に富んでるし。

 返信-8
 2002/8/31 (土) 14:49:45 - くるぶし - 
うぶさん、くるぶしのことはあまり気にしないでください。
元々…日本人のルーツにも興味なく、歴史の勉強もしてないし…。
なので、他のひとの話を"おお〜そうなのか〜≠ニ勉強させてもらってます。
今回は、うちの先祖からのメッセージみたいなものを感じてるので、自分ちを調べてるのです
が、実はだんだん凹んできちゃって…。
この写真の天神像も、実は隠れキリシタン用で裏面にはマリア像が彫刻してあるそうです。
そんなことも踏まえて…、神社やお祭りや、その時代の政治的なもの、当時の人々の生き方、ま
あいろんなものを考えていくうちに、現代人の私には到底計り知れぬ想いなんかを感じてきて、
精神世界モードに突入しつつあり…、という感じ。
でも、おかげさまで神社を調べていくうちに、今まで毛嫌いしていたご利益信仰などについても
考えを改めることができたりしたので感謝です。
うーん。思ってることはこんなもんじゃないはずなのに…あー字にするのって苦手。とりあえ
ず…わけわからない内容でごめんなさいね。

 返信-7
 2002/8/30 (金) 23:25:28 - △うぶ -
くるぶしさんと東沢さんの話中に割り込んでしまったみたいなので簡単にしときます。

ヤゾーさん、鳥居、そう云われれば中国圏にも見られました、殆ど同じですが角(つ
の)が二本出ていました、(これかな?)。
「たじひ」の后、本妻でしょうか?それとも第X号妻?。もう少し勉強してみます。

 返信-6
 2002/8/28 (水) 05:05:15 - ヤゾ− - 
南九州出身の祖母が 僕が小さいころに 田の神さあ(たのかんさあ)の話しをよくし
てくれました。
なんでも手にシャモジのようなものを持っているとか言ってました。

梅鉢の紋は 契丹系と関係があるようなことを八切氏の本に書いてあったように思いま
す。

倭人のルーツは中国東南部だと言いますが
神社の鳥居のルーツも中国東南部からの倭人がもたらしたものだと何かに書いてありま
した。

山の民と海の民は同根 もしくは近い関係にあったように思います。

折口信夫の研究によると古代 天皇の后は二つの家系にかぎられていたといいます。
それは天皇家出身と丹波地方に勢力を占めていた丹比氏(たじひ)出身であったとのこ
とです。
天皇家出身の后をヒルメ 火の女 丹比氏(たじひ)出身の后を水の女と呼んでいたと
もいいます。
そうなると水の民は原住民系のような気がします。

東沢さん 昨日買い物へ行ったついでに本屋へ寄ったら
文藝別冊 没後10年 中上健次特集 というのが置いてあったので買ってきました。

 返信-5
 2002/8/27 (火) 23:58:18 - △うぶ - 
こんにちわ。
神について云えるかどうかは判りませんが、水の民と山の民は同祖です。
わが国にたどり着いた海人族、一部は海辺の民として居つき、残りは山へ入りました。
元々火明命を崇拝したので同祖(火の民族)、砂鉄採取と製鉄、同じく漁労民も
"すなどり"と云います、焼畑農業や狩猟生活、つまり「倭人」がこれです。
それぞれが崇拝する神を持ったと思いますが、所詮同祖です。
それに対して平野部で水稲耕作をした民は
その後に渡来した民族で天孫系などです(=水の民)、ゆえに天孫系神社には
鏡(=水の象徴)が備えてあります。
「梅」については推測ですが、大陸沿岸部の民族に関係深そうでして(やはり中国
系)、福建広東省に「梅花」崇拝がみられ、中華民国の国花は梅の花です、
中華民国の民族は、わが国の倭人と同じ大陸沿海海人族です。
*{文章にもし間違い有ったら、どなたかフォローお願いします。}

 返信-4
 2002/8/27 (火) 13:31:20 - くるぶし - 
まちがった…金鉱山でしたね。砂金となるとまた別ですか。

 返信-3
 2002/8/27 (火) 13:29:11 - くるぶし -
砂金といえば…北海道のゴールドラッシュ…、確か、徳川が天下をとった直後に
何万人もの砂金を採る人々が北海道にやってきて、アイヌとちょくちょく争っていた
ような……。あら……?砂金ねらいはコシャマインの戦い以前からでしたか…。
すると奥羽の山窩の方々が北海道にきてたのでしょうか?

 返信-2
 2002/8/27 (火) 12:51:31 - くるぶし -
東沢さん、山の神さまですが…、金の神さまと鉄の神さまは違うのでせうか……?

嗚呼…さらにわからなくなってきた…。

うちは…鉄の神さまに関係してたんです…。でも、鉄なのになぜか水神なんです…。

でもって家紋は丸に剣梅鉢なんです…。それで、調べていくうちに、海人族にぶつかったんで
す…。非弥生人だけど、農耕やら産鉄やらの技術を持った人々で航海術にも優れてて…てことは
星なんかにも詳しい…つまり陰陽道……安陪清明は海人族だとか…?梅鉢の家紋のルーツは天神
信仰か、海人族の末裔のどっちかのパターンらしく、梅鉢は星をあらわしてるなんてどっかのHP
で見たし、そういえば、梅鉢の梅の形は陰陽道の五行に似てるな〜なんて…思ってたんですよね
〜。そのうちに…、だんだん頭がぐちゃぐちゃになってきて…、ま、古代までいっちゃうと部族
なんてごちゃごちゃなんで、古代人は全員先祖か?なんて思いはじめ…、とりあえず、海人族の
末裔で海の神さまのひとつと関係のある家、ってことにしようかな、って思ったけど…やっぱし
鉄も山の神さまになるのかな……。金は山だけど、鉄は海なのかな…どっちかっていうと逆なら
まだわかるんだけどな〜…海と山が合体した部族がいたのかな〜…。

 返信-1
 2002/8/27 (火) 01:36:36 - 東沢美史 - 
深夜ですが、コンニチワ、くるぶしさん。
画像は道真公でしょうか。確かにポーズが似てます。

表の掲示板でヤゾーさんが、菅原道真と縄文との関連をうかがわせるレスされていました。私は
それとはちょっと違うけど、蝦夷をキーワードに浅い知識での推測ながら天神、山の神両方に共
通しそうなこと書かせていただきます。

戦後しばらくまで奥羽の山窩、あるいはその末裔の方々の仕事として金鉱山での労働があった可
能性が考えられます。またかつては金銀財宝を都に納めない、服さないという理由だけで朝廷か
ら鬼神として敵にされた蝦夷の頭領安部貞任・宗任がいましたが、この安部家を慕う領民の仕事
に当時世界有数の量を産した金の採取、精製の労働がやはりあったと私は考えています。泥田の
泥金の場合は田の神、金鉱山の場合は山の神を拝むと推測しますが、金の精製(あるいは奉納か
?)を前にしては口寄せ巫女による祭祀が執り行なわれた可能性があり、その場合、一番最初に
祈祷しなければならない神様が(高)天神といわれています。

まもなく前九年の役で敗退した安部宗任は京の都へ連行されます。そのとき都の貴族が当時、京
ではまだ珍しかった梅の花を見せ、鬼の国の者がこの花の名など知らないだろうと軽蔑し質問し
たところ彼は
『わが国の 梅の花とは 見たけれども 大宮人は 何といふらむ』と歌でこたえたそうです。
箕作り山窩はバラ科の白い花をつける「ヤマズミ」や桜を材料に使い愛でますが、蝦夷の民にと
っては同じバラ科の梅も同じようにとっくに馴染みの花木であったようです。

それから間もなく安部宗任は罪人として伊予へ流されますが逃亡の嫌疑をかけられナゼかやがて
道真と同じ大宰府へ行かされます。「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花・・・」の東風も気に
なりますが5弁の花をつける梅には、もっと深い暗号のような意味が隠されてるような気がしま
す。
で結局、その答えを知ってるのは・・・山の神様と道真が祭られるずっと以前からの天神様だけ
ってことかもしれないけど。

なぜでしょう  
  2002/8/18 (日) 01:40:52 - △うぶ -
東沢さん、興味深く拝見しました。
戦前と戦後でサンカの評価が反転したのはなぜでしょうか?
(それは全国的な傾向と思えそうですが)
ここで、支障無ければ教えて下さい。

 返信-3
 2002/8/21 (水) 01:23:50 - 東沢美史 -
(添付1) 1029602452.3.1.jpg
テキストとして昭和35年に発行された只野淳氏の論文を宮城縣史から少し書き出してみます。

筆者は、大正中期頃から専門とする薬草の調査のため奥羽の山々を歩き廻ったが、ふとしたこと
から山窩の一人に遭遇して、以来昭和十七年に至るまで、毎年二、三度は彼等と逢うことが出
来、その生活メモを採集することが出来た。

以下の記述は、昭和十六年十月二十九日附けの河北新報記事と筆者の記憶とにより書いたもので
あるが、大過はないものと思ってる。ただし残念な事に、終戦後には逢うことが出来なかった。
(略)
 日本の山岳に古代から住みついた彼等にも、時代の波は遠慮なく打ち寄せ、伝統ある生活・経
済・身分を根底からゆさぶり、そして破壊してしまった。或る者は木地屋となり或る者は竹細工
職人となり、そして或る者は鉱山の労働者となった。
 山を降りて平地に移住してきたこのチャンスは、大東亜戦敗北の混乱に乗じたと思われる。す
なわち戦災による戸籍の喪失と疎開が、彼等を迎い入れなければならなかった。
 これはしかし日本人同士として幸福なことである。全てが平等であってほしいからである。
筆者が主として訪ねたのは加美郡宮崎村の某所と、漆沢の奥舟形山の一部である。
 勿論、山形にも、また善田博士の尋ねた青森津軽岳にも居住していた。

(略)ウメアイは普通の山窩は所有することが出来ず、頭領だけが持っている。(略)昔は一山
に一人のウメアイと呼ばれたが、明治以後普通の山窩でも所持するようになった。小説に出てく
る物語の闘争、殺人などは、実際行われることが殆ど絶無といって良い程で、平和で静寂な生活
こそ、山窩の望みであり生活態度である。小説はどこまでも架空であり出鱈目で、迷惑するのは
この一群の人々である。

宮城縣史20民俗U山間民俗、只野淳・山窩の生活から抜粋。

写真は7月27日に奥羽山脈をかかえる岩手県金ヶ崎町の市に呼ばれて出店したときの竹細工を
見るお客さんたちです。場所は歩行者天国の旧国道4号線。
 

 返信-2
 2002/8/21 (水) 00:38:45 - △うぶ - 
東沢さん、さっそく返事頂き有難うございます。
やはり戦後教えられた民主人権教育ゆえでしたか。確かに戦前に書かれた物読んだら
ヒヤリとするほどひどい表現が多く有りますね。戦後すぐの時期から比べると、現在
はさらに洗練されたと思います。

私などは、机上の知識で、間違いだらけ、誤解だらけ、思い込みだらけの書き込みを
続けていますが、仕事で実世間を廻っておられる上での貴重な体験、今後も宜しく
披露して下さい、期待しています(写真も含めて)。

 返信-1
 2002/8/20 (火) 23:47:22 - 東沢美史 - 
(添付1) 1029602452.1.1.1.jpg
△うぶさん、いつも掲示板のほう拝見してます。

戦前における山窩に対するこのような横柄な見下したかのような表現はなにもこの著者ばかりで
はなく当時の多くの文化人をはじめ警察も一般の人々も同じような見方をしてたとおもいます。
だけどアメリカ政府がアメリカ人に書かせた日本国憲法を敗戦後の日本は公式に自国の憲法とし
て受け入れた時点で、山窩といえども人権があり文章で表現する場合にはそれ相当の配慮が必要
だと我が国の文化人らはことのほか強く意識したからではないでしょうか。

戦前の山窩に対するような差別的な表現、言い方は朝鮮や欧米の国々に植民地支配されてた東南
アジアの国々の人々に対しても同じようにあったようです。私はよく古本屋で戦前の雑誌や国威
発揚の書籍を買っ読むんですが中国人や中国を日本の文学者や文化人が率先して口汚くののしっ
て文章の終わり頃にはとんでもない悪国に仕立て上げる論文によく出会います。
植民地支配されてる弱い国や人々に対して日本国中集団でエバリ散らすことしか出来なかった情
けない習性を残念ながら私達、日本の国民は持ってたようです。

それが敗戦により人権を尊重するGHQの支配に会い人権を無視した差別的な書き方が山窩に対
しても出来なくなったんでしょうね。日本国憲法が人権を尊重してるからだとも考えられるかも
しれませんが、それ以上に人権を大事にしてる戦勝国アメリカの軍事力や原子爆弾が怖くて結
局、人権に配慮する文章を書かざるをえなくなったんだと私は個人的におもってます。
戦前の差別的な本音丸出しの文章を読んでますから当然、戦後の文章はいくら人権に配慮した文
章であってもどこかくすぐったくなるような建前的な感じはやはりします。

もちろんですからこれはひとり著者だけの問題ではなく私も勿論含め日本人全員が民族の特質の
問題としてよく考えなければならない事なのかもしれません。
突然の難しい質問に・・・・なんか私までていのいい、建前的な意見を述べてしまったかな、ど
うも、すずれいしました。

写真は8月3日に奧羽山脈のふもとの町の商店会に呼ばれて出店したときのものです。


奧羽山脈の山窩とウメアイについて  
  2002/8/17 (土) 21:25:18 - 東沢美史 -
(添付1) 1029587118.1.jpg
(添付2) 1029587118.2.jpg
瀬降りしてた鳴瀬川上流と薬莱山(やくらいさん)

写真の川と山は歴史民俗学2001年NO20号サンカの最新学90〜92ページ「山窩にみる
原始の姿、神秘に覆われた生活」を執筆した只野淳氏が山窩が瀬降りしてたと報告した宮城の鳴
瀬川上流と近くの薬莱山です。ただし実際は写真よりもっと上流に居たかもしれません。

歴史民俗学研究会は宮城の地元有力紙である河北新報の昭和16年10月29日の記事をそのま
ま掲載してます。
記事を書いた只野淳氏は薬草や民俗学の研究者として地元ではとても有名な方です。
宮城をフィールドとした民俗学研究の報告では多くの功績を残されていますが、山窩の報告とし
て書かれてる箕作りや竹細工に関しては読んだ人が勘違いをおこしてしまうのではとおもう部分
があります。なぜならばここの南東には日本一の箕作りの部落があり家が70戸もありました。
もちろん立派な建造物としての家に箕作りの子孫の方々は今も住まわれています。また東日本を
代表する数百人を数えるかつての竹細工の町も北東にあります。いずれも伊達家配下の居館周辺
や伊達政宗の城があった城下町での箕作り、ざる作りです。
瀬降りをして掘っ立て小屋に住む山窩が箕やざるを作って、里におりてきたとの報告は確かとお
もいますが、数は極めて少なく、多くの県民が目にしたののほとんどは大規模な箕作り、竹細工
の町などから売りにやってきた人達だったのではなかったかとおもいます。時代を遡る元は同じ
部族、一族だったとしても。

この「宮城、山形の縣境に150人餘の山窩が原始さながらの神秘な生活形態で住んでいる」と
書いてあるのですが彼が実際に逢ったのは戦前に出会った一人あるいはその仲間らしき「彼ら」
と表現された方達だけのようです。只野氏自身、県が著した宮城縣史のなかで「勿論これ等の説
明では、不備不完全の謗りはまぬかれないが、概説としては成り立つと思う」と述べてます。

仙台の北西50kmの所に位置する「薬莱山」。ここの山窩は薬草に詳しいそうです。秦の始皇帝
に不老不死の薬を献上するため徐福は蓬莱山(蓬莱の島)へ船出しました。薬莱山と蓬莱山、名
前が似てるでしょ。ヤゾーさん、今回は宮城奧羽山脈の山窩研究の検討をしてみました。

 返信-3
 2002/8/17 (土) 21:59:39 - 東沢美史 -
(添付1) 1029587118.3.1.jpg
(添付2) 1029587118.3.2.jpg
山窩の方達が住みついた集落に竹細工売りに門付けに行けばたいてい売れるとおもいます。
一般に竹細工や箕作りの子孫の方々は竹細工への理解が深く使い慣れてる場合が多かったり先祖
が竹細工をしてたことを私達に話したがりますので決して商売的には悪くはないはずです。

さてこれは仲間の鍛冶屋さんにさらにウメアイ(山刀)を二種類打ってもらい出来上がったもの
の写真画像です。
一つは(画像右側)ヤゾーさんのウメガイを真似したもので両刃が平行になるタイプ。
もう一つ(画像左側)は奧羽山脈の男女ペアーで祭られてる山神の男神が実際に持ってる剣を真
似て打っていただきました。これも鋼(なかがね)だけを材料に叩いてます。

もう一枚の画像は高橋喜平氏の「みちのくの山の神」に載ってた写真を又撮りしたものですので
・・・ぼかしました。高橋氏は精力的に東北の山の神様を写真に収める努力をされています。普
通、氏子や部落民は[山の神]を公開しないのが原則ですから大変な作業です。実はいまだにこ
の山の神様のルーツは民俗学の学会でさえハッキリ解明されていないのが実情のようです。ちな
みに彼の甥にあたる方が推理作家の高橋克彦氏です。

今年4月に、NHKスペシャルアジア古都物語 第4集 女神と生きる天空の都〜ネパール・カ
トマンズ〜という番組でネパールの男女ペアーの神様のうちの女神から「剣先の5角形の形に都
を開きなさい」というお告げがあり、いまのカトマンズの都はそのお告げどおりネパールの人々
によって開かれたとの趣旨の内容の放映がありました

シェイシュンの紋次郎さんが先に、ネパールの男童神クマルとその変形である女童神クマリを「
熊野」と解釈されています。とんでもなく鋭いです。この辺から私は山神や山窩、ウメガイの原
形の一部分が見えてきそうな気がしてなりません。

 返信-2
 2002/8/17 (土) 21:39:21 - 東沢美史 -
(添付1) 1029587118.2.1.jpg
(添付2) 1029587118.2.2.jpg
戦前、山窩が居たという宮城県漆沢地域の鳴瀬川流域に先月末に行ってみましたが、この日は瀬
降りしてる山窩の皆さんに会うことができませんでした。しかたがないのでこの地区の山神神社
の鳥居のところへ行って拝み、しばしボーッとしてました。

歴史民俗学NO20のなかで紹介された戦前の昭和16年10月29日発行の河北新報の記事を
抜粋しますが「山窩を語るについてはくわしいことは絶對に言ふことは許されない、そして住む
場所すら語ることができない、それは原始そのものゝ狂暴性を持つ彼等がどんな迫害を加えて來
るか知れないからでもある」「山窩には信仰はなく自給自足の最低の生活をして凡そ文明人には
想像がつくまい」と只野淳氏は報告しています。

しかし戦後の昭和35年に、県の予算で出版された宮城縣史の中で只野淳氏は山窩の住む地名を
数ヵ所記しています。また狂暴性については全く触れておらず、むしろ逆に「いま筆者は過去の
彼等の生活と人情に厚かったことを追憶して、限りない郷愁を覚える。」とまで書いています。
戦後の今、私達が山窩の資料について調べるときには、山窩研究者と呼ばれる人達が社会の激変
期であった戦前と戦後において山窩の同人物のことについてさえマルっきり反対に文意を大きく
変えてそれぞれの時代に記載していったことを頭の隅において注意深くあたらなければいけない
と只野氏の文を読んで強く感じました。

私が撮った写真は山窩が居た漆沢地区の山神神社の鳥居なんですが、北西には形の良い三角の山
が見えます。この山の形を見て私は五角形の箕先や、映画「瀬降り物語」やヤゾーさんが製作さ
れたウメガイの剣先を連想してしまいました。
もちろん、男女ペアーの山神の男神様の持つ両刃の剣先の形もそっくりです。
なお仙台地区の民家ではこの山桜の樺の箕に12個の捧げ物の載せ「山の神様」に捧げる風習が
平成の今でもあります。
木地師とマタギと竹細工する人達は元々は山窩と同じ仲間と只野氏は指摘しています。
ならば少なくとも山神様への信仰はあったと私は推測します。
もう一つの写真は農作業で箕を使うときや神様にあげるとき人の視線に映る箕先を参考までに写
したものです。漆沢の山神神社の鳥居の向こうに見える山の形に似てるとおもいました。

 返信-1
 2002/8/17 (土) 21:35:41 - 東沢美史 - 
(添付1) 1029587118.1.1.jpg
(添付2) 1029587118.1.2.jpg
歴史民俗学20号91ページの写真を参考にして仲間の鍛冶屋さんにウメアイを打っていただき
ました。歴史民俗学掲載の写真は奧羽の頭領小倉某氏から只野氏に贈られたものだそうです。
ヤゾーさんからご指導もありましたので今回は鋼(なかがね)だけを材料として使いました。出
来映えはいかがでしょうか。柄も鋼で出来てます。またこのウメアイの両刃の部分は男女ペアー
で祭られてる山神の女神様が持ってる槍によく似ています。

もう一つの写真は餅米を蒸かす蒸篭(せいろう)です。私の近くに住む70代の竹細工売り仲間
のはるつさんが作った物ですがこの松木の曲げわっぱを山桜の皮(樺)で縫うときに、ちょうど
このウメアイを小型にしたような刃物で穴をあけます。こげ茶色のところが縫われた桜皮の部分
です。

この蒸篭を作る仲間の方は10年ほど前まで、宮城縣史が山窩がいたと指摘してるここらの地域
を竹細工売りで歩いていました。ここのこの通りの部落へ売りに行くと売れるよとこの前詳しく
教えてくれました。41歳になるわたしをいまもいずろちゃんと呼んでくれてます。彼の2番目
の男子が私より一つ年上のけずちゃんという幼馴染みでした。けずちゃんは小学校の頃よく竹細
工売りに行くおばあさんに自転車引きながらついて歩いて行ってました。大きくなってのちに東
京の大学に行ったのに不幸なことに二十一歳のときに亡くなってしまいました。このときはとて
もとても悲しかったです。彼は背が高く大人しいうえに口が堅く多くの友達から慕われてた人で
した。旅がかなり好きだったし彼には生きてて私らのリーダーになってもらいたかったです。こ
のけずちゃんのお父さんのはるつさんは今も月に何度か蒸篭などを作って家にきてくれます。

私達、宮城県北の竹細工売りは曲げわっぱの蒸篭も竹細工と一緒に持って売って歩くのが昔から
のしきたりで日本列島の他地方の竹細工の門付けのみなさんと違うところです。古(いにしえ)
の蒸篭は全て竹で編まれていました。中国では今も竹だけで編んだ蒸篭を使ってるところもあり
ます。ここ最近ウメアイの使い方についてはいろいろ考えてきたけど蒸篭の山桜の皮を縫うとい
う作業に使ってた刃物が似てるし相応しいので今更ながらに見直しました。

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