東沢さんの奥羽山脈の山窩(サンカ)とウメアイについてのレポート


 


瀬降りしてた鳴瀬川上流と薬莱山(やくらいさん) 写真の川と山は歴史民俗学2001年NO20号サンカの最新学90〜92ページ「山窩にみる原始の姿、神秘に覆われた生活」を執筆した只野淳氏が論文のなかで山窩が瀬降りしてたと報告した宮城県北部を流れる鳴瀬川の上流とすぐ近くの薬莱山です。ただし実際には写 真よりもっと上流の位置に居たと書いてるようです。 歴史民俗学研究会は宮城の地元有力紙である河北新報の昭和16年10月29日の記事をそのまま掲載してます。 記事を書いた只野淳氏は薬草や民俗学の研究者として地元ではよく知られてる方です。 宮城の山漁村をフィールドとした民俗学研究では多くの報告を残されてるようです。しかし山窩の報告として書かれてる箕作りや竹細工に関する部分では読んだ人が勘違いをおこしてしまうのではとおもう部分もあります。なぜならばここの南東の黒川郡には70戸を数える日本一の規模を誇った箕作りの部落がかつてありました。旧伊達家配下の居館のすぐ近くです。もちろん立派な建造物としての家屋にその子孫の方々は今現在住まわれています。また北東の玉 造郡に、かつて伊達政宗が居城した岩出山という数百人を数える笊(ざる)作りの旧城下町があります。 瀬降りをして掘っ立て小屋に住む山窩が箕や竹細工品を作って、里におりてきたとの報告は確かとおもいますが、そのうち山窩の人数の割合は実際は極めて少なく、多くの県民が目にしたののほとんどは前に挙げた大規模な箕作り、竹細工の町などから売りにやってきた人達だったのではなかったかとおもいます。時代を遡った元は同じ山窩の部族、仲間だったとしても。 この「宮城、山形の縣境に150人餘の山窩が原始さながらの神秘な生活形態で住んでいる」と書いてあるのですが論文を読む限り彼が実際に山や川で出会ったとはっきり読み取れるのは戦前に出会った一人、あるいはその仲間らしき「彼ら」と表現された方達だけのようです。只野氏自身、県が著した宮城縣史のなかで「勿論これ等の説明では、不備不完全の謗りはまぬ かれないが、概説としては成り立つと思う」と述べてます。 仙台の北西50kmの所に位 置する「薬莱山」。ここの山窩は薬草にも詳しいようです。秦の始皇帝に不老不死の薬を献上するため徐福は蓬莱山(蓬莱の島)へ船出しました。薬莱山と蓬莱山、名前が似てるでしょ。ヤゾーさん、今回は東北のきれいな風景ではなく宮城の山窩研究の検討をしてみました。

 

戦前、山窩が居たという宮城県漆沢地域の鳴瀬川上流域に先月の7月31日に行ってみました。もちろん期待などしてたわけではありませんが瀬降りしてる山窩の皆さんに会うことはできませんでした。川瀬を眺めながら山窩の皆さんが居た様子を想像したりしてましたが、そんなこと願ってもしかたがないので地図にあったこの地区の山神神社を探しあて拝みました。少し暗くなってましたので帰ろうと鳥居のところまで戻ったけどなんか去り難い気持ちになってきたので、もう夕方でしたがしばらくそこでボーッとしてました。 歴史民俗学NO20のなかで紹介された戦前の昭和16年10月29日発行の河北新報の記事を抜粋しますが「山窩を語るについてはくわしいことは絶對に言ふことは許されない、そして住む場所すら語ることができない、それは原始そのものゝ狂暴性を持つ彼等がどんな迫害を加えて來るか知れないからでもある」「山窩には信仰はなく自給自足の最低の生活をして凡そ文明人には想像がつくまい」と只野淳氏は報告しています。 しかし戦後の昭和35年に、県の予算で出版された宮城縣史の中で只野淳氏は山窩の住む地名を数ヵ所記しています。また狂暴性については全く触れておらず、むしろ逆に「いま筆者は過去の彼等の生活と人情に厚かったことを追憶して、限りない郷愁を覚える。」とまで書いています。敗戦から57年を経た今、私達が山窩研究者と呼ばれる人達が残した資料について調べるときには、日本の歴史の激変期であった戦前と戦後の二つの時期に同一人物である山窩の方のことを説明するのに丸っきり相反する文章、文意でそれぞれの時代に記載していった只野淳氏のような例が決して例外的ではないことを念頭に注意深くあたらなければいけないとおもいました。 私が撮った写真は山窩が居た漆沢地区の山神神社の鳥居なんですが、北西には形の良い三角の山が見えます。この山の陰の形を見て私は五角形の箕先や、ヤゾーさんが製作されたウメガイの剣先を連想してしまいました。 もちろん、男女ペアーの山神の男神様の持つ両刃の剣先の形もそっくりです。 なお仙台地区の民家では山桜の樺の箕に12個の捧げ物を載せ「山の神」にあげる風習が平成の今もあります。 木地屋と竹細工する人達は元々は山窩と同じ仲間と只野氏は指摘しています。 ならば少なくとも山神様への信仰はあったと私は推測します。 もう一つの写真は農作業で箕を使うときや神様にあげるとき人々の視線に映る箕先を参考までに写 したものです。漆沢の山神神社の鳥居の向こうに見える山の形に似てるとおもいました。

 


仲間の鍛冶屋さんにウメアイ(山刀)を二種類打ってもらい出来上がりました。 一つは(画像右側)ヤゾーさんのウメガイを真似したもので両刃が平行になるタイプ。 もう一つ(画像左側)は奧羽山脈の男女ペアーで祭られてる山神の男神が実際に持ってる剣を真似て打っていただきました。これも、なかがねと鍛冶屋さんが云う鋼(はがね)だけを材料に叩いてます。 もう一枚の画像は写真家、高橋喜平氏の「みちのくの山の神(岩手日報社)」に載ってたペアーで祭られてる奥羽山脈の山の神様のうち男神様のある一枚の写 真を参考にスケッチしたものです。 高橋氏は精力的に東北の山の神様を写真に収める努力をされています。普通 、部落の氏子の人々は「山の神」を公開しないのが原則ですから大変な作業です。いまだにこの山の神様のルーツは民俗学の学会でさえハッキリ解明や説明がされていないのではないでしょうか。この執念の大事業といえる山の神の写 真集を世に出された高橋喜平氏の甥にあたる方が、推理小説の高橋克彦氏です。 今年4月に、NHKスペシャルアジア古都物語 第4集 女神と生きる天空の都〜ネパール・カトマンズ〜という番組でネパールの男女ペアーの神様のうちの女神から「剣先の5角形の形に都を開きなさい」というお告げがあり、いまのカトマンズの都はそのお告げどおりネパールの人々によって開かれたとの趣旨の内容の放映がありました シェイシュンの紋次郎さんが先に、ネパールの男童神クマルとその変形である女童神クマリを「熊野」と解釈されていました。とても鋭く素晴らしい見解だとおもいます。この辺から私は山窩の信仰やウメガイ、あるいは山の神様の祖形が遠く微かではありますが見えてきそうな気がしてなりません。

 


歴史民俗学20号91ページの写真を参考にして仲間の鍛冶屋さんにウメアイを打っていただきました。歴史民俗学掲載の写 真は奧羽の頭領小倉某氏から只野氏に贈られたものだそうです。ヤゾーさんからご指導いただきましたので今回は鋼(はがね)だけを材料として使いました。出来映えはいかがでしょうか。柄も鋼で出来てます。またこのウメアイの両刃の部分は男女ペアーで祭られてる山の神様のうち女神様が持ってる槍によく似ています。 もう一つの写真は餅米を蒸かす蒸篭(せいろう)です。私の近くに住む70代の竹細工売り仲間のはるつさんが作った物ですがこの松木の曲げわっぱを山桜の皮(樺)で縫うときに、ちょうどこのウメアイを小型にしたような刃物で差し横一文字に穴をあけます。そこに桜の皮を差し込んで縫っていくのですが、画像のこげ茶色のところが山桜の樺の部分です。 この蒸篭を作る仲間のご年配方の方は10年ほど前まで、宮城縣史で只野氏が山窩がいたと指摘している加美、玉 造地域を竹細工売りで歩いていました。地名や沢、川など地形をあげて、ここのこの通 りの部落へ売りに行くと売れるよとこの前詳しく教えてくれました。同じ地域でも売れる集落と売れない集落がはっきりしてるようです。もしかしてかつての山窩の御子孫の方々が住まわれてるのかなと思ったりしました。予測なんですが山窩の方達が住みついた集落に竹細工売りに行けば売れるとおもいます。一般 に竹細工や箕作りの子孫の方々は竹細工への理解が深く使い慣れてる場合が多かったり、ご先祖さまが竹細工をしてたことを私達に話したがりますので商い的には決して悪くはないはずです。 この蒸篭を作る父のかつての竹細工売りの仲間の方は41歳になるわたしをいまもいずろちゃんと呼んでくれてます。彼の次男が私より一つ年上のけずちゃんという幼馴染みでした。けずちゃんは小学校の頃、学校が休みになるとよく自転車をひっぱって、ざるやかご持って竹細工売りに行く彼のおばあさんについて行ってました。帰ってくるときは代金の代わりの米を荷台に乗っけてきます。のちに地元をでて東京の大学に行ったののですが不幸なことに二十一歳のとき、事故で亡くなってしまいました。このときはとても、とても悲しかったです。彼は背の高いいつも落ち着いた大人しい感じの少年でしたが、話好きで普通 はあまり人と話したくないような深い所まで一気に話を進めるのが上手で、アドバイスがてらいろいろ聞かれたけど、口が堅く多くの仲間から慕われた人でした。放浪が好きで高校の頃は何度も遠くへ一人で旅に出ていました。彼には生きてて、私らのリーダーになってもらいたかったです。このけずちゃんのお父さんのはるつさんは今も月に何度か蒸篭など曲げわっぱを作って家にきてくれてます。 私達、宮城県北の竹細工売りは曲げわっぱの蒸篭も竹細工と一緒に持って売って歩くのが昔からのならいで日本列島の他地方の竹細工の門付けのみなさんとおそらく違うところです。古(いにしえ)の蒸篭は全て竹で編まれていました。中国では今も竹だけで編んだ蒸篭を使ってるところもあります。ここ最近ウメアイの使い方についていろいろ考えてきたけど蒸篭の山桜の皮を縫うという作業に使ってた刃物が似てるし相応しいので今更ながらに見直しました。







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