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戦前、山窩が居たという宮城県漆沢地域の鳴瀬川上流域に先月の7月31日に行ってみました。もちろん期待などしてたわけではありませんが瀬降りしてる山窩の皆さんに会うことはできませんでした。川瀬を眺めながら山窩の皆さんが居た様子を想像したりしてましたが、そんなこと願ってもしかたがないので地図にあったこの地区の山神神社を探しあて拝みました。少し暗くなってましたので帰ろうと鳥居のところまで戻ったけどなんか去り難い気持ちになってきたので、もう夕方でしたがしばらくそこでボーッとしてました。 歴史民俗学NO20のなかで紹介された戦前の昭和16年10月29日発行の河北新報の記事を抜粋しますが「山窩を語るについてはくわしいことは絶對に言ふことは許されない、そして住む場所すら語ることができない、それは原始そのものゝ狂暴性を持つ彼等がどんな迫害を加えて來るか知れないからでもある」「山窩には信仰はなく自給自足の最低の生活をして凡そ文明人には想像がつくまい」と只野淳氏は報告しています。 しかし戦後の昭和35年に、県の予算で出版された宮城縣史の中で只野淳氏は山窩の住む地名を数ヵ所記しています。また狂暴性については全く触れておらず、むしろ逆に「いま筆者は過去の彼等の生活と人情に厚かったことを追憶して、限りない郷愁を覚える。」とまで書いています。敗戦から57年を経た今、私達が山窩研究者と呼ばれる人達が残した資料について調べるときには、日本の歴史の激変期であった戦前と戦後の二つの時期に同一人物である山窩の方のことを説明するのに丸っきり相反する文章、文意でそれぞれの時代に記載していった只野淳氏のような例が決して例外的ではないことを念頭に注意深くあたらなければいけないとおもいました。 私が撮った写真は山窩が居た漆沢地区の山神神社の鳥居なんですが、北西には形の良い三角の山が見えます。この山の陰の形を見て私は五角形の箕先や、ヤゾーさんが製作されたウメガイの剣先を連想してしまいました。 もちろん、男女ペアーの山神の男神様の持つ両刃の剣先の形もそっくりです。 なお仙台地区の民家では山桜の樺の箕に12個の捧げ物を載せ「山の神」にあげる風習が平成の今もあります。 木地屋と竹細工する人達は元々は山窩と同じ仲間と只野氏は指摘しています。 ならば少なくとも山神様への信仰はあったと私は推測します。 もう一つの写真は農作業で箕を使うときや神様にあげるとき人々の視線に映る箕先を参考までに写 したものです。漆沢の山神神社の鳥居の向こうに見える山の形に似てるとおもいました。 |
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仲間の鍛冶屋さんにウメアイ(山刀)を二種類打ってもらい出来上がりました。 一つは(画像右側)ヤゾーさんのウメガイを真似したもので両刃が平行になるタイプ。 もう一つ(画像左側)は奧羽山脈の男女ペアーで祭られてる山神の男神が実際に持ってる剣を真似て打っていただきました。これも、なかがねと鍛冶屋さんが云う鋼(はがね)だけを材料に叩いてます。 もう一枚の画像は写真家、高橋喜平氏の「みちのくの山の神(岩手日報社)」に載ってたペアーで祭られてる奥羽山脈の山の神様のうち男神様のある一枚の写 真を参考にスケッチしたものです。 高橋氏は精力的に東北の山の神様を写真に収める努力をされています。普通 、部落の氏子の人々は「山の神」を公開しないのが原則ですから大変な作業です。いまだにこの山の神様のルーツは民俗学の学会でさえハッキリ解明や説明がされていないのではないでしょうか。この執念の大事業といえる山の神の写 真集を世に出された高橋喜平氏の甥にあたる方が、推理小説の高橋克彦氏です。 今年4月に、NHKスペシャルアジア古都物語 第4集 女神と生きる天空の都〜ネパール・カトマンズ〜という番組でネパールの男女ペアーの神様のうちの女神から「剣先の5角形の形に都を開きなさい」というお告げがあり、いまのカトマンズの都はそのお告げどおりネパールの人々によって開かれたとの趣旨の内容の放映がありました シェイシュンの紋次郎さんが先に、ネパールの男童神クマルとその変形である女童神クマリを「熊野」と解釈されていました。とても鋭く素晴らしい見解だとおもいます。この辺から私は山窩の信仰やウメガイ、あるいは山の神様の祖形が遠く微かではありますが見えてきそうな気がしてなりません。 |
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