テレビの取材に同行する


 


撮影スタッフは大阪から沖浦先生を乗せ、僕は山小屋から、それぞれ下北山村を目指して村役場で合流する。早速、村の教育委員会の人が、サンカ(山窩)と接触のあったお年寄りが待ってくれているところまで案内してくれる。そこには3人のお年寄りが待ってくれていて、サンカの話を少し聞いてから、瀬降り跡地へ案内して頂いた。話しは昭和9年頃に、そのお年寄りたちが暮す近くの河原に、どこからかやって来たサンカの親子が瀬降りを張り、1年ほど居着いて、忽然といなくなったというものでした。その間、サンカの子供は近くの学校に通 い、三人の中の二人のおじいさんは、当時10歳くらいで、サンカ(山窩)の子供と同じ年頃であったので友達となり、お互いの家と瀬降りを行き来したとのことでした。おばあさんは、その当時はもう大人で、サンカ(山窩)の生活を身近に見ており、サンカ(山窩)がウナギ捕りの合間に編んでいた籠をわけてもらったことがあるとのことでした。そのサンカ(山窩)の家族との思い出を、瀬降り跡地でインタビューするといった撮影でした。あらたな新事実も飛び出したりして、とても貴重なお話を伺うことが出来ました。

 

下北山村村史ではサンカのことを“カメツリ”と記していて、この秋に発売される沖浦先生の『幻の漂泊民・サンカ』でも、そのことが大きく取り上げられているそうですが、実際には“カメツ”と呼ばれていたことが分りました。それはカメとは関係なく、川が好きで川ばかり行っている人のことを地元の方言でカメツと呼ぶのだそうです。それはサンカ(山窩)に対してだけでなく、自分たちでも川ばかり行っている人のことをカメツと呼ぶのだそうです。三人のお年寄りは、この日始めてサンカ(山窩)という言葉を耳にしたということでしたが、サンカ(山窩)に対して、全く差別 意識はなかったそうです。そのサンカ(山窩)の子供の名前を今でもはっきりと覚えていて、勉強のよくできる子供であったそうです。 同窓会で会いたいと思って探したそうですが、所在は分らないそうです。瀬降り跡地での取材の後に、サンカ(山窩)から籠をわけてもらい、その時の籠を今でも持っているというおばあさんの家まで行って籠を見せて頂きました。籠を撮影してから、僕が欲しそうなことをいうと、『持って行ってええよ』とくれました。感激のあまり涙が出そうになりました。持ち帰ってから綺麗にして小屋の中に飾っていますが、その籠を眺めていると当時のことがしのばれ、心を瀬降りにいざないます。沖浦教授には秋に出される本の原稿を見せて頂いたり、僕の質問に丁寧に答えて頂き、別 れるときには握手を求められ、『頑張って下さい』といわれ名刺を頂きました。沖浦教授も間違いなくサンカ(山窩)に対して深い愛情を持った方だと感じました。






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