自然の中へ、そして心の中へ!

 


自然の中へ そして心の中へ

第2章

テイピーを作り再び自然の中へ

結局、僕だけが新たに空家を借りて、今の住所の近くで田舎暮らしを続けました。前に借りていた家から山を幾つか越えてクルマで2時間ほど(今はトンネルが開通して1時間程)のところでした。頼ってきた人が、とても世話好きな人で、新しい家で暮し始めてまもなく、何ケ所かの売ってもよいという土地を紹介してくれました。本心では土地を買うよりも釣り三昧でもしてから東京に戻ろうかと考えていました。でも、せっかく紹介してくれたのだから、これも縁だと思い、土地を見て回ることにしました。谷間で手を入れても住めそうにない廃屋に休耕田が約1000坪ついた土地と東南斜面の山林約3000坪が最終的な候補となり、感性と直感で山を選んで購入しました。値段は確か350万くらいだったと思います。山を買ってからしばらくは山の手入れをしたりしましたが、収入も無く、独り暮しにも飽きてしまい、一度実家に戻ることにしました。すでに東京を離れてから二年近く経っていました。実家は同じ紀伊半島にあり、買った山からは3時間ほどの町にありました。実家に戻った僕は、とりあえず今度は磯釣りではないかと、チヌ(黒鯛)釣りに夢中になり、実家からクルマで20分ほどの磯に40日間続けて通ったこともあり、親には呆れてしまい居ずらくなったので、渋々家業を手伝うことにしました。それでも釣りには頻繁に通いました。当時、貰ったキャラバンが駄目になり、3万で買ったボロボロに錆びた軽トラックに乗っていましたが、よく釣り場で「にいちゃん、よっぽど釣りに行くのやろ、そやからこんなに車が錆びてんのやな」、なんて冷やかされたものです。雨の日には床が錆びて穴が開いていたので、水が入ってくるような車でした。その車で、東京から遊びにきたトモダチと熊野を巡ったこともありました。花の巌神社の前の砂浜に、ブルーシートを敷いて毛布に包まって寝たこともありました。 東京で生活している頃に「君はなかなかの世間師だな」、なんていわれたこともありましたが、再び美術品商のようなことをしてお金を稼ぐようにもなっていました。親からはボロボロに錆びた軽トラックは、世間体が悪いからなんとかしろなんていわれていたので、そろそろ中古のクルマでも買おうと探していました。キャラバンを乗っている時から何度も泥濘に足を取られたりして難儀な思いをしていたので、絶対に四輪駆動車でないと駄目だと決めていました。しかし、新車を買おうなどとは夢にも思ってもいませんでした。ところが、よく通る山の中の神社(古い神社で丹生津姫様を祭る)があり、何か惹かれるものがあって足繁くお参りしていました。こんなこと書くと変に思われるかもしれませんが(充分変な奴?)、いつものようにお参りしていると、「わたいがクルマこうちゃるよって、しっかりしたの買いなはれ」って確かに聞こえたような気がしたのです(いや聞こえたんです)。僕は宗教等を盲信したりはしませんが、そういう現象はすんなり受け入れる性質でした(特に都合のよいものは)。それから少ししてから、タナボタのようにお金が入り新車の四輪駆動車を買いました。山の値段よりは高かったと思います。なぜかそのクルマに乗ると、不思議と山奥に行きたくなり、天川神社や玉置神社、熊野の山奥の小さな神社へと頻繁にお参りに行きました。またよく渓流釣りに行っては車の中で寝るというようなことをしていました。その時のクルマは10年以上経った今でもとても役にたっています。

ティピー
 

自分でいうのもなんですが、僕は特段、素朴な人間でも田舎者でもありません。でも、うちなるものが自然の中で生きることを強く求めるのです。そんな欲求に苛まれだすと、息がつまって何もできなくなるのです。もしかしたら、ただの怠け者なのかもしれません。なんとか山の中で暮せないかと考えたのですが、クルマにお金を使ってしまったので、安く作れて住めるものがないか考えていました。そこで閃いたのがインディアン式テントのティピーの製作でした。早速、本を探して作り方を調べ、テント屋さんに15メートル四方の防炎防火シートを特注し、何人かのトモダチに手伝って貰ってなんとか作りました。特注のシートと足場丸太とで、5万ほどでできました。


自作したティピーは、買った山のクルマの入るところに設営することにしました。まず土を盛り少し高くしてから整地しブロックを敷きました。その上にコンパネを8枚並べて固定し、まん中より少し入り寄りに焚火用の炉の為に穴を開けました。それからティピーは丸いので、コンパネの角を切って8角形の形にしてから細めの足場丸太(これが結構手に入れるのが大変)を組んでいきました。そして組んだ丸太の上に滑車を付け、ティピーを引っ張り上げて被せましたが、ティピーの重さが30キロ以上あったので思った以上に大変でした。東京に戻っていたトモダチも手伝いにきて、みんなでワイワイ言いながら何かを作り上げることは、とても充実して楽しいものでした。ティピーができ上がった夜に、中で焚火をしての宴会はとても愉快なものでした。白いシートなので、焚火だけでも思ったより中は明るくて、外から見たらほんのりと輝いて、なんて素敵なんだろうと悦にいりました。

ティピーでは3ヶ月ほど生活してみました。自分なりにいろいろと工夫してみましたが、結局、住むのを断念してしまいました。高温多湿で雨の多い紀伊半島南部の気候には合わないのだと結論しました。少々の雨では、思ったほど中には入ってはこないのですが、なんせ無茶苦茶な雨の降るところなのです。それに自然が大好きなわりに虫が大の苦手で、枕元でカマドウマやクモが這い回る環境に耐えられなかったのも理由でしょうか、情けない話しです。でも、今でもティピーは大好きです。再び実家に戻って稼業を手伝ったりビジネスしたりしましたが、どうしても山で暮したいとの思いは募る一方でした。それで、今度は少し上にある湿気が少なく風通 しのよい土地に、ヤグラを組んでシートを張り、その下でテントを張れば快適に生活できるのではと考えました。

 
ティピーの前の友人達
 
キャンプ生活の様子
 

山を買った後に、山の中腹の少し平坦なところを地元の土建屋さんに整地して貰っていました。そこの地面に50センチほどの穴を掘ってヤグラの柱となる丸太を立て、それに足場丸太をシノを使い番線で固定して骨組みを作り、シートを被せて四阿風のヤグラを作りました。丸太とシートで1万もかからなかったと思います。作るのも一日もかかりませんでした。しかし、これはなかなか快適に生活できるものでした。場所が山の中腹なので、水などを運び上げるのには苦労しましたが、ティピーを設営していた場所とは比べようもないほど湿気もなく、爽やかな風通しのよい快適な場所でした。

 
四阿風のヤグラができてから、何度か仲間が遊びにきて、しばらくテント生活をしたことがありました。雨が降ってもヤグラの中では焚火ができ、テントの中で寝るので寒さも苦手な虫も凌げ、とても快適な生活ができました。これなら充分生活していけるなと、妙な安心感を覚えました。悪くいえば逃げ場ができたとでもいうのか、その後、続けて生活することはありませんでした。気が向いたときに来てはテントを張りしばらく暮すといった期間が二年ほど続きました。台風で組んだやぐらが壊れてしまい、再び同じものを作ろうかと思っていたところ、土地を世話してくれた人が製材所を営んでいて「材料と製材はなんとでもしてやるから、自分で小屋を建ててみろ」、といってくれたので、ログハウスや家の建て方の本を見て研究するようになりました。しかし、小屋を建てるのにどれだけお金がかかるか分からなかったので思案していましたが、製材所の親父さんから「木材ならば50万も出せばそこそこの小屋を建てるだけ買える」の一言で建てる決心をしました。建ててみたらなんてことはない、家なんて案外簡単に建つものだと思いました。広さ約12帖にロフトが実質4帖ほどの小屋ができました。1998年には、まともに風速50メートルの台風に襲われましたが、若干傾きこそすれ、倒壊することもなく(ちびるくらい怖い思いはした)、5年もてば上等だと思っていましたが、5年近く経った今でもしっかりしています。次の章では山小屋を建てたときのことを書きます。








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