自然の中へ、そして心の中へ!

 


自然の中へ そして心の中へ

第3章

山小屋を建てる

山小屋を建てるのならテントのようには移動はできないから場所は慎重に決めなければなりません。となると、ティピーを設営していた場所には車が入るが環境が気に入らない、ヤグラを組んでいた山の中腹は環境は良いが道が無いに等しい状態なので材料が運べないといったジレンマがありました。そこで製材所の親父さんに相談すると、地元の土建屋さんに道を作り土地を広げる為の工事を格安で頼んでやるというので、そうして貰うことにしました。その工事を見て、ユンボ(パワーショベル)の力に、いたく感動してしまいました。僕は基本的には自然保護主義で、できるだけ自然に手を加えないことを旨としています。ですが、おもちゃの好きなガキの性分に加え、もう少し土地が広い方が良いのではとの欲から、 自分でユンボを使って土地を広げ整地してみたくて堪らなくなってしまいました。そこで手当たり次第に知り合いに電話して、いらないユンボがないかと訊ねてみました。不思議なもので「求めよさらば与えられん」ではないですが、高校の時の親友のトモダチのところに使わなくなったユンボがあるので持ってきて使えることになりました。しかし、猫の子を貰ってくるような訳にはいきません。なんせ2トン以上もある鉄の固まりなのです。そこで親父さんの息子さん(一回り以上ぼくより年上ですが、歳を感じさせない無邪気な人で、大の仲良しの釣りトモダチです)が回送車を借りて運んでやるというので、一緒に3時間ほどの距離を運びました。熊野の人たちは本当に親切な人が多いです。山道を慣れないロングの4トン車で走ったのは結構スリルがあって怖かったです。

造成に使ったユンボ
 

貰ってきたのはよいものの、かなりのオンボロのユンボでした。でも動くことは動くので、すぐに操縦にも慣れて土地を広げる作業をしました。一番驚いたのが、旋回しようとしたら動かなくなってしまい、なぜなのかなと下を見たらキャタビラを脱いでしまっていて呆然としてしまいました。片方のキャタビラだけでも数百キロはあると思います。そんなもんなんともしようがありません。困り果てて、親父さんの工場へ行って事情を話すと、息子さんが仕事を放り出して来てくれて、ハイド板で車体を浮かし、アームとワイヤーを使い無事に元に戻したことがありました。


それにしても田舎の人というものは、人が困っているときには自分の仕事を後まわしにしてでも助けることを当たり前のように行います。有り難い話しです。その後も何度もキャタビラを脱いでは一人で入れることを繰り返したり、ラジエーターが壊れて自分で修理したりしました。このユンボは今でも地元の人が完全に整備して立派に活躍しています。整地を済ませてから山小屋(ログハウス)の大きさを決め、製材の仕方を教えて貰って殆ど自分で山小屋(ログハウス)の部材を製材しました。

建物は基礎が大切だといいますが、とりあえず5年も住めればよいかなと、簡単に済まそうと考えました。それはユンボは上がることができてもクルマは上がれないので、人力で基礎の材料を運び上げなければならないからでした。そこで日曜大工店などで売っているフェンス用のブロックを使うことにしました。ブロックを使うことによってコンクリートを作る作業を大幅に省くことができるからです。ブロックを置く場所に50センチ四方の穴を掘りコンクリートを流し込み、高さを合わせてブロックを置き、鉄筋を差し込み、羽子板ボルトも差し込んで固めました。

 
ログハウスの基礎工事の様子

基礎を作る際に難しかったのは正確な位置と高さを揃えることでした。20ヶ所にブロックを置いたので、結果的にはかなり堅牢な基礎になりました。高さを揃えるのには水を入れているポリタンクと透明なホースを使いました。

ログハウスを作っている僕
 

基礎の上に土台をボルトで固定してから壁を積んでいきました。壁はヘムロックという外材を自分で製材したもので壁の厚みを45ミリに揃えました。当時参考にログハウスメーカーに45ミリの厚さでどれぐらいのものまでが可能なのか訊ねたところ、4メートルが限界であるとの答えでした。しかし、親父さんが無駄なく材料を生かした方が得だというので5メートルの長さにしました。その替わりに鉄筋にボルトを溶接して作った通しボルトを9ケ所(2ケ所は棟木から土台まで)に通しました。


部材を作る上で苦労したことは通しボルトの穴を正確にあけることでした。ノッチや溝の加工は道具を工夫して使えば案外難しいものではなかったです。もし通しボルトが無かったら、風速50メートルの台風に襲われたときに間違いなく倒壊していたと思います。

壁の一番上の桁までは充分1人で作業ができました。しかし、桁から上の屋根の部分は近所の親切なおじさんと週末に手伝いに来ていた高校時代からの親友に手伝って貰って作業しました。それにしても手伝って貰った近所のおじさんには、70歳近い年齢ながら、その体力と身軽さには驚かされました。それに無償でよく何日も手伝ってくれたものだと感謝すると共に助け合いの精神に頭が下がる思いがしました。しかし、地元の人みなが好意的であったわけではありませんでした。

 
完成間近のログハウス

山小屋を建てる作業をしていたのがオームの事件があった年だったので、僕のことをオームではないかと噂する人もいました。自分でもいろんな意味で共通した匂いみたいなものを感じていましたので、仕方がないといえばそうなのですが、彼らとは決定的に違うところがあります。 麻原のことは有名になる前から、その存在は知っていました。確かに能力はあると感じていました。ヨガのチャクラでいうところの上から2番目くらい、アジナーまでは開花したのかもしれないと感じてましたし、それなりに魅力もあるとは思っていました。しかし、それがどうしたのだという思いがありました。能力が高ければ良いというものではありません。そもそも自ら悟っただの、誰々の生まれ変わりだのという奴には神意はないものです。僕の感性がどうしても受け入れることのできない人物だったのです。東京にいる頃に嫌というほど、ありとあらゆる団体、組織から勧誘を受けました。しかし、若干の神秘体験を通して、組織、団体を形成した時点で、神意は届かないものと確信していました。自ら興味を持って集まりに参加したのは、竜王会とオイカイワタチ(どちらも組織ではなくて集まりの会)だけでした。あとは義理でマハラジと呼ばれるインドの教祖が来日したときに2回見に行っただけです。むきになって訳の分からないことを書いてしまいましたが、それだけオーム事件のせいで嫌な思いをさせられたと思って下さい。

ログハウスの室内
 

何人かの人たちに手伝って貰い、いよいよ屋根を張るところまできました。屋根材にはコロニアルという薄い瓦を使いました。屋根なんて、ほんとうに自分たちで張れるのだろうかと心配していましたが、やってみるとそれほど難しいものではありませんでした。床には檜の集製材で商品にならない物を製材所の息子さんが貰ってきてくれたのを使いました。とても只で貰ったとは思えない程綺麗な床になりました。屋根が完成したころから、ほとんどなにもない状態でしたが、山小屋で暮らし始めました。 


暮らし始めたのはよかったのですが、まだ簡易水道もトイレもなかったので、少しは難儀しました。当時の情けない川柳があります。【どしゃぶりで、のぐそしたいが、かさはなし】アホです。それぐらいの覚悟がなければ安く小屋は建てられないものです。山小屋で暮すようになり徐々に家財道具などをそろえていきましたが、ほとんどの物が粗大ゴミで拾った物や、いらない物を貰ってきては手を入れたりしてそろえました。なぜか、そういった物の方が不思議と大枚叩いて買った物よりも役立ったりします。

さすがにトイレがなくては不便なので、急いで作ることにしました。2メートルの材料があったので、それを使って製材して作りました。家の割にトイレが大きいような気もしましたが、大きさが違ったところで手間も材料費も同じようなものなので、約2メートル×1、5メートルの大きさになりました。基礎を作ったときに、あらかじめトイレの汲み取り用し尿タンクは埋設してありました。

 
完成したログハウス

自分も安く山小屋を建てたいと思っている人に参考として、山小屋が完成するまでに、かかったお金は100万ほどだったように記憶しています。今では間伐材を使ってもっと安く小屋を建てる方法を知っています。しかし、自分で小屋を建てるのには、お金より労力の方が大変なことをお忘れなく。

雪の中のログハウス
 

山小屋に暮らし始めて最初の冬には雪がたくさん積もりました。熊野にこれほど雪が積もるとは思いもしなかったので、嬉しくなって犬のように表にでてはしゃいだりもしました。しかし、道が雪で埋まりクルマが出せず、食料を買いに行けなくて難儀しました。そのときの空腹に耐えかねて、ラジオ深夜便を聞きながら読書した記憶が鮮明に蘇ります。断食状態により感性も頭も冴え渡り、本の世界とラジオ深夜便の合間に流れる情感のある音楽が相まって、とても想像力をかきたてられ素敵な時間を過ごせました。次章では山小屋での生活などを書いてみます。








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