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2001年08月08日(水)00時03分までのKumanolifeGuestbookへの書き込みです。


利田 - 2001/08/07(火) 17:28<

ビデオ見ました

ナレーションによると、
「中元さんは東京で画商の仕事をしていて、年収は1000万円を越えていた」
初耳でビックリ!
その後ヤゾー曰く「ベンツに乗ったり、高価な指輪つけたり〜」

ヘー、ヤゾーってバブリーな人だったんだ。

もんむー - 2001/08/07(火) 17:21<

風の森

ヤゾーさん、みなさんこんにちわ。

奈良県御所市、国道24号線和歌山県との県境付近に「風の森」という場所があ
り、そこに「志那都彦神社」があるそうです。

私はこれを五木氏の著作で知ったのですが、五木氏は「志那都」をサンカの語
彙「シナド」との関連で語っていました。

五木氏によるとこの神社は明治になってからこの地でおきた風害がきっかけと
なって創建されたということです。

「風の森」という地名といい、ちょっと気になるのですが、ヤゾーさんは御存
知でしょうか。

でわでわ

ヤゾ− - 2001/08/07(火) 15:59<

白山信仰と別所

時折、別所とは何かとの問い合わせや質問を受けることがあります。
そこで、『史疑 徳川家康事蹟』の村岡素一郎の孫であり、
八切止夫氏の友人でもあった直木賞作家の榛葉英治氏の『異説 徳川家康』の中から
別所と白山についての箇所を一部抜粋してみました。
少し可笑しいかなと思うところもありますが、分かりやすく説明している気がします。

昔から「産所」もしくは「別所」といわれる地域に住む民は、古い時代に、農耕を主として仏教を信じた文化的な種族のために、
山中に追いやられた先住の種族で、狩猟や山仕事を主にして、白山を信仰する神徒系である。
田畑を耕す民に使われ、差別された人たちで、住む土地は「別所」として区別された。
竹細工の簓などを作って売ったので、「ささら者」とも呼ばれた。
源応尼とお大は、このささら者の一族であった。

「白山神社とはな。白山ヒメ命、菊理媛を祭神として祀る神社だよ。それだけなら、ふつうの神社だが、それとは違う。
隠された神社で、信仰するのは、別所とか散所に住んで差別される白山信徒さよ。おみゃあのお婆さまも、この系統だに・・・」
農耕をしない縄文文化の先住種族は、田畑を耕す弥生文の種族に抑圧されて、山に追いやられた。
彼らの住むところは、別所、散所などといわれて差別されるようになった。
日本の原住民は神話以前の「国津神」すなわち白山を信仰し、農耕して平地に住む文化族は「天津神」を信仰し、
大化の改新以後は伝来した仏教が勢力を占めるようになった・・・

ついでに多田(タタラ)源氏

多田という地名はタタラの縮小語からきているとの地名学者の話しがありますが、
多田の庄の近くの多田鉱山は最盛期には二千の坑があり、多田源氏の勃興期と重なっているといいます。
金、銀、銅で富みを貯え、鉄でもって武力を整える為に、
タタラ(産鉄民)を支配することは何よりも大切であったのかも知れません。
また産鉄民に、原住民系と渡来系がいたことが、歴史を複雑で分かりにくいものにしている気がします。

没義道法主 - 2001/08/07(火) 15:54<

ビンクのトカゲ様、ありがとうございます。

スゴい板だなここは。一人もやもや考えていたことがどんどん氷解していく。
でも「古文書捨てる」ってのはもったいないですね。土蔵や蔵のある家はうらやましい。
うちは物置すらない……。

気になりだすといろいろ気になるもんです。
終戦内閣の鈴木貫太郎は堺市伏尾の生まれですが、「ふせお」と読みます。
ただ岡のふもと、そんなに奥じゃない。しかし少し南下すると上別所、下別所があります。
産廃不法投棄なんかで問題になるほど山奥です。

高知市にも伏尾谷があり、相当山ん中ですね。長崎のは海沿いですが、すぐ東が「伊福」です。
岡山久米郡の高原に野伏尾があります。赤松氏が軍勢を隠したところだから「野伏」と言うとか説明されてます。
しかしその一帯の大地名が「別所」ですし。

西宮に「伏野」があります。「藤野」の変化かも知れませんが、すぐよこには「門戸厄神」こと正式名「東光寺」があります。
すこしはなれた南には白山ヒメ神社。南西にいくと「荒戎」なんて町があります。なかなか意味深です。

ぽん - 2001/08/07(火) 13:14<

今日は神宮の花火大会ですねえ

ヤゾーさん、ありがとうございます。
七夕の短冊に「夏バテで痩せます」ようになんて書いたから、天罰かも。
きょうかいさん。
「東京地名考」(朝日文庫)から写しただけですよ。孫引きです。すみません。
お友達の居酒屋の話、いいですねえ。タヌキに化かされたような感じ。

怖い話と言えば、ささやななえのまんがは、こわいです。
その中に「たたらの辻に」(たしか、この題名。家にあるはずで探したんですけど、見つからない。文庫になってます)というのもあります。
結界、たたら場、でいだらぼっちとか言う言葉がでてきます。作者はササや、だし。ほんのちょっぴり、かすっています。









ピンクのトカゲ - 2001/08/07(火) 10:20<

参考になれば、

没義道法主さん
高校時代からのツレで、その方面じゃかなり血筋いいのいるんですよ。
ヤツも20年ぐらい前に屋敷壊したときに、土蔵にあった十手だけ残して、古文書、一緒に解体しちゃって、今になって後悔してるんですけど
やっぱり頼朝直系ってことは、いいますよ。ただ、源氏の氏神は白山だって言ってますけど
確かに白旗の源氏がテメェの氏神真っ赤に塗るなんておかしいですよね。
それにあそこで暗殺されて絶えるんですから頼朝直系は やっぱあれは北条の氏神ですよ。
新羅滅亡と東国武士団としての源氏の発生。白山と白頭山。
八切止夫なら、百済系桓武と新羅系の東国武士団なんて図式、立証無しに、いきなり持ってきそうだけど、これ細かく検討すれば、立証できるんじゃないかと思いますよ。
昨日もヤツラと呑んでいましたけど、この掲示板の俘囚などの話すると、盛り上がってますよ。

Dongly - 2001/08/07(火) 09:40<

竿と醤油

 バリ師さん。
 今のサンカ系政治屋の獲物のつかみ方から見れば、鰻や泥鰌の取り方は「手掴み」
「鷲づかみ」だったことは、まず間違いありません。
 有名な竿師(サンカ)の作った竿で川釣りをしたら「魚から竿によって来る」
ように釣れてビックリしたとか。その竿師は「社長なら、この竿を使える」と。
釣師の腕も物を言うのでしょう。土木建築業の社長も死にましたが、海釣や川釣り
には全く興味のない私ですが、岡釣り用の素晴らしい竿を注文したかった!!
おミヨさん。
 という訳で明治期に醤油製造組合は醸造組合に入れて貰えませんでした。
著名な社会運動家(クリスチャン)の方(名前を忘れました)が、両者を説得
して醤油業が醸造業の仲間入りすることに尽力した、と聞いています。
近年は製造法?が異なるためでしょうか、醤油が大変まずい理由では。
また当時は酒造業などより醤油業がはるかに儲かった時代です。

没義道法主 - 2001/08/07(火) 09:05<

Dongly さんありがとうございます

そうですか。あちこちに伏尾、または類する地名があるかも知れませんね。
最近はIT技術がすすんで検索しやすくなりましたので、調べてみます。

それと気になっていたのは、やはり伏尾(池田)と多田(川西)の関係です。
ヤの弾左衛門は自らの正当性(?)を主張するとき、源頼朝をひきあいに出していたそうですが、
まったく根拠のないことなんでしょうか。
弾左衛門の上祖は摂州池田の出自との伝承ありますね。
ここで想像を逞しくして、頼朝の先祖たる多田源氏に仕え、俘囚をまとめて製鉄関連に従事していたのが
弾家のはじまり。以来源氏となにかと関係が出来て………。これは「野史」ならぬ「アヤ史」(笑)ですな。

ピンクのトカゲ - 2001/08/07(火) 09:03<

寝た子が起こされそうです。

釣から遠ざかってたんですけど、寝た子が起こされそうです。
親戚に好きな人がいたんですよ。自分で竹薮持ってて、中通しの振出なんてとんでもないもの作っている人が
あれなんて言いましたっけ?竹刳り抜くヤツ... 中通しの振出なんか作ってるからピアノ線焼き入れて沢山持ってましたよ。
私も何本か作ったことありますよ。
和竿って、紀州の系統と、江戸の東作でしたっけ?の系統に分かれるんでしたよね?
江戸と紀州で節の朱入れが違うんですよね?どっちが先か忘れたけど、先行するほうが、矢の朱入れと一緒なんですよね?
一応、日置流雪荷派の目録持ってまして、矢師の人とか知ってましたけど、「タメ」とかは、矢の方がはるかにシビアで技術的には、竿師より矢師の方がはるかに上だと思いますよ。実際、矢師の人から教わったことあるんですが...
それと、祭礼用の笛とか作ったことありますが、中の処理は、笛が一番手間食いますね。
東海道線の豊橋近くのとある駅の付近にありますよ。釣道具扱ってるんだけど、びくとか作ってるとこ
みなさん欲しがるようなもの沢山ありますよ。確か特注やってくれると思いました。ただし、主人健在ならですけど...
サクラさん
竹細工のストラップなんて、そこで頼めば、できるかも
ところで、ありました?ピンクのトカゲのストラップ

バリ師 - 2001/08/07(火) 07:56<

こりゃあかん、サンカワールドに迷いこんでもたがな

■「又鬼と山窩」の播州のサンカから聞いた話のところに「・・・鰻や鯰はお手のものだすしな」という記述があるんですが、さあてこの鰻や鯰の具体的な獲りかたがわからへん。

■「津山魚篭」という異様に大きなハエジャコ用の素晴らしい竹魚篭があるのですが、これも元々はサンカがらみの手仕事なんだっしゃろか?

■竹細工に長けとったサンカの人たちは、農具以外に竹竿もこさえとったと思うんやけど、これも記述がおまへん。竿師は矢師につながる座職なのでしょうか?

おミヨ - 2001/08/07(火) 06:20<

あさえむ丸

Donglyさん
生薬としていろいろ利用されていたのですね。調味料ですか?はぁー(ため息)

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/07(火) 00:29<

伏尾と初瀬

 没義道法主さん。
 初めまして。矢切止夫さん死亡の年に初めて矢切サンカ本を読んで「真実の日本史」
がありうると思い、50代で入門でした。矢切本の背景に阿部弘蔵・菊池山哉の存在
があり、今も勉強中です。ところで伏尾は、広島の呉線沿い安芸津(旧「豊田」郡「三
津」町で新羅の匂い)の蚊無川の支流を遡った地図上では行止りにも、あります。標高
372m野田山の麓です。蚊無・蚊之氏は広島では「ねんごー株」の金師(たたら者)の
地であると郷土史家は教えます。タタラ者→多田者となるでしょう。ねんごー株は関西
の「根来株」と同じか否か議論されています(既報)。蚊無川は同名の山から発し、上流
に印内地名や夫婦滝があります。夫婦は比丘尼+修験の意味か、ミョウブで修験関連か分
りません。野山を北に越えると加茂台地に入り、別所地名を含む仁賀には八王子神社あり
三津町西には風早・早田原地名があります。四国では鳴戸(数箇所あり)が俘囚の上陸地
点と推測中ですが、三津ではこの辺りかもしれません。三津町は古くは港ですが、未だ
に町史も出ず、文献は地図だけが頼りです。府川・布川・深川・不自由・府中も「俘囚」
の別表記の疑いありです。文献だけ疑いは晴れません。仮説を立て現地調査です。
 とんちんかんこぞうさん。
面白く拝見しています。出雲・備中・美作・播磨・丹波辺りの山民(修験・サンカ・忍
びなどの)絡みはどうなっていますか?熊野修験の統率力は失われてたのでしょうか。
これら山民の連合を崩した力は何なのでしょうか?。また、修験=サンカ=忍び集団は
「自己の高邁な理想」を何故持たなかったのですか?。続を期待しています。
 おミヨさん。
 たたら場が焼場をかね、鍛冶屋が温亡を兼ねる話は江戸期にもありました。骨の成分が
溶け出し「よい品質の製品」ができるというのが理由だったかと思います。また人骨灰は
染物色保持に効果ありは、もう出てますね。あと薬・調味料に使用した話も聞きました
ので、鍛冶屋・藍染屋・薬屋などの「分捕り合い」だったのでは?
人は死んでからも奪い合いだったのですね。早く生き地獄から、あの世に行きたいので、
佛教が人々を捕らえたのでしょうか。今は生命保険があっても・・・人体部品ビジネス
でないと効果なしかも知れません。永=長=中 と仮定するのが野史地名学的です。

ヤゾ− <http://www.kumanolife.com/Topics/8_6.html> - 2001/08/07(火) 00:05<

隠れ里探訪

みなさん、こんばんわ。

昨日、古座川の上流へ、なにか面白い発見がないか行ってきました。
最上流部にある村は、まるで隠れ里のような雰囲気のところでした。
天然記念物の一枚岩の写真をページにしています。

ぽんさん、こんばんわ。
夏風邪ですか?お大事にして下さい。
臆することなく、なんでも書き込みして下さいね。

>1) 播磨新宮より西は屋根瓦に”えびす顔”と”打ち出の小槌”多い

さんかうぶさん
今日、見てきた村々の家や廃屋の屋根瓦には”水”と書いたものが目につきました。
随分前に渓流釣りで道を間違えて廃村になったところへ迷い込んだことがありましたが、
荒れ果てて朽ちかけた粗末な家ばかりの中で、一件だけ立派で、しかも手入れが行き届いた家がありました。
その家の屋根瓦や倉にも”水”という紋があったのを覚えています。
単に火事よけの魔よけみたいな気もするのですが?
その“水”の紋の入った廃屋の屋根瓦の写真を画像掲示板にアップしています。

きょうかいさん
信貴山縁起について、『遊民の系譜』という本の中で、
鉢が飛ぶということについて面白いことが書かれていた覚えがあります。

没義道法主さん
遠慮することなく独自の史観を語って下さい。

min-min - 2001/08/07(火) 00:04<

ごめんなさい>関西の皆様

て、今頃あやまっても遅いのですが・・・ナハハ。

あかねさん、始めまして(^-^)/
>>最も賑やかなのは大阪南部かもしれないけど、少なくとも、京都・丹波・但馬は
>>外したほうがいいかも、です。特に但馬は言葉がスローテンポです。

例えが古くって恐縮なんですが、『河内のおっさんの歌』を聞いて育った世代ですんで
やかましい!といえばやはり大阪「ディープ・サウス」ですねぇ。(笑)
関西弁ということに限定すれば、四国の徳島県あたりでもモロ、関西弁なんですね。
行ってから初めて知りました。確かに関西弁といっても種々ありますね。

おミヨさん、最近多少は涼しくなりましたけどお元気ですか?
>>朝出勤の途中お葬式に出会うと、その日は縁起が悪いからと会社を休んでしまうそうですが

ええ〜っと、台湾に限っていうとそんなことはなかったです。
ところで「産鉄民」のこと、とても興味深く読んでます。

やぞーさん、
ちょっとマンガチックな面もあるけど、素直に受けとめるとロマンティックでも
ありますね!>[虹の戦士]の話。

min-min@横浜

おミヨ - 2001/08/06(月) 21:38<

産鉄民と穏亡

タタラ場では死人を歓迎したという。近くに葬いがあると、棺をタタラ場に担ぎ込んでもらったり、
棺の板を燃したりすると、タタラの吹きだしがよくなり、死体の処理もできたという。
長谷寺のある大和の初瀬が隠り口(こもりく)といわれるのは、初が「果つ」で死者を葬る隠れ里の
入り口。京都の鳥野辺、仇野、八瀬。鎌倉の長谷寺などは山間いか、山の根につくられている。
初瀬、八瀬、八聖の谷の奥は之多べーシタビー地下黄泉の国ー葬送地でこれも産鉄民の仕事であったと。
死を穢れとするのは、仏教が盛んになってからという。

min-minさん
台湾のお葬式すごいですね。どえらく派手ですねー。
ところで中国(?)でしたか朝出勤の途中お葬式に出会うと、その日は縁起が悪いからと会社を休んでしまうそうですが、日本はお葬式に出会うと縁起がいいとききましたが、どうなんでしょうか。

友達に大阪人いますが、それはーうるさいですよ。グループでバス旅行の時でも喋りどうし、挙句の果て
説明しているバスガイドさんに「あのガイドうるさいわねー」って、どっちが五月蝿いかわかってません。

きゃ利田ヤゾウだ!
つげ義春さんは、藁葺きの風景も好きなんだけど、それだけではなく、世の中から見捨てられたような
貧しげで粗末で惨めな風景に惹かれるつげさんに、わたしも惹かれるんです。
「貧困旅行記」にあるような風景のところ絶対いいですよね。猫町紀行ひかれます。

あかねさん
雷さんまで良くご存知ですね。楽しい書き込みありがとうござりました。

ナ・二 - 2001/08/06(月) 21:35<

「俘囚」

とんちんかん小僧さま。

>東北出身ということは、奥州藤原氏(=俘囚の上頭)が思い浮かびますが、
>俘囚については詳しいのですか?

「俘囚」は虜、捕虜という意味がある蔑視語で大和王権側の政治概念です。
もうひとつ「夷俘」というのもありますが、ちょっとニュアンスが異なります。
「俘囚」の方がどっちかというと大和寄りのエミシ(主体的に大和よりとは限らないと思いますが)で、
位階制度も二つ異なるものが適用されていたようです。(あ、大宝律令とその前では制度が異なりますね。
ま、ここでは置いといて。。)
「俘囚」「夷俘」も時代を超えて一貫した定義ではなかったようで、時代を下るに連れ意味合いもごたまぜになってきます。「賊」という表現もでてきますか。

それから、私はエミシは単一ではないと思っています(大和王権の政治的概念としての「蝦夷」もそう思います。)実際、エミシも部族社会であったでしょうし、和系化して分化してくると思いますし、よそ者が支配を進めるのに、在地勢力のある者と姻戚関係を持ち、またはでっち上げで「夷の系譜」を強調した、ということもあるのではないかと思います。

今までのエミシ研究でアテルィやイカコなどは別として、安倍氏・清原氏や奥州藤原氏などの時代は(安藤氏あたりもそうでしょうが)支配層のことばかり注目されて、庶民または被支配者層がどういう状況だったか。またはその関係はどのようなものだったのか、というところに迫る研究というのを私は見たことがありません。(あるのでしたらどなたかご教示を)。
栄華を讃えるのはいいかもしれませんが、栄華の裏には庶民の犠牲があったものと考えています。
近現代のような人権的賃金労働制度などの社会制度があったなら話は別ですが。

あとは大和王権とのそれら領主権力との政治的力関係というのも手がかりになるのかもしれませんね。

とんちんかん小僧 - 2001/08/06(月) 21:09<

陰陽忍軍歌 (8)

きょうかいさん
レスありがとうございます。紹介して下さった本探して読んでみます。

ナ・ニさん
東北出身ということは、奥州藤原氏(=俘囚の上頭)が思い浮かびますが、
俘囚については詳しいのですか?


 その夜、高倉山城の本陣にいる秀吉の招きで、木陰弥右衛門は仁位山に入った黒田の
陣地から引き返して来た。
「上月城を早々に始末したい」
 秀吉は弥右衛門の顔を見るなり、せっかちに言った。弥右衛門は角張った分厚い顔を
まともに秀吉に向け、「あわててもあかんときはあかんわな」と横柄に答えた。
「何ぞ、よい手はあるか」
 弥右衛門の横柄さに馴れている秀吉は一向に意に介せず、「何ぞ、手を打て」と促した。
「わしらはの」
 弥右衛門は秀吉の物言いなど無視して、別のことを言った。
「わしら木陰はの、おまいさまにえらく出世してもらうのが願いじゃて。だ、もんだで、
そんためなら、たいがいの無理は承知で押しまくるがの」
 そこで言葉を切り、「上月城は、談合でかたがつこうかもしれん」と言った。 −つづく

とんちんかん小僧 - 2001/08/06(月) 20:31<

陰陽忍軍歌 (7)

 尼子氏のために働く鉢屋者の頭目を鉢屋七平(おそらく、以前紹介した鉢屋弥三郎の変名
でしょう)といった。鉢屋の祖は平将門の叛乱に味方して京都を追われ、山陰出雲の地に潜
んでいた。
 その鉢屋の手を借りて、尼子の本家京極氏のものであった出雲の富田城を奇襲して奪い取
った尼子経久は、たちまちのうちに近辺の国々を掠め取り,侵略して戦国の大大名にのし上
がった。
 もちろん、その陰には鉢屋一族の働きがあった。鉢屋は、いわば尼子氏にとって一大功労
者であり、最大の恩人でもあるわけだが、尼子家における鉢屋の身分は、相変わらず下賤の
「はっちゃもの」でしかなかった。
 尼子が一敗地にまみれて流浪の集団となっても、鉢屋は尼子のために働いている――。
 律儀で愚鈍な鉢屋衆――だが、徳利老人はそれを軽蔑して笑う気にはなれなかった。鉢屋
の行きざまが、忍びの者のもつ宿命のように思えたし、この徳岡一族の陰,陽二面の生き方
も所詮は鉢屋衆と同じ運命をたどるであろうことが推測できた。
 忍びの者は、どこまで行っても卑しい寄生木(やどりぎ)にすぎない。
 徳利老人は西播磨を貫通する千種(ちぐさ)川の本流に、熊見川[佐用川]が注ぎ込む合流
点に出来た集落久崎(くざき)の牛方宿に泊まって、猫又という若い忍びの報告を待っていた。
 久崎は赤穂街道への出口で、千種川を渡って上月城へ入る三つの船渡し場の一番下の渡し
場にあった。そこは渡船の溜り場として船小屋、問屋、倉庫、鍛冶屋、牛方宿、旅籠屋(はた
ご)、古手屋、陸曳屋〔(おかびきや)船を陸から綱で曳いて川上へ上がって行く人足問屋〕
などが街村風にかたまり、その一番上手に上月城船番所が建っていた。賑やかな町である。
 徳利老人の宿泊する牛方宿の主常吉は、徳利老人が二、三年前に蒔いておいた忍者で、こ
れを仲間うちでは里隠れと呼んでいるが、徳利老人の考えはもっと深いところにあった。
 猫又は夜明け方に帰って来た。その報告によると、上月城の友軍高倉山城の城主赤松義則が、
秀吉が派遣した木陰弥右衛門の説得によって、上月城より秀吉側へ寝返ってしまったこと。
 また、佐用の北、因幡街道の利神山(りしんやま)の南麓口長谷(くちながたに)の利神城
主別所定道も同じく弥右衛門の口説きに乗って上月城を裏切り、秀吉の味方になることを決意
したといった、おおむね老人が予測した内容であった。
 上月城側は別所と高倉山城の裏切りで混乱する、〈要は混乱すればよい〉老人は乾いた笑い
方で、猫又を呼び、この話をそっくり滝山にいる徳久に報せるように命じてから、常吉に「も
うぼちぼち木陰の方へ行ってよいぞ」と言った。
 常吉は「へ」と一礼し、立ち上がってもう一度会釈してから、中二階のその狭い部屋の段梯子
を下りていった。
 
 [この後につづく史実は重要ではないので一部省かせてもらいます]

 秀吉本隊は、高倉山城の占領と同時に本陣の構築をすすめ、さらに、上月城正面の仁位山に
戦闘指揮所をつくるべく、主力部隊を強引に送り込んだ。 −つづく。

没義道法主 - 2001/08/06(月) 20:09<

新参者の勝手な言い分

私の「かぶれ」遍歴。オタク親父の秘史。
高校時代→八切止夫 今は二割以下しか信じていない。阿部・菊池を「復興」したのは見事。
大学時代→古田武彦 今は三割以下しか信じていない。神話研究は見事と思うけど東日流はあまりです。
独身時代→三角寛等 今は二割以下しか信じていない。今年にはいって「化けの皮」が………。
三十代→津田六割。菊池六割。埴原八割。安本七割。そんなところです。
独自の史観を作ろうという無謀かつ傲慢な「夢」。時折書き込むことをお許しを。

熊野はなつかしいです。十年ほど前、中辺路の村おこしを提案しかけたことがあります。
あまり開発、観光化しないほうがいいなどと言うのは、都市民の傲慢でしょうか。

ナ・ニ - 2001/08/06(月) 19:52<

釣り

あかねさん。

久美浜の兵主神社のところにずばり「隼人」と地名がありましたね。
ちなみにエミシが殲滅させられたところは浦明あたりではなかったかな?

ヤナギムシさん。

>ナ・ニさん・・あきまへんわ おませんでした・・
>isiiにロッジにもいったんやけど・・残念おませんでした

ン年前のICIスポーツ盛岡店で見かけました〜。
阿仁の打当(うっとう)や沢内村(ここは旅マタギが宿のために訪れることによってマタギ化した
里マタギと呼ばれているらしい。)あたりで譲ってくれないのかな?

バリ師さま。

>「終戦後、市川で毛鉤を振るサンカ」という一つの釣りの風景を追い求めております。その人は川で鮎や鰻を捕ってきては、
>町内を売り歩いていたとか。毛鉤も含めて魚釣りの仕掛けは、けっして他人に見せなかったと師匠から聞いております。

サンカに於ける釣り文化(漁労文化と広めに見てもいいかも。)というのには考えたことがありませんでした。釣りひとつにおいても、多様性(対象魚の違いももちろんのこと、地域や種族による差異)というのが、
日本国内においてもあるかも知れない。

とんちんかん小僧さん。
>『別所』の事でいつも勉強させてもらってます。これからもまた『別所』の事に
ついてご教授願います。
>ありがとうございました

実は「別所」については詳しくありません。やはり実際生きていらっしゃる方のお話を聞くべきでしょう。
東北にもエミシの末裔はいっぱいいるようですが、別所の方とは社会的状況・歴史的過程・意識に差異があるようです。もっとも、差異があって当然なのですが。東北でもアイデンティティ・地域の差異があります。

私は東北出身なので、東北における(ホントは自分の生まれ育ったあたりの地域のことしか言えんだおるなぁ。)エミシとその末裔の方に重きをおいて語ろうかと思っています。

きょうかい - 2001/08/06(月) 19:20<

渋谷と鉢

ぽんさん
>金王八幡神社の社伝による
 社伝は、見たことありませんが、記述が、なんか変ですね。
 それと、目黒区史はは未見です。今度借りようかと思ってました。
 いろいろ、資料お持ちなんですね。
 槍が崎の高台から官吏のごとく坂下の別所を見下ろしました。そこには
 まさに今、中目黒駅へ入らんとする日比谷線がいるではありませんか。
 そうなんです。あの忌まわしい事件のとこが、別所なのです。
 それと、ビクター-スタジオ前の千寿院下のガードの話・・・
 知り合いが、かつてガードの下で居酒屋を見つけました。
 「こんな所にできたのか」と後日そこを通ると何にもない!!
 考えたら当たり前で、ガードの歩道にお店ができるわけありません。
 このあたりは、22年前から飲み歩いてたとこなので次の次くらいの
 順で調べようと思っています。
ヤゾーさんとんちんかん小僧さん
 渋谷の鉢山の由来調べました。
 「法道仙の鉢、この所に飛び来るという」と(砂子)に記述があるそうです。
 これだけだと意味がわかりにくいのですが、「信貴山縁起」に命運という聖がでてきて
 やはり鉢を飛ばして山から村や貴族に富をもたらす云々という物語があるそうです。
 「神々の精神史」小松和彦・「経済の誕生」小松和彦、栗本慎一郎より
 信貴山は奈良県生駒郡なのですが、同じような説話がなぜ、東国にもあるのでしょうか?
 どこから調べりゃいいのか、誰か助けてください。
 偶然なんですが、9/14から10/24まで赤阪サントリー美術館で信貴山縁起展があります。
   http://www.suntory.co.jp/sma/japanese/exhibition/shigi-san/
 昨日は、渋谷で盗賊道元の棲んだ洞窟をたくさん見つけました。(ただし心眼)
 百件店付近で私が洞窟さがしをしてる脇で若者たちが、洞窟探しに昼間から熱心でした・・

ピンクのトカゲ - 2001/08/06(月) 18:38<

ポンサ

メンメシノギのバリ師さん
サンカ関係の資料に出ているように三河地方では、ポン、ポンス、ポンスケ等と呼んでいます。
巴川流域(西三河)については、わかりませんが、豊川流域では、釣自体をポンツと呼ぶ場合があります。
思うに、サンカあるいは、イツキサンカ等の魚釣の妙技を目にした釣人が、尊敬の念を込めて、ポンサといったのが、拡大的に使用されるに至ったのでは...
「何々さん」っていうの『何々さ」って、よく使いますから
はなしサンカから逸れますが、浜名湖の今切あたりで確かテンカラ竿にガイドつけて、メバル狙う釣法ってありましたよね?
最近、遠ざかってるので、記憶が曖昧ですが

バリ師 <http://homepage2.nifty.com/TENKARA/index.html> - 2001/08/06(月) 15:35<

サンカ質問箱:ポンサ

愛知県足助町で和竿を作る竿師の方の文章に「ポンサ」というのが出てきますが、このポンサというのはサンカのことなのでしょうか?以下引用。

1.この巴川流域には、昔から「ポンサ」と呼ばれる釣り師たちがいる。本来は魚を獲って職にしていた人たちを呼んだものだが、現在では釣りの名人上手を指して呼ぶ名になっていて、「あいつはポンサだで、よう釣るワ・・・」といった具合いに使われる。

2.往年のポンサたちの釣り道具は、一本の竹を切って枝をはらった延竿に、糸と鉤をつけた簡素なもので、鉤はといえば、木綿鉤をローソクの火であぶり、ペンチで曲げて作った「アゴ」も「耳」もないものである。もちろん、魚を入れる竹ビクも、自分で竹を割って「山菜カゴ」のような形に編んで使っていた。すべての道具が自己流の特別製であった。

以上よろしくお願いいたします。「メンメシノギ」のバリ師より

利田 - 2001/08/06(月) 15:18<

隠れ里

「隠れ里」って在るのだろうか?
最寄の駅やバス停から歩いたら2〜3時間くらいかかって、
変な宗教っぽい風俗があって、
そういう所に行ってみたい。
つげ義春の「犬目宿」みたいな所





ピンクのトカゲ - 2001/08/06(月) 07:42<

鍛治師

あかねさん
はじめまして
秀吉の母が美濃の鍛冶・関兼貞の娘っていう説があったと思います。
また、小和田哲男さんの著作だと思いましたが、近江浅井郡草野郷の鍛冶屋・源兵衛に弟子入りした伝承があるって書いてあったと思います。
私より2つ下で、お祭り一緒にやってたのに『かじやの哲っちゃん』略して「カジテツ」家事手伝いじゃありませんよ。まぁ家業のかじや手伝ってるんだから家事手伝いでもいいか
野鍛冶について技術的な質問があれば聞いときます。

さんかうぶ - 2001/08/06(月) 03:01<

作州など;(追加ひとつ)

7) 小×首相に良く似た青年がたくさん居た(今の流行かあ?)
以上、御笑納下さい。

さんかうぶ - 2001/08/06(月) 02:49<

作州など

今話題の地域を通過しながら津山でセブリしてきました。(簡潔にしておきます)
赤松氏の地域から上月、佐用、作東、美作、津山までJR姫新線に乗ってです。
1) 播磨新宮より西は屋根瓦に”えびす顔”と”打ち出の小槌”多い
2) 江美はEMISHIの変化したものか?
3) 京阪神名古屋地域の渡来系顔から原住民系顔にグラデーションする。
4) 河童の祭り行列の中、青森ネブタ祭りと同様の行燈を担いでいたのは、ナント
忍者装束の青年だった(驚いた、と同時に感激して涙が出た)
5) 関西あたりの夜店と少々違い、焼き肉、焼き鳥、バーベキュの露店多し、
とても美味そうです、油煙モウモウ、月明かりに独特の雰囲気。
6) 気になる名字が多かった(勉強不足で区別不能)
以上、ここの板に触る事例少々。

ぽん - 2001/08/06(月) 00:55<

長いけどいいのかなあ。

こんばんは。ぽんです。みなさん、夏ばてしてませんか。ぽんは、金曜日にダウンしてました。
朝起きて体がだるいなあと思ったら、あれよあれよと言う間に熱が平熱より3度程上がり、
次の日の朝には平熱になっていました。汗をかいたからか、体重が1キロ減っていました。
なんだか不思議な風邪です。お気をつけください。
やぞーさん、いつもきまぐれにきて、すみません。皆さんの書き込みを理解するのが精一杯で、しかも、うろ覚えの
横道の話しかできないのですが、なんかいつも黙っているのもさみしいんで、つい書いてしまいます。
Donglyさん。
大木戸さんていらっしゃるんですねえ。ご当家の由来もわかってらっしゃるようで、いいですね。
役職名でもあったんですね。江戸城から見て方角が悪い(鬼門であるとか)ところに大木戸があったと聞きました。
木戸の外は部落でしょうから、番太もいたんですね。兵法上も必要そうだから、責任もおもそうですね。
きょうかいさん。
霞ヶ丘団地のトンネルは上が墓地なんですよね。だから、出るらしいと・・・。
それから、先に紹介した朝日新聞の本に寄ると、渋谷氏は後三年の後、源義家の部下、河崎重家が京都の御所に
入った賊を捕らえた。その賊の名が渋谷権介盛国。その時に堀河の院より渋谷の姓を賜り、渋谷土佐守従5位に
任じられた。で、関東にくだり、今の渋谷に住んだ。重家が八幡に祈って得た男の子が金王丸。(金王八幡神社
の社伝による)〔本をほとんどそのまま写したのですが、途中、ちょっとなぞじゃないですか?〕
もうひとつは、相模国渋谷庄の渋谷氏の支族がこの土地を領したからと出ております。
目黒は、馬畦(めぐろ)説と目黒不動から取った説というのが有力らしいです。その昔、牧場を管理するものが畦道を通って
馬を見回り、その畦道の中を自分の縄張りとしたというのが馬畦説(目黒区史 昭和36年)
ほかに「め」は窪地、谷で、「くろ」嶺とする地形説。すぐれた黒馬がたくさんいたからというのもあるらしいです。
おミヨさん。
東京人8月号、本屋に急いでいってみます。「空中電車」乗りたい。しかし、今まで聞いたこともありませんでした。
(て、当たり前。渋谷区民になってから、そんなに古くないのです。てへへ)←あっ、顔文字っぽい。

ところで、佐野真一の東京ガスOL事件の本を読んでいたら、渋谷に関して興味深い記述がありましたよ。
事件のあった辺りは、ダム建設のために埋没した岐阜の方の村の人たちが旅館業をやっていることが多いそうです。
サンカつながりしたら、興味深いのに。
ところで渋谷に「山家」ていう飲み屋があるけど、山家はサンカとはっきりと関係ないんですよね。
単に山里の家ですよね。

ヤゾ− - 2001/08/06(月) 00:07<

虹の戦士

みなさん、こんばんわ。

バリ師さん、はじめまして。
とても貴重なお話を聞かせて頂きました。
サンカの人なら、毛鉤を作るのもテンカラ釣りも上手な気がします。
HPを見させて頂きました。
アイゴの絵や魚拓が素晴らしいですね。
ここのHPにも釣りに関したページがあります。
今後とも、よろしくお願いします。

没義道法主さん、はじめまして。
八切止夫さんの贈呈本がたくさんあるなんて凄いですね。
また、お話を聞かせて下さい。
今後とも、よろしくお願いします。

>その地域の成り立ちによって、差別されてたり、しなかったりするようで、
>一概には言えないと、専門書にありました。

その辺りにとても重要なものが隠されているのでしょうね。
この国の差別の原形とは縄文を抹殺しようとする意識から生まれたように思ったりもします。
それは縄文に対する後ろめたさであったりコンプレックスのようなものなのかも知れません。

アメリカインディアンの言い伝えによると
地球の環境が破壊されてどうしようも無くなったときに、
虹の戦士たちが現れて地球を救うといいます。
またホピ族の予言では、
母なる大地が瀕死の病にかかり、
動物や植物たちが姿を消し始めたとき、
人種も信仰も肌の色も異なる虹の戦士たちが世界各地から集まって、
大地を再び緑に潤すための仕事を始めるのだといいます。
その虹の戦士になれる魂を持ち続けたが故に、
縄文系の人たちも先住民系の人たちも差別されるようになったのかも知れませんね。

バリ師 <http://homepage2.nifty.com/TENKARA/index.html> - 2001/08/05(日) 23:53<

拝復NA−NI様

NA−NI様、早々にお返事ありがとうございます。

先日、友だちが貸してくれました「又鬼と山窩/後藤興善」(但し復刻版)の巻頭に「播州サンカ夫婦」の写真が載っておりました。(この魚は大きなハゼのフルセに見えますが・・・)何度も何度も見ているうちに、こりゃ「サンカ」を調べなあかんなとこのページに辿りついた訳であります。

「終戦後、市川で毛鉤を振るサンカ」という一つの釣りの風景を追い求めております。その人は川で鮎や鰻を捕ってきては、町内を売り歩いていたとか。毛鉤も含めて魚釣りの仕掛けは、けっして他人に見せなかったと師匠から聞いております。

過去の掲示板も一通り読ませてもらいまして、久々に脳細胞が活性化いたしました。ただ私は軸足を「魚釣り」に置いているためか、やや違和感があることを皆様ご容赦願います。せばまた。

とんちんかん小僧 - 2001/08/05(日) 23:18<

陰陽忍軍歌 (6)

Donglyさん NA-NIさん
『別所』の事でいつも勉強させてもらってます。これからもまた『別所』の事に
ついてご教授願います。ありがとうございました。

あかねさん
こちらこそ、初めまして。今回の播磨の話は、忍びの話の中で最も重要な位置にある
話になるでしょう。お楽しみにしていて下さいね。今後ともよろしくお願いします。


副題:“里隠れ”の常吉

 かつては、山陰の因幡・伯き・出雲・隠岐・石見の五ヶ国に、山陽の播磨・美作・
備前・備中・備後・安芸の六ヶ国を領有し、二百万石を誇称した尼子氏は、出雲国の
月山富田城を本拠として始祖経久以来六代にわたってその武威を誇っていたが、義久
のとき(永禄九年=1566・11月)、尼子に臣従していた毛利氏のために尼子氏は滅亡
させられた。〔この後、尼子遺臣たちは、尼子氏主流の血をひく僧慈昭(じしょう)
を見つけ体制を立て直すが史実では滅びの運命でしかなかったが〕 −つづく。

ヤナギムシ - 2001/08/05(日) 22:19<

残念・・

ナ・ニさん・・あきまへんわ
  おませんでした・・
  isiiにロッジにもいったんやけど・・残念おませんでした
    でも・・いろんな本屋によって
     面白そうな本、見つけてきました
  紀伊国屋の民俗学のコーナーにいる時
   どかちんのユニホームの兄ちゃんが、私の取る本に興味あるのか
    覗きこんでいました・・・・
          熊野ファンかななんて・・
           考えてしまいました・・そんな訳無いか!!

           袋ナガサ見た人教えてね・・・
                           やなでした

没義道法主 - 2001/08/05(日) 20:59<

はじめまして

前々から時折こちらをのぞいておりました。でもテレビ見逃しました。残念。
ここ十年、日本先住民族史、と言うようなものに興味をもっています。
きっかけはかの小山先生に縄文関係の本をいただいたことでした。
それ以前にも、なぜか我が家には八切氏からの贈呈本がたくさんあり、
「なんじゃこりゃ」と思いながら気にしていました。もう歳も歳ですし、
そろそろ自分の好きなことを研究していこうと思っています。ただかなり微妙で危険なのですが。

大阪府池田市の山端、今でこそ立派な道がありますが中世まではまさに「行き止まり」だったろう
場所に「伏尾」があります。やんごとない方に元気な皇子が生まれ「不死王」と喜んだことが
地名のおこりと言われていますが、どうもビンときません。
摂津源氏の本拠地、多田に近いこともあり、「俘囚」のなまりでは、と考えています。
FUSHIU→FUSHIWO
と言う変化………やっば無理かな。

NA-NI - 2001/08/05(日) 19:15<

テンカラ

バリ師さま。はじめまして。

テンカラは伝統的餌つりから転じたとも聞くのですが。
職漁師(渓流魚を釣って、近辺の旅館、温泉宿の食材として卸す)が、高度成長期までは1.5号〜2号の通し
(ハリスとみち糸が一緒になっている)で、オモリはナシ。少しひねりを入れた袖針12号をオモリを兼ねて
虫エサを流し、アクションを少し加えて釣っていたと聞きます。
12年前にそれで、婚姻期の尺ヤマメを釣り上げたことがありましたっけ。。

ナ・二 - 2001/08/05(日) 19:07<

ナガサ・丹波

ヤナギムシさん、こんばんは。

>IBS・ISII SOPRTSかいな あした、行って見ます

「ICI 石井スポーツ」という登山用具とスキーを扱っている店です。
関東でしたらあると思います(神田神保町あたりにあるかな?)
ン年前にフクロナガサが売ってあるのを見かけました。(どこかですって?ひ・み・つ♪)
今、置いてあるかどうかわかりませんし、西根さんのナガサではないかもしれません。

あかねさん、はじめまして。ご教示ありがとうございます。
隼人の処とエミシの処は近接していた(いる)かも知れませんね。強制移住されたということは
政治的になにかの労力に使っていたということでしょう。

横レスですが、エミシが絡んでくるかもしれないので。

>「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ〜、強いぞ〜。はこう、はこう、鬼パンツ。
 貴方も私も〜、みんなではこうよ、鬼パンツ。♪♪♪」  

災いがやって来る方角−鬼門−と呼ばれた北東は丑寅(艮)とも言います。大和から見た東北っちゅーことでしょうか?丑−鬼の角、と寅−鬼のパンツと聞きます。

>鉄生産の増加する時代は、兵主神社配置時期とも重なってるようです。
>この社のある付近には、播磨や丹波、特に但馬でもそうですが、隼人系地名が残ってたりします。
探せば、
>エミシ系地名もあるのでしょうけど、忘れました…。すみません
>それから丹波にも白山と白山神社や、修験の大道場だった丹波大岳があります。

兵主神社ですか、存じませんでした。隼人系地名もあるのですね。実はハヤトの強制移住についても関心を
持ち始め、
ハヤトの末裔の方の掲示板で尋ねたり、別のハヤトのサイトを覗いているのですが、よくわかりません。
別所の話題飛び交っていますが、ハヤトの移住地に関してご存知でしたらいろいろご教示くださりません
でしょうか?お願いします。
エミシ地名に関しては私もよく分からないのです。ただ、ヤマト王権が政治的意図でつけた地名で痕跡が
探れます。また、アイヌ語に近似した言語、という意味で、前述したと思いますが、九州 求菩堤山八合目の「乳呑坂」はアイヌ語でいうチノミシリに相当すると考えています(地形が酷似しているとききました)。
求菩堤山も英彦山(吉野・熊野・羽黒・日光と並ぶ九州修験の総本山)とともにエミシの臭いが強い。

丹波といえば、香住町あたりか久美浜でしたか?エミシが蜂起・逃走を図って、殲滅させられた処があったはず。瀬戸内の神島あたりもそうでしたかな??

あかね - 2001/08/05(日) 18:46<

鍛冶・鋳物師

ヤゾーさん
 山民、職能民、鬼が出て来ると、喜んで脱線ばっかですみません。彼らこそ縄文人の子孫
(色々混ざってはいるけど)、天皇制の生まれた謎を解く鍵を握る云々の話、同感です。ワ〜イ(^o^)
 ほんでお気づきだと思いますが、訂正です。近衛天皇は12Cでしたm(__)m 寝ぼけとりました。あかん
そして『姓氏家系大辞典』に、近衛天皇の朝、藤原姓(田○家)を賜ふと称す、とあるが正解です。
この鋳師家は、和銅年間より鍋釜鋳造を業としたと伝わりますが、まぁ、飛鳥道北端辺りに
古くからいた鋳師の一つなのだと思う。
 鍛冶の中でも、鍛冶職の神人が、朝廷勢力に押されて流浪の民となり易く、そのうち手職を受継いだ
者は自活できたけど、そうでない者は奴婢の状態に陥る事もあったらしい。安定生活を得た鍛冶と、
さすらった人々の差が、この辺に始まるのでしょうか。なんだかなぁ…
 関係ないかもしれないけど、秀吉は日吉信仰を持つ石積の村に生まれたのは有名ですが、
美濃の、ある鍛冶村で、鍛冶を習得した、という伝説もあるそうな。忙しいこっちゃ

おミヨさん
 雷さんのパンツは虎皮パンツ♪。雷神は山海教や、中国の天地開闢の神の息が風雲に、声は雷鳴と
化した神話に由来するそうな。雷鳴は龍神で、太鼓がつきものだけど、虎皮で太鼓をつくったのだっけ?
忘れた…。雷神は中国の山民=鍛冶の姿なのかもしれません。風の神のほうはふいご、シ尤・兵主神で、
風も水も精練に欠かせませんよね〜(^o^)V。
 鎌倉期の「北野天神縁起絵巻」の雷神は、虎パンツをはいてませんね。何でだろ。衣の色に意味が
あるのかな。衣の主な色は、中世の一般的な青みの濃い緑色で、狩衣などに用いたトクサ(木賊)色
(→後に青竹色と呼ばれる)のように見えますが、退色してるでしょうから、もっと深い緑だったかも。
あと、白と柿渋なのでしょうか。衣の色も奥が深いですね。
 あ、私もよく父方の祖父におなごのくせに〜って言われたもんです。苦手やわ〜、この言葉。

min-minさん
初めまして。つっこませていただきます(笑)。関西人と言っても地域で性質はだいぶ異なります。
最も賑やかなのは大阪南部かもしれないけど、少なくとも、京都・丹波・但馬は
外したほうがいいかも、です。特に但馬は言葉がスローテンポです。

バリ師 <http://homepage2.nifty.com/TENKARA/index.html> - 2001/08/05(日) 13:19<

サンカとテンカラ(和式毛鉤釣り)

冠省。元々は山の職漁師の釣りやったと言われるテンカラについて調べております。

そもそも私にテンカラの手ほどきをしてくれた師匠は、戦後すぐ、近所の「サンカ」から毛鉤を習ろたと申しておりました。最初は「あっち行かんかえ!」と怒られながら、その技を市川(播州姫路)の河原で盗み見していたようです。

もちろん竹の竿に、柿渋で染めた糸を振っていたようで、「毛鉤でジャコ100匹掛けたら、上へヒラベ(アマゴ)釣りに連れていっちゃる」と言われ、川で「正正正・・・」と数えながらジャコ掛けの修行をしとったもんやと遠くを見るような目で話しておりました。

その師匠が亡くなって五年目の暑いお盆がやってきますが、サンカと毛鉤釣りに関する情報・記述・伝聞などご存知の方がおられましたら、ぜひ教えてくださいませ。

追記:私のHPは「アイゴ大全」というバリ釣りのページです。何故か「画像掲示板」にバリの写真が載っておりましたので、お暇なら覗いてみてください。頓首。

min-min - 2001/08/05(日) 12:53<

関西人と中国人

はかねてよりよう似てると思っている自分。← (ちゃうだろが!というツッコミがすぐきそう)

おミヨさん、
>>ところで関西のお葬式の車は装飾が派手に飾りたて東京とまたちがうようです。

そうか、やっぱり葬式も派手ですか。僕は大陸の中国の葬式はようわかりませんが、その大陸
のどちらかというと南部から流れてきた人間が多い台湾でのそれについて多少知っております。
台湾式葬式の中でも特に「道教」の葬式は派手です。車はそれこそ『花電車』の如く飾り立て
その数だって半端ではありません。時には百台を越える数の車の大パレードとなります。

今でこそもう無いだろう、と言われているのですが、僕が居た十年くらい前までの田舎では
スッポンポンの『ストリップ・ショー車』がやって来た。まさかこれが葬式関連の“催し”
とは思えず、なんじゃこれは?と問い質したところ、「故人がとってもアレが好きだった
ので、その供養のためです」と。(爆)

そうそう『泣き女』だってスゴイんです。葬儀のあいだ中(これが何日間にも及ぶ)この
泣き声をラウド・スピーカーで垂れ流す、という暴挙?に出るのです。

この上述の内容がそのまんま“関西的”だとは言いませんが、なんか感覚的に共通する
ものがありません??

ちなみに、福建省あたりからやってきた中国人同士が普通の会話?をしていると、近隣
の日本人が「外国人どうしがケンカしてます」と110番しちゃうことがあるそうですが、
その福建省と同根の人々が多い台湾で、台湾人に『うるさいねぇあの人達!』と指をささ
れた唯一の人達は誰あろう【関西のオバサン達】だったのです。(爆)

これ以上書くとヤバイかな?止めます。(^^ゞ

min-min@横浜

min-min <http://homepage2.nifty.com/TUBA/> - 2001/08/05(日) 12:10<

呼ばれたような気が。

donglyさん、

>>今MIN-MINさんが「別所」探しをしておられるようです。バトンタッチをお願い。

ど、どこからこのような情報が・・・?

「別所」探しではないのですが、確かに「ルーツ」探しはしてまいりました。
先月の16,17日にかけ石川県は能登島まで車で行ってまいりました。
先祖の地にあるお寺を中心に訪れたのですが、ご住職にお話しを聞いたところ
現在は浄土真宗であるが、以前は天台宗の寺であったこと。更に昔は修験道の
「白山信仰」の霊場であった等々、興味深い話しがゾロゾロ出て来た感じです。

墓の名前を見て祖先もせいぜい天保のあたりまで辿れるかな、なんて思ってい
たのが更に一千年以上時空を越えての話しになりビックリ。祖先はどうみても
“渡来系”かな?と思われるのですが、皆様はいかがお考えになるでしょう?
時間がありましたら拙HP覗いた上でご教授されれば幸いです。

min-min@横浜

おミヨ - 2001/08/05(日) 07:53<

Donglyさん

有り難うございました。
ところで関西のお葬式の車は装飾が派手に飾りたて東京とまたちがうようです。
2年程前に東京の友達と「有馬温泉」に行った時、お葬式に出会い「これは何?」って
吃驚していました。お葬式も各地の風習があるようで面白いですね。

サクラさん あかねさん
雷小僧さんは虎のパンツはいてませんでしたっけ?

あかね - 2001/08/05(日) 04:00<

寝ぼけてます

NA-NIさん
ごめんなさい。兵主神社は丹波には、なかったと思います。隼人地名は但馬と、播磨の姫路にあったと思う
ただ、播磨に二つある兵主のうち、東播磨北部にある社付近は奈良初期、丹波だった時期があるので、
その意味では丹波となるかもしれません。兵主19社の内、兵庫県に10社あり、うち8社が但馬にあります。

あかね - 2001/08/05(日) 03:26<

本題からズレてごめんなさい

Donglyさん
教えていただき有難うございました。赤松は約150家あり、在田・四天王家・36家に加えて、88家プラス
家の子というわけですね。播磨・岡山は至る所、末裔だらけだなぁ。本宗家断絶故なのでしょうね。

とんちんかん小僧さん
初めまして。陰陽忍軍歌、楽しみにしてます。今は播磨が舞台なんで特に楽しいです。

ヤナギムシさん
鉄を打つ…と南部鉄、同感です。嬉しいなぁ(^o^)

サクラさん
虎のパンツで体操ってもしかして、この↓歌から?
「鬼のパンツはいいパンツ、強いぞ〜、強いぞ〜。はこう、はこう、鬼パンツ。
 貴方も私も〜、みんなではこうよ、鬼パンツ。♪♪♪」  お下品で失礼しました
これは何かの替え歌で、今でも歌えます…。中学の頃、体育の先生から、振り付きで教わりました。
コレ、体操らしいんですが、恥ずかしい振り、だったような気がする…

ヤゾーさん
なるほどなぁ。9C、京都にいた河内鋳物師大工の一家は、近衛天皇から藤原姓を賜っており、
以後も代々鋳師で、江戸期は惣官鋳師として、釣鐘を中心に多くの名高い作品を残してます。
でも、これとは別に、鋳師の藤原姓一派?自体は、更に古く遡るらしい。
他には山城守や秦などの鋳工が飛鳥におり、鉄工では物部の姓を持つ者もいたそうな。
いずれも最下級の官人か、無位です。そこへ百済からの錐盤(ろばん)博士たちや瓦博士等が加わってます。
縄文から弥生、後の世へと鋳師、鍛冶等にも時代や技術革新、権力の推移、土地の支配者の要請等に
よって、色んな系統が混ざり合って移動してるようです。
彼らのうちで権力配下となった者の多くは夫々の地に土着し、中には本業の他に農耕に携わり土地を
持って地域の重要な地位についた者もあります。その理由は、当初は姓を得た故なのかもしれません。
つまり、支配側に取り込まれた結果なのだろうなぁ。
差別については、後々の四国や美濃等の「鍛冶の村」や付近でもそうですが、その地域の成り立ちに
よって、差別されてたり、しなかったりするようで、一概には言えないと、専門書にありました。
あと、関係ないかもしれないけど、播磨は播磨獅子?とか言われ、やたらと獅子舞が各地に残ってます〜。

NA-NIさん
初めまして。鉄生産の増加する時代は、兵主神社配置時期とも重なってるようです。
この社のある付近には、播磨や丹波、特に但馬でもそうですが、隼人系地名が残ってたりします。
探せば、エミシ系地名もあるのでしょうけど、忘れました…。すみません
それから丹波にも白山と白山神社や、修験の大道場だった丹波大岳があります。

サクラ - 2001/08/05(日) 03:26<

ストラップで...

ピンクのトカゲさん

お土産やさんのナマハゲさんのように、
    今は愛らしく優しくなられているとか...
          それでは捜してみましょう
                   ピンクのトカゲのストラップ

やぞーさん、
    竹細工のストラップなんていかがでしょうか?
        どんぐりや教会やおミヨ人形のストラップもほしいなぁ....
            もちろん一押は、タヌコです。

ヤナギムシ - 2001/08/05(日) 02:28<

おおきに

MA-NIさん・・IBS・ISII SOPRTSかいな
  あした、行って見ます

ピンクのトカゲ - 2001/08/05(日) 01:22<

ナマハゲ

サクラさん
ピンクのトカゲもナマハゲと同様、昔はコワカッタですよ。
いまは優しいけど(特にサクラさんのような女性には)...
ところで、ピンクのトカゲのイメージ沸きましたか?
考えてみると、おれもサクラさんのイメージって...
想像しますよ。夢膨らませて

NA-NI - 2001/08/05(日) 00:17<

別所に関してもう少し。

Donglyさんはmin-minさんにご依頼されたようですが、かってに語ります。
すみませんね。

別所のキーワードとしては前述しましたが、「白山権現」というのもあります。
また、鉄生産の盛んだったところも抑えればいいと思います。出雲や九州北岸は好例です。
大和王権における鉄生産が増加したのはエミシ征討-強制移住のピークに差し掛かる7世紀からと
も聞きます。それから山間僻地や防人の配置するに軍事地理的に重要と思われる場所、王陵の付近
というのもあります。ロードマップで探していくうちに「別所くさい」ところが段段わかってきます。

これの応用編で、奥州藤原氏の教化支配と統治領域(白河関から外が浜[青森市]まで)もサワリでわかります。

ヤゾ− - 2001/08/05(日) 00:05<

古本屋にて

『縄文夢通信』と『闘論・二千年の埋葬』というの求む。合計600円也。

『縄文夢通信』山の民・サンカとは何者であったのか?

一般に山の民と総称される非農耕の民たち・・・サンカ、木地師、鍛冶師、山師(採鉱者)、マタギなども、
ナガスネヒコ、役小角らの末裔としての技術者集団である。

『闘論・二千年の埋葬』

栗本慎一郎 ・ そう農耕にたずさわっていない人々、つまり山の民や職人、芸能民たちは、弥生時代以来、
周辺に追いやられてしまった異端者ですが、彼らこそ縄文人の子孫であり、天皇制の生まれた謎を解くカギを握っている人たちです。
彼らのあいだには、天皇家とのかかわりの伝説が執拗に語り継がれている。
鋳物師は近衛天皇、木地師は惟喬親王、獅子舞いは後嵯峨天皇・・・
ところが中世を境に、そういう職能民たちは、逆に差別の対象になっていく。


>泣き女

小さい頃に、大して親しくもないのに、葬式に現われては泣き通す婆さんがいて、
みんなが泣き婆さんと呼んでいたのを微かに覚えています。
僕は記憶力は良い方なので、結構いろんなことを覚えてます。
でもスーパーへ買い物に行って、一番欲しかった物を買い忘れることがあります。
昨日も、醤油が切れたのでスーパーへ行ったのに、見事に買い忘れてきました。
それで仕方なく醤油をかけずに豆腐を食べました。
「おミヨさんちのピーちゃんか!」自分で突っ込んでしまいました。


>どなたか・・西根さん作のナガサ売っているところ
>           ご存知の方お知らせください

ウメガイでは駄目ですか?
伝統和刃物もいろいろと揃えているようです。

http://www.toyokuni.net/syuryou/ume.htm

「悪いゴ、いネガぁ!?」
「言うゴド聞かネゴ、いネガぁ!?」

 は〜い (^_^)/

NA-NI - 2001/08/04(土) 23:58<

言葉・フクロナガサ

桃色蜥蜴さん、レスありがとうございます。

一連の話題から逸脱しましたが、おっしゃられたとおり、私もここのBBSで述べるにはふさわしいのでは?
と考えましたので。また、私のレスとは別に本題のレスをどなたかがされるとかということで、妨げられないのでは?とも考えます。

世界あまたある言語で文字を使用しているのは5%とかとききます。
で、独自に作り出された文字はその中でもすくなく、多くはオリジナルを借用したり、アレンジしたり
改造したり(かな文字とチェロキー族の文字はそうかな?)というもののようです。

>実際の会話の中では、子音の連続するする場合もありえ、電話、コンロも確かに鼻音化「ng」します。
これは「ng」ではないようですよ。

それにしても かな文字は使いにくい。

>韓半島の威鏡道出身者が日本語を覚えると東北訛になるという話

するどいご指摘。ズーズー弁と韓国語は似ているなぁと思ったりします。
威鏡道方言は聞いたことがありませんが。
母音の縮約化、語頭無声音-語中語尾有声音など。

ヤナギムシさん
>又鬼山刀・(マタギナガサ)
>注文を入れようとHPを開いた・・
>唯一の製作者三代目、西根 正剛氏62歳で他界されていた・・ご冥福を、お祈りします

私の勘違いではなければ、後継者をあえて育成されなかった方ではありませんか?
この方のナガサはもはや現存分しか存在しなくなった、ということですか。。

ISHII SOPRTSに、置いてあったフクロナガサは違いましたか?
(買おうと思ってお金がなくて断念していた。)

別所の話題が継続しているようですが、
修験で高名な山にも白山信仰が根付いているようですね。逆に白山あるところ修験もあるか。

サクラ - 2001/08/04(土) 23:49<

むかし...

鬼は闇の中、神ともいわれ、超自然的存在として恐れられていた..
      鬼に、ただ娘を差し出し、それ以上の災害から護ってくれるようにと...
時代が進み、人間の世界に灯りが多く点るようになると、
      鬼は神の力を失い、人間は対等になり、鬼を切り勝つものまでも現れた...
そして、ますます光が強くなって、人間が力を増すほどに、
      鬼は、豆を蒔かれて、逃げ惑う存在となり...
          虎のパンツで体操までするようになった..
神は妖怪になったのだろうか?

闇がすくなくなったこのごろに、
闇の世界に隠された、妖怪になる前の気高く、
生きた鬼たちは、今もきっと生きている...この少ない闇の中で。

ナマハゲさん、貴方は昔はもっと恐ろしかったはず..
       今はお土産屋さんで、愛らしくなってしまったけれど..
          時には闇にかえり、貴方の心を語ってほしい...
                わたしは耳すませ、聞きたい...

ヤナギムシ - 2001/08/04(土) 23:28<

・・・・・・・

又鬼山刀・(マタギナガサ)
  注文を入れようとHPを開いた・・
  唯一の製作者三代目、西根 正剛氏62歳で他界されていた・・
ご冥福を、お祈りします
    
    鉄を打つ・・・・
     刀鍛冶  アイゼン  ピッケル  なぜか
      ひかれます・・
  南部の鉄瓶なんかも、とてもあたたかく、感じます

      どなたか・・西根さん作のナガサ売っているところ
             ご存知の方お知らせください


                      ・・やなぎむし

Dongly - 2001/08/04(土) 23:23<

泣き上手と下手

 おミヨさん
琉球で泣き女の上手な者は二升の米を貰い、下手な者は一升貰う事になってたよう
です。それぞれ「二升泣き」「一升泣き」と呼ばれます。野鍛冶に仕事の礼として
普段から準備した屑米を与えた地方もありますので、上等な米を与えたと考えない
方が良いと思います。正月餅で「荒金」という米粒入りの餅がありますが、これが
名残かとも思っています。「荒金」は鍛冶筋の伝統かもしれません。
また葬礼時泣くという風俗は全国共通ではなく、限られてるようです。異なる風俗
を解きほぐすか、またはよりあげれば、日本は多人種列島である証明ができると期
待しています。この古俗が朝鮮半島風である事は、親を亡くした百済人桓武天皇が
「アイゴーアイゴー」と大泣きした記録からも明らかです。残念ながら民俗学は、
この風俗は何所から?を徹底的に問わないできました。恐らく日本が多人種である
事に予感して、タジロイダと思います。民俗学が成立動機の素晴らしさにも拘らず、
歴史学(文献史学)を乗り越えられなかった原因の一つは、日本列島が単一民族
から成立するという仮説を、自ら打ち破れなかったためでしょう。
 とんちんかんこぞうさん。
 山陰・大阪・和歌山も非常に多い所です。特に紀州熊野は「修験」「山人」の形で
別所者の多い中世期までは一巨大拠点でした。当時勃興した侍階級(これも別所者が
多い)に対抗するため、天皇勢力は熊野詣でや吉野詣でを繰り返しました。「詣で」
といっても神仏の加護ではなく、自らのために死んでくれる者を「権威」を利用して
「左担:さたん」させるための「お願い」です。それに上手く引掛ったのが産所の
長吏の楠木だと思います。または楠木はその天皇と同一人種だったかもしれません。
 別所地名は掃いて捨てる程で、まず鷹巣・高鉢・高八・高尾など高=鷹が付く山を
地図で見つけ、その山の周囲の地名を探します。また鬼が付く地名も要注意です。
鬼は「別所」と共に反抗する別所者(『三代実録』『続日本紀』には「荒夷」と記し
ています)の意味の地名かもしれません。宗教的には薬師観音(如来)・十一面観音
などで、更に絞込みが出来ます。探訪会の「吉野」川も別所を示す名前です。
 別所者のうち「熟夷」に対しては別所の地名を使用していません。
どうも「別所の設計図」は熊野本宮とその周辺に「集約」されているようです。
 今MIN-MINさんが「別所」探しをしておられるようです。バトンタッチをお願い。

とんちんかん小僧 - 2001/08/04(土) 22:35<

秋田のなまはげさん

 山神(赤神さま)に五穀豊穣、水産豊漁を祈願する神事である。
 「柴を焚きて燈明として奉る」ので柴燈神事ともいうそうです。
 拝殿での祭式が進み、祝詞奏上がおわると法螺貝(ほらがい)の音が亮々
と鳴りわたる。これに誘われて幽闇の奥から鬼神が姿をあらわす。赤鬼と青鬼
である。怪奇な面、全身を包んだ藁蓑藁沓(わらみのわらくつ)、かまで作っ
たはばきをつけた鬼たちは松明をふりかざして険しい坂路を下ってくる。
 鬼神が庭びの近くに寄ると、宮司が三宝に載せた焼餅を献する。それを荒々
しく受け取ると鬼神は無言のまま、再び奥深い杉の下闇のかなたに姿を消す。
 「なまはげ」が里に下り、また、漠の武帝にこじつけられるようになったの
は後世になってからである。
 ナモミ(怠け者の脛にできる火形)をはぎ取り、こらしめるという予祝行事
とも、紅毛の漂泊民がもたらした習俗ともいう。いずれにしても出羽の国らし
い行事といえるでしょう。

とんちんかん小僧 - 2001/08/04(土) 21:41<

陰陽忍軍歌 (5)

ピンクのトカゲさん
情報及び資料ありがとうございました。ゆっくり時間をかけて読ませてもらいます。

Donglyさん
別所関連の地名というのは、山陰地方では多いのですか?大阪や和歌山にも別所地名
はあるのでしょうか?教えて下さい。


「ために、裏切りが出るかも知れんぞ」〔と、徳利〕
「すぐ、様子を探らせましょうがの、裏切りが判れば、こっちで始末すりゃええかの」
〔と、徳久〕
「いや、誰が裏切るか判るだけでよい。赤松政範にも知らせるな」
 徳利老人は軽く鼻先で笑い、東播磨三木城二十四万石別所長治が、織田信長に味方
するという約を破り毛利側へ寝返ったこと言い、そしてツナギの要件として、『三木
城との緊密な連絡をとる事』、『播磨における木陰の暗躍を極力封鎖妨害する事』、
『岡山城の宇喜多直家の行動を厳重に監視する事』を伝え、さらに、「このことはわ
しの考えだがの」と前置きして、秀吉の指揮下に入っている尼子勝久の抱える忍者、
鉢屋七平とその一党の動きにも十分眼を配るようにと言った。
 徳久は、もうすっかり暮れ果てた暗がりの中で老人を見守りながら、
「上月側から出る裏切り者のことが判明しても、赤松政範に知らさない――とは、どう
いうわけじゃろうかの」
「こっちへ来い」
 徳利老人はそれに答えず、徳久をお堂へから離れた崖っぷちに誘った。暗い谷間の方
からかすかに滝の音が響いてくる。
「播磨つぶしじゃよ」老人が小声でいった。
「播磨つぶし」徳久も小声でいった。
「毛利元就さま、ご遺命の中に、播磨つぶしがある。このご秘命は、わしが直にお受け
した。このようなご命令は、いつでも、わし一人が直にお受け申してきた。元就さまは
、わしにこれは遺言だと申された。毛利安泰のために、中国の関門である播磨を潰せと
のご命令じゃ。わしは、そのために働いておる」
「播磨つぶし?」
 まだ怪訝そうに呟く徳久に、
「もうじき、わかろうぜ」
 と、老人はこともなげに言った。  −つづく。

おミヨ - 2001/08/04(土) 20:56<

>泣き女

Donglyさん
葬式時に泣き女というのは全国的にあった風俗なんでしょうか?
職業として成り立つと面白いですね。
身振り手振りを出来るだけオーバーに大泣きですか?
一升泣くにはちと大変なような・・・。

夏祭りたけなわですね。
岸和田の「だんじり」は威勢がよくてすきな祭りです。
 

やぞー - 2001/08/04(土) 00:03<

秋田のナマハゲ(なんだか涼しい話題でしょ?)

秋田にナマハゲというのがありますが、
ロシア語で武器を振り回すことを『ナマハギ』というそうです。
それで北西風で漂流してきたロシア人が武器を振り回して暴れた。
それはまるで日本人から見れば鬼のように見えたのかも知れません。
恐ろしいから戸を閉めて、女子供は隠れて、そこの主人が酒を振舞まって帰って貰う。
その名残りではないかとの面白い話しがあります。

sakingno1さん、はじめまして。
自動リンクもありますので良かったらご利用下さい。
今後とも、宜しくお願いしますね。

Dongly - 2001/08/03(金) 22:14<

泣き女に加えて

 「泣き女」は琉球で。「泣き婆」は延岡・淡路沼島。「泣き婆さん」岡山。「なきめ」伊豆
七島。「泣き手」秋田・鹿角。また石川県で「したいしたいと言うたが さすりゃよかった
綸子の舞を」、「旦那さま これからは誰を旦那といえばよいか」、「アナアネヤ−イ カア
イヤサー」などと語る(歌う?)そうです。南方や百済の風俗とも。
 「桶屋」は棺桶も作りますが、棺台となる御輿(こし)を作るのは最も金になる仕事です。
桶屋の別名「いいだ」は多くがサンカ系の模様です。この筋の隠語で棺桶を箪笥と言います。
東京新宿に「箪笥町」があります。確か、鉢屋秀吉の親戚・福島正則はこの筋でしたね。

桃色蜥蜴 - 2001/08/03(金) 21:20<

皆さんすみません横レス付き合います。

NA-NIさん
文字は、言葉を地理的あるいは、時間的制約を超え伝えるためのあくまでも道具。
最もわかりやすい例として『ん』を例としましたが...
日本語は、ご存知のように、母音(アイウエオ)及び子音(k.s.t.n.h.m.y.r.w)及び母音の結合でしか、言葉を表記できません(外国語の表記が困難なことはこれに由来する)。
しかし、実際の会話の中では、子音の連続するする場合もありえ、電話、コンロも確かに鼻音化「ng」します。あとに「k音」が続くときのみを「ng」としたのは、勇み足でした。ご指摘ありがとうございます。
実際の会話においては、日本語においても子音の連続があり、子音同化がされているものと思います(例えば、r&l音)。
特に方言等の音韻(イントネーション等)を含め、考察することは、民族論(民俗ではない)の解明にもつながるものと考えています。
たとえば、韓国語の漢字と日本語の漢字の音読には、音韻上の一定の法則(特に、蝶々を「てふてふ」等、旧仮名遣いで表記した場合には、顕著に解ります。)があります。
また、韓半島の威鏡道出身者が日本語を覚えると東北訛になるという話も聞いたことがあります。
多民族国家としての日本の淵源をとらえる上でも、重要な課題と考えます。
大分、サンカ文字からはずれました。皆さんすみません。

NA-NI - 2001/08/03(金) 20:17<

横レスで失礼します。

>現代の日本語を音韻学から考察すると、『散髪』等あとにp.b.mがくる場合には、「m」、『観光』等あとにkがくる場合は、
>「ng」、そのほかの場合が「n」である。つまり、実際には、三つの音を使い分けているのに表記は、『ん』一つであるということになる。

「でんわ」の「ん」はw(u)の鼻母音、「コンロ」の「ん」は、rの鼻化音と思われますが、いかがでしょう?
文字が一つだから一つの音である か のように思い込んでいるというのは結構あるかも。
万葉の時代には、pとhの中間のような音(f?)があったとか聞きます。
hとp・bは全く別の音なのに濁音・半濁音・濁音(ナンセンス!爆笑)とするのは、その名残りなのかも。

ちなみにうちの故郷の言葉は日本語の「ウ」より口をすぼめる u音があるような気がするんですけれど。
表記でしばしば 「う」か「お」と書き換えられるようです(例:オイノ・オイヌ=狼、サヨ・サユ=稗粥:岩手郡葛巻町)。ズーズー弁は奥深いですねぇ。

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/03(金) 18:14<

棺台御輿と泣き女

 おミヨさん、見ました棺台となる御輿。岡山作東町探訪会で、とんちんかん小僧さ
んの話に出る白水川の西筋の、角南(すなみ)の十一面観音堂。御輿といえばお祭用
とみるだけではダメですね。ただこれを作るのはサンカ大工だとか。角南にはオゴエ
・オカミ・カケ・ノベの四集落があります。カケは奥から西2kmの所です。
 泣き女は葬礼時に米1〜2升を貰って雰囲気を盛上げる為に専門に泣く女。百済
の俗です。葬礼客の姿を見ると急いで大泣きを始め、帰るとヤメです。「1升泣き」
「2升泣き」などランクがあります。リストラ対策で復活したい風俗ですネ。
 とんちんかん小僧さん。奥から西4km、箕・まさか町との山境に鈴家山薬水寺
(真言宗・薬師如来、北向観音)があり、もとの地名は「高尾山」で別所地名。
もちろん山砦のような寺は赤松の配下で、麓からの寄進者の幟がはためいています。
 この近隣の町々に寺院や大樹が多く残されているのは、山民(修験・忍び)のア
ジ−ルだった証拠かもしれません。また調査したいところです。

ピンクのトカゲ - 2001/08/03(金) 17:19<

古代文字考

サンカ文字をはじめとして古代文字については、賛否両論あるも、アカデミックの世界では、概ね認められていない。
この古代文字論争の論点は、漢字渡来以前に日本に固有の文字があったか否かである。
否定説の根拠は、万葉仮名の表記では、八母音六一音で構成され、その後、漢字の草書体から平仮名が、漢字を一部を略し(部首等)、片仮名が創作された。平仮名及び片仮名が捜索された時代は、既に五母音四七乃至四八音になっており、それゆえ、五〇音前後(サンカ文字は『れ』が抜けるので四六音)で構成される古代文字は、音韻学上、日本語が五〇音前後となった平安時代以降の創作であるというものである。
実際に万葉時代に八母音六一音を使っていたか否かは、確かめようはないが、この八母音説は、否定の根拠となるであろうか?
現代の日本語を音韻学から考察すると、『散髪』等あとにp.b.mがくる場合には、「m」、『観光』等あとにkがくる場合は、「ng」、そのほかの場合が「n」である。つまり、実際には、三つの音を使い分けているのに表記は、『ん』一つであるということになる。
上記の八母音説から言えば、現在の日本語の表記は、音韻学上、正しくないから、これは偽作であるということになる。
さて、サイバー取引等では、暗号のデジタル化がトピカルな話題となっている。西洋においては、極秘に情報を伝達するため、スパルタ式、シーザー式等ギリシャ・ローマ時代から暗号が発達している。一方、日本においては、詳細は忘れたが、六国史において、烏の羽に墨で文字が書いてあって解読できなかった話がある。戦国時代においてさえ、これも詳細は忘れたが、上杉の軍師がちょうどポケベルメールのような暗号を使っていたに過ぎないとされている。
果たしてそうであろうか?私は、サンカ文字等が暗号に使われていたように思えるのである。では、その使用者は?
これから先は、おそらく、『とんちんかん小僧さん』の領域でしょう?深入りはしません。あしからず

きょうかい - 2001/08/03(金) 15:18<

こだわりの渋谷

おミヨさん、こんにちは
 そんなの知りませんでした。想像するに今だと東口の東急文化会館と
 西口の東横本店を結んだのですかねえ・・
 
  今、秩父(乳乳部)平氏〜渋谷氏、目黒氏を探索中。
  渋谷さんや目黒さんは資料が少ないので、情報募集しマース。
  あと、江戸期の目黒には、南朝の菊池さんがいたのですが、ずいぶん
  幕府からは警戒されてたみたいです。なぜなのだろう?
  (たとえば、鷹狩の時に家を目付けに囲まれたそうです)

  今週の日曜日は、渋谷の大和田あたりを探索しようかと思います。
  ここは、戦前は二業地で、にぎわってたみたいです。
  なお、大和田の由来は、北条に逆らって敗走した和田義盛の残党が
  洞窟に住んでたとか・・後の盗賊「道玄」はその末裔
  洞窟を探さねば・・・心眼を要します。
     
     

おミヨ - 2001/08/03(金) 13:39<

おどろ木ももの木・・・・・・・

きょうかいさん ぽんさん
昭和26年〜昭和28年まで渋谷に「空中電車ひばり号」が走っていて、渋谷駅東口の東急百貨店の
屋上から出発して山手線を見下ろす形で横切り、東急百貨店西館にあった「玉電」屋上に達する
全長75メートルのケーブルカーがあり、貴重な写真が1枚だけ鉄道マニヤ向けの本に紹介されて
いたと・・・・・。今の渋谷からは想像もつきません。

みこしは葬儀用の棺台
鹿島郡大野村立原の田んぼの中に延宝6(1678)年造立の観音像があり、これにちなんだ祭りが
泣き祇園。静岡県の浅羽町の八幡神社、岩手県平泉町の毛越寺の藤原基ひらの妻の命日を含めて
日本3大泣き祇園といい、みこしの行列は葬儀そのままの姿で、棺台をかつぎ、供養の旗をたて、
鉦、太鼓のおはやしにあわせ行進。行列にサンカした人々は口の中で経文を唱え「だれだれが死ん
じゃったよう」とできるだけ悲しい口調でつづけて、はっきりしない事を言いつづける。そして
最後に泣きまねをして、なるべく芝居じみたほうが、ごりやくがあるそうです。
なんだか笑ってしまいました。

高原(たかはら)なんですか。高原(こうげん)と読んでましたよん。

「・・忍軍・・・」つづく
楽しんでま〜〜す。

さんかうぶ - 2001/08/03(金) 04:02<

にわかサンカの準備中

いよいよ夏祭だ! しかし暑い!
”餅まき”より”水まき”して欲しいなあ。 ”金まき”でもいいけど。
祭りの後の”宴”、この調子じゃ”炎(熱)”、蚊にさされて”炎症”、オミヤゲ
もらって”○道炎”か?。
セブリも辛そう! 今から既に汗が吹く。 ”冷房効いた私の部屋へ泊りにおいでよ”
とのたまう巫女はおるかな? 喜んで神楽舞うゾ! 予定実行のつもり。

とんちんかん小僧 - 2001/08/03(金) 01:47<

陰陽忍軍歌 (4)

ピンクのトカゲさん
大変貴重な情報ありがとうございました。
今後とも御教授よろしくお願いします。


 秀吉は本陣としていた姫路城から、書写山円教寺へ移って、やがて来るべき中国
攻略の大合戦に備える一方、弥右衛門の率いる木陰衆を播磨の各所へ散らせた。
 もちろん、その主力は上月城とその関係諸城に集中する――にちがいない――と、
いうことは、上月城に近いこのあたり、「敵の目前」どころか、すでに木陰衆の“
網の中”かも知れない。
 木陰をあなどるべからず――徳久は、しばしば組子たちを戒めてきた。
 十月末の山中は錦繍(きんしゅう)の秋だが、日暮れが迫ると冬のような寒気が
谷から谷へと吹き渡る。
 徳久たちは息をころし、冷気に耐えながら、陰の忍役からのツナギ(繋ぎ)を待っ
ている。山の樹林の間に黄昏が降り込め、空だけに赫い残照のほてりが明るく拡がっ
ているころ、まるで、その空から、木の葉が散るようにひらひらと舞い下りて来た―
―何かがいた。
 徳久が思わず「あ」と声をのんだ。舞い下りて来たのは徳利老人であった。
 徳久は、ツナギの仕事に、まさか徳利老人自らがやって来るとは思わなかったし、
徳久が万全と信じた十二人の警戒網をわけなくくぐりぬけて来た、そのことも含めて、
真に、驚いていた。巻袖に裁着袴(たつつけはかま)という、いつもの軽装で小刀一本
身につけていない徳利老人を驚異の眼差しで見つめる徳久に、
「上月城下へ木陰がもぐり込んだ」
 と、徳利老人は言い、
「ために、裏切りが出るかもしれんぞ」
                 −つづく。

ピンクのトカゲ - 2001/08/03(金) 00:43<

偶然です。

ヤゾー偶然だね。私の工場も字高原(タカハラ)です。

sakingno1 <http://www.geocities.co.jp/Bookend/4982> - 2001/08/03(金) 00:39<

はじめまして

山窩について検索していたところ、こちらにたどり着きました。
ほんとに、知らないことばかりで驚きます。
リンクを貼らせていただきたく思います。
まだ全部は見ていないのですが、ますます興味をそそられました。
日本人なのに、日本のことを、私はしらな過ぎたとおもいます。
またお伺いします。

Dongly - 2001/08/03(金) 00:33<

祭りだ!餅まきだ!

 皆さん。お祭りです。夏祭りです。
 神楽や口説や餅まきなどがあります。露天商(昔の香具師!)も
でてきます。熊手や小箕を直売することもあります。
神楽の服装の文様や色、出し物・ストーリー・口説の演題・登場人物
などに注意して下さい。
また餅まきは、趣味と実益を兼ねて、必ず人を掻き分けてでも、跳ね
飛ばしてでも、拾って下さい。○形・□形・ひし形などの他、男女の
シンボルの形をした餅もあります。岡山津山市の志呂神社の餅は、この
形だそうです。また川裾祭は「ゆいちょある」祭りなのですが、サンカ
された方はお知らせ下さい。
 祭の後の「宴」は藪・林・境内・河原に「舞台」を移し、何かの「縁」
となる「艶」「炎」も残っている地方があるようです。

ヤゾ− - 2001/08/03(金) 00:25<

丹下左膳とサンカ

丹下左膳の物語りには、鬼の一族といわれ、どのような権力にもまつろわぬ山の民が出てくるそうです。
山々をわたり歩き、自由に生きる山の民と表現されていますのでサンカのことを意識したのかも知れません。
後の丹下左膳となる田中主膳は藩内の派閥争いに巻き込まれ、無惨にも斬りきざまれて、一度死んでしまいますが、
山の民の巫女をやる特殊能力をもった女性の力で蘇ります。
そして山の民の拠点の丹下谷という全国の山の民が立ち寄るところにかくまわれます。
そこで山の民の自由な生き方を通して、それまでの出世や世間のしがらみに縛られた生き方ではなく、
ひとりの人間としていかに生きるべきかを考えるようになりました。
また謎の乞食浪人から片手剣法を教わり、剣の達人にまで成長してゆくのでした。

おユキちゃん、お久しぶりでした。
夏バテ、お大事にして下さいね。

>渋谷「しぶたに」新宿「あらやど」なんて読んでしまうととてつもない田舎のように・・。

僕の暮しているところは高原と書いて『たかはら』と読みますが、
『こうげん』と読んだら少しは涼しくなるのかな?

>円談のさいは、すこ〜し、こちらにも回して下さい。

は〜い、Donglyさんにはドジョウさんを紹介してあげま〜す。

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/02(木) 23:00<

私にもエン談を

 ヤゾーさん。
 こちら西の国のTVでは残念ながら、放映はなかったようです。といっても
 普段は殆どTVは見ませんので。
 カキ子・カキ娘もふえそうですね。余談ですが、
 塩談・宴談・艶談は延談にして、縁談もありそうーーう。
 円談のさいは、すこ〜し、こちらにも回して下さい。
 それから、炎談は涼しくなってからにして。それまでは酔談だけ。
 ピンクのトカゲさん。
 福山藩主水野?が連れてきたのは福山市三吉居住の、三河の「八」
こと、「三八」と『福山史料』にあり。『八ノ者秀吉』流に言うと
「八の者」「鉢の者」で、ルーツは「野の者」「谷の者」と同じで
エミシ末裔の「別所の者」となりますが。

おミヨ - 2001/08/02(木) 19:06<

つづく

「東京人」8月号
銭湯特集「お風呂屋さんに行こう」
「つげ義春を旅する」高野慎三 680円 の本の紹介
「架空の街、渋谷に隠された闇」ナドナド
面白い話題のっています。

ユーロススペース映画館は地味でいい映画を上映、よく行きました。

渋谷「しぶたに」新宿「あらやど」なんて読んでしまうととてつもない田舎のように・・。

ふぁる - 2001/08/02(木) 13:47<

どうなんだろうねぇ

テレビはノーチェックだった。

ここのところ戦国武将系やら、古日本の豪族の話題が出ておるようですが、サンカに連なるものとして
扱うのは、「お里が知れる」ような......。まあ、こう言うこともあるんだよ程度に、初心者に提示する
話題としてはよいかなと思います。
俗の、生活史、普通の歴史があまりにも知られなさ過ぎているので、何度も確認の意味をこめていろんな話題を
提示していきたいものです。

サンカ認識:
 以下はサンカには入らない。
 渡来・逃散 = 世間の枠から外れた
 職業集団(宗教含む) = 世間と意識して距離を置く

 上記で分別が難しく専門職の人にやってもらいたいのが「職業集団」とサンカの違いですね。

 生活圏を意図して常民と別けて棲んでいたのは「職業集団」ですが、「渡来・逃散」は、いられなくなった、
 逃げた、受け入れられない等で分かれているだけで、常民に寄生して生活していたのは確かな事です。
 この辺がサンカを扱う上で難しいところですね。
 (人類学やら社会学やら。あんまりやると同和で食べてる輩の網にかかってしまう。同和右翼というのもいるし)

 




おユキ - 2001/08/02(木) 12:54<

暑中お見舞い申し上げます

おミヨさん こんにちわ。
ここのところの猛暑で、私は少し夏ばて気味です。
名前がお雪なので夏には弱いみたい。

やぞーさんの放送、私も見たかったなー
でもまた何かで見れる気もしてまーす

おミヨ - 2001/08/02(木) 11:42<
ヤナさん 
有り難うございます。ビデオ楽しみにしています。
我らのヤゾーも評判良かったし、早く観たい。

あかねさんこんにちわー
ちよっと言葉がたりなかってんけど私は神戸生まれやねん。
祖母もよう「めんどいなぁー」ってゆうてたわ
それとなにかにつけて私の事を「おなごのくせに」・・・・耳にタコ。
明石、姫路、加古川につながりがおりよるよー。
産鉄民について有り難うございます。
よーくご存知ですね。また色々かいてくださいね。楽しみーー。

サクラさんお久し振り、お元気そうで良かった。
紀和さんの「聖鬼伝」読みました。舞台は奈良の吉野郡k村八神
面白かったです。「月信仰」も面白そうですね。

菓子屋が忍び?
風月堂とか舟橋屋もそうらしいです。

丹波も忍者の本拠地で、伊賀、甲賀と異なる系統らしい。

おユキちゃん元気にしているかなーー。。

ピンクのトカゲ - 2001/08/02(木) 10:28<

多分関係ないです。

とんちんかん小僧さん
徳久&徳利とピンクのトカゲ一族は、多分関係ないと思います。
詳しく説明するには、固有名詞(××組等)が必要なため、メールします。

とんちんかん小僧 - 2001/08/02(木) 02:07<

陰陽忍軍歌 (3)

ピンクのトカゲさん
西国の徳岡一族と三河の○兵衛=ピンクのトカゲ一族とは何らかの繋がりがあった
のでしょうか? もっと詳しく教えてもらえないでしょうか。


 美作(みまさか)国の作東(さくとう)、白水川の上流に「奥」という“出作り小屋”
のかたまりのような小さな集落がある。
 白水川は南の八塔寺山を水源とし、美作と播磨との国境沿いに北流し、英田(あいだ)
郡の北辺を西流して吉野川と合したあと、吉井川の本流に注いでいる。
 徳岡久兵衛は、その白水川上流に眼をつけた。地の利がよい。赤松政範(まさのり)の
居城である上月城まで、山越えに東へ一直線に走って二里少し。また南の八塔寺村(八塔
寺山南麓)まで白水川に沿った小径を上流へ上がりつめて二里少々。
 白水川を一里ほど下ると作州本街道の土居に出、街道を東へ十町ばかり上がると播作国境
の万ノ峠(まんのたい)に達する。徳岡久兵衛は忍び組子二十人を率いて、白水川の奥の
集落の南背後にそびえ立つ滝山に入った。山頂には十一面観音と不動明王とを祀るお堂が建
っており、山の西の谷には白水川が流れ、男滝・女滝の飛瀑をつくっていた。
 御滝信仰の修験行者の山である。
 毛利軍の忍びが密に暗躍しているころ、西播地方で一六万石を領し、「西播磨殿」と呼ばれ
た上月城主赤松政範もまた毛利と同盟して、反織田の旗色を鮮明にした。
 天正五年[1577]十月末のことである。 秀吉はこれより前に、木村源蔵と山中鹿介(しかの
すけ)を使者として赤松政範に信長の教書と秀吉自身の添書を与えて恭順を勧告したが、政範
は即答を避けた。秀吉は、手抱えの忍者木陰(このかげ)弥右衛門〔次回以降に〕の報告により、
政範が宇喜多直家の仲介でとっくに毛利と内密に同盟を約していたことを知った。
 秀吉の当面の敵は赤松政範と決まった。  −つづく。   

ヤゾ− - 2001/08/02(木) 00:05<

テレビの反響

何年も会っていない友達から、
たまたまテレビを観ていたら、いきなり僕が出てきたので、
思わず口に含んでいたビールを吹き出してしまい、
嫁さんに呵られたと電話がかかってきました。
いきなり知っている奴が、なんの前触れもなくテレビに写ると驚くみたいです。
ちなみに実際の僕より鋭い顔をして写っていたと言われましたが、
普段、ニヤけた阿呆面ですので、良かったかも知れません。

>俺も子供時分から水かぶってるから丈夫いよ。

僕も、真冬に水を浴びるということを数年間続けたことがありましたよ。
冷たいと思うのは最初のうちだけで、
後は身体の中から熱気が出てきて、
とても爽やかな気持ちになった覚えがあります。
その時分は風邪もひかなかった気がします。

>太郎の上に雪降り積む 二郎の上に雪降り積む...

今日も暑かったので、
早く、屋根に雪が降り積むようにならないかと真剣に思いました。
それにしてもなんでこんなに暑い日が続くのでしょうね。

サクラ - 2001/08/01(水) 23:19<

思い出しました..

太郎の上に雪降り積む   二郎の上に雪降り積む...

月信仰グループ・星信仰グループ・太陽信仰グループにわかれ筑波の笑地区における虐殺事件が起き、
平蒋門。河童属の水神信仰。ヒョットコの火崇拝信仰グループによって、人々に癒しと活力を与える
「月のしずく」という名の石の争奪戦が始まる...

わたしの大好きな紀和鏡さんの本の中、「月のしづく」という石は、サンカらしきおじいさん達の
集まる銭湯の壁に埋め込まれていました..
まるで、ピンクのトカゲさんのおじいさん達のよう...
この物語も本当かしらと思ってしまう。隠された部分は本当の事なのかも???

連脈もなく、紀和さんのほんが読みたくなった宵です!

PS・やぞーさんのビデオは求めれば与えられん...回覧できっと...希望者に回るよ!!!



NA-NI - 2001/08/01(水) 19:23<

東北におけるエミシの末裔

話題から外れますが、エミシの末裔について触れておきます。

>東北エミシの末裔は、中央だけでなく北東北以南の全国に、別所の民とし
て存在します。
>江戸期発生説は偽りでしょう。
>東北大学ではエミシ・俘囚を研究してる方がいますが、俘囚→別所・院
内・産所→
>などを研究したのは民間学者の菊池山哉くらいです。

エミシの末裔は別所だけではなく、東北各地にもいます。近年も移住して日本津々浦々
(いえ、世界かも?)いると思います。
別所の方の社会的状況や歴史はわかりませんが、東北におけるエミシは和系化し、
アイデンティティとしてのエミシはほとんどの場合、「過去」としてみなされますが、
実は曖昧ながらあながちそうでもないようです。ネット上でもエミシがチラホラいるようです。

エミシはアイヌ民族との関わりが密接であったようです(青森以北はアイヌ民族の土地)。
言語もアイヌ語に近似していたと考えられ、地名やマタギの山言葉、東北各地の方言に
アイヌ語と同じ、または近い言葉が散見されます。

ところで、エミシの実態としてのエミシ論というのがあり、決着がついていないのですが、
私はいわゆる特定説というのに異議を覚えます。
当時の「エミシ」集団という集団の概念が自意識、またはエミシの視座でどうであったか
という点にはほとんど着目されていませんし、
今ある「民族」概念でもって同じように捕らえようとしてもそこに盲点があると思います。

現在のエミシの末裔としてのアイデンティティについては東北の歴史学者や民俗学者が言及していますが、
まだまだサワリの部分でしかないように感じます。

ピンクのトカゲ - 2001/08/01(水) 17:33<

徳利と徳久

とんちんかん小僧さん
徳利と徳久ですか。曾祖父までは、三河の○兵衛を名乗り、略して『三○』。
祖父が香具師を辞めて、曾祖父の子分の三河の×兵衛が継いで、『三×』を名乗っておりました。
ヤゾー
祖父の仲間達も風呂行って、冬でも皆水かぶってたよ。
俺も子供時分から水かぶってるから丈夫いよ。

ピンクのトカゲ - 2001/08/01(水) 17:23<

徳利と徳久

とんちんかん小僧さん

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/08/01(水) 15:51<

サンカはいるの?

 のっこんさん。これにはサンカとは何者かを頭に置かねばなりません。
さし当り柳田國男・三角寛・八切止夫などにあります。
>三角寛が文学賞?を貰ったかとかで激しく腹立ちの方が「研究でも何で
もないよな、作り話だ!」とか。でも作り話なら、文学賞ぴったりです。
三角寛の作品?研究?のどっち?「研究・・・作り話」、実はこれを証明
する事は難しいのです。その方は本当に大学教授になtta
?
?三角寛の研究がどの程度、あるいはどのように「作り話」であったかは
歴史民俗学研究会で調査・研究しているようです。「権威も何もないよな」
というような精神の持ち主には、権威自体を否定するようなサンカの生き
方はまず理解不能でしょう。このような日本人の精神構造がなぜできたの
かは野史研究会の課題でもあります。
 サンカはいるのか?極少数いるそうです。圧倒的多数のサンカ系は今や
都会や地方都市の公務員・サラリーマンです。最近私に「サンカの歴史的
実在を証明しろ!」と迫る方がいましたので、まず「ご本人を紹介しまし
ょうか?」、私のHPの古文書をご覧下されと申したら尻尾をお巻きになり
ました。この学者肌の方は、真実などどうでもよいのでしょうネ。
最近読まれてる『朝日と読売の火ダルマ時代』『殺された三人の天皇』など
にはサンカという賎民から「頭を使い」「社会の底辺からよじ登った」社会
上層部のサンカ系の「大活躍」が描かれています。ただし状況証拠だけで、
学者が主張するように証明は、現在のところ、出来ません。安全にできるな
ら社会学が外国からの輸入物で論文を書かなくてもいい位、種があります。
 popoさん。
 東北エミシの末裔は、中央だけでなく北東北以南の全国に、別所の民とし
て存在します。これは山民だけではありません。これに野史研究会は取り組
んでいます。どこにでもある薬師・エビス・荒神や地名などを使い検証しつ
つあります。この中からサンカや鉢屋は出たのは間違いないようです。
一部は海彦・山彦の時代に遡るかもしれません。江戸期発生説は偽りでしょ
う。東北大学ではエミシ・俘囚を研究してる方がいますが、俘囚→別所・院
内・産所→などを研究したのは民間学者の菊池山哉くらいです。

とんちんかん小僧 - 2001/08/01(水) 15:16<

陰陽忍軍歌 (2)

 副題:吉川の“徳久”と秀吉の“木陰”

 これは、戦国の世で表裏で活躍した忍び者の史実でもあろうか。表舞台は…織田信長の
中国征伐軍の羽柴筑前守秀吉軍とそれを阻む毛利家〈吉川軍・小早川軍〉と同盟軍〈宇喜多
軍・赤松軍〉との播磨上月城での攻防である。だが、ここでは忍び者を表に出すゆえに
分かりにくい点もありましょうが御勘弁なされい。

☆毛利元就の遺言“播磨つぶし”

 徳利老人――。
 徳岡利兵衛のことを略称して徳利という。徳久は、この徳利の従弟徳岡貫兵衛の子だ
が、徳利老人は、徳久から見てはるかに高い山の頂点に立つ偉大な忍者であった。
 年齢は八十歳に近い。
 毛利元就に仕えた忍役で、元亀二年[1571]七十三歳で元就が死んでから七年経った今
も、毛利家における徳利老人の存在は大きい。
 元就の死後、嫡子毛利大膳大夫降元に仕えて毛利家の“陰の忍役”の総帥を勤めてい
るが、それを知る人は毛利降元と徳久たちの他に降元の弟吉川元春、小早川隆景など
極く少数の人たちに限られていた。
 徳利老人の表芸は、医師であり茶人であり、花鳥山水仏画をよくする絵師でもあった。
 世間の人たちは、見るからに無欲恬淡、飄々(ひょうひょう)とした徳利老人に庶民
的な気易さを覚え、「トクリさん」などと親しく呼んだ。

ピンクのトカゲ - 2001/08/01(水) 07:32<

見れんかった。残念

仕事で見れんかった。ところでテレビ愛知でもやったのかな?やってなけりゃ諦めつくけど...

もんむー - 2001/08/01(水) 06:35<

箕ました

利田さん、ヤゾーさん、おはようございます
>>「戒厳令の夜」ビデオで見たけど、超ダサク。見ないほうが良いよ。

そういえばヤゾーさんもそんなこと言ってまたね。個人的には「戒厳令の夜」
はサンカを知るきっかけになったので思い入れがあるんですけどね。
ダサクですか。残念です。

きのうのニュース見ました。放映されないと言っていたヤゾーさんと山小屋が
しっかり映ってるじゃありませんか、びっくりしました。ネット上でしかやり
とりのない人がいきなりテレビに映っているとなんかドキドキしますね。けど
たいへん参考になりました。

でわでわ


利田 - 2001/08/01(水) 01:29<

始めまして、ではない

>モンムーさん
「戒厳令の夜」ビデオで見たけど、超ダサク。見ないほうが良いよ。

今日、釣りに行っててテレビみそこねた!!
面白かった?
このHPが紹介された様だけど、ヤゾーの顔も出たのかな?

アクセスが増えて、ヤゾーに素敵な嫁さんが見つかることを祈ってるよ。

ヤゾ− - 2001/08/01(水) 00:05<

下北山村史

カメツリ(正確にはカメツと呼び、サンカのこと)たちが一番よく泊まったのは、
池原辺りでは下谷口や大瀬デアイ(東芝川の合流点)あたりで、サトには余りいなかった。
下谷口でカメツリが子を生んだ時、下谷店の老女が親切に家からタライやお湯を持って行ってやったら、
あとで自分たちが手を洗うからそこに置いといてくれと言って、赤ん坊には川の水をアミセた。
渡り者暮しだから湯を使えば癖になって風邪を引き易くなるからというのがその理由だった。

村の医者が難産で苦しんでいるカメツリの女を診てやって、薬や着物を恵んでやったら涙を流して喜んで、
それからはよくお礼にウナギなどを持って来たという美しい話しが残っている。

またカメツの親子が、大八車を買って馬に曳かせ、ヤエンで川口に渡した荷を桑原から池峯を超えて池原へ運ぶ仕事を始めて、
相当儲けて上郷渡に家を建てて住み着いたが、地元の人たちも真似をして競争になったので、
見切りをつけて家を売り、名古屋へ出ていったが、それでもやはり池原は懐かしかったのか、
それからも何度か遊びにきたこともあるなどの話しが載っています。

これらの昔話しから、村の人たちがカメツリ(サンカ)の人たちとかなり親しく接してしたことと、
もちろん、一定の距離はおいていたのでしょうが、河原でのお産や、難産の話しなどから、
困っている時には、かなり親身になって世話をしていたことが分ります。
素晴らしきかな下北山村です。

この秋に出版される沖浦和光先生の『幻の漂泊民・サンカ』には、
この下北山村からの話しが詳しく載っているそうです。

みなさん、はじめまして。
今後とも、よろしくお願いします。

ヤナギムシ - 2001/07/31(火) 22:40<

けけけけけ・・

あははははは・・アマゴ食べれます??
  けけけけ・・おいしいですよ・・

        けけけけけけ

    なすび・・夏は、なすび・でんな
   焼きナス・とか・・しし唐とかヒラテンといしょに、甘辛く焚いたのんとか
    ほんま、おいしいよね
     日本酒の冷酒で一杯
      ビールで一杯もええよね

        冷奴もまたええやん


   あーーーーぁ、恥ずかし・・
      これで、もう表歩かれへんな

         こもって・・酒でものまんと・・

              

      ええ男に、映ってましたよ・
              録画OK       けけけけけ・・ヤナギムシでした

popo - 2001/07/31(火) 21:25<

サンカの出自

サンカって坂上田村麻呂に滅ぼされた東北蝦夷の末裔がインダス人であった
ジプシーのように流れに流れて中央のほうに来たのではないのですか

KAJI - 2001/07/31(火) 21:09<

新たな世界

テレビからこちらのホームページへきました。
サンカという存在を知り驚いています。
この日本にそのような人達が居たことは私にとっては新鮮な発見でした。
サンカのページを読ませて頂いきましたが、
なにやら只の少数弱者ではなく、
この国にとってはなにか大きな存在であったような感じを受けました。
これを機に少し勉強してみようと思います。

ミク - 2001/07/31(火) 19:32<

癒されるものを感じました

私、偶然にテレビでこちらのHPの事をしりました。
でもアドレスを忘れてしまって、サンカと熊野で検索してようやく来ることができました。サンカの事は全然知りませんでした。後でゆっくり読ませて頂きます。動物との触合いを記録したページを見させていただきましたが素晴らしいです。とても癒されました。これからも動物との触合いをページに書いて下さい。楽しみにしてまいす。

のっこん - 2001/07/31(火) 18:58<

雑談で〜す

テレビ番組で拝見。Googleで検索。

高校時代に、サンカ研究で三角寛がなにかの文学賞を貰ったと授業中に怒りまくっている先生がいました。(研究でもなんでもない、つくり話だと言うのがその根拠でした)

「な!そう思うだろう。賞の権威もなにもないよな!」といわれて当時はサンカも三角寛も知らずその勢いに呆然としてましたが、しばらくして立正大学に呼ばれて行ってしまいました。

池袋に人生座と文芸座という映画館があってそれが三角寛経営だと聞いていました。
3本上映で300円位でカネのない学生身分にはサイコーの贅沢でした。東映の任侠シリーズで高倉健さんを知ったのもこの頃です。

四月に上北山、下北山村や熊野古道などに行って来たばかりでしたので楽しく拝見しました。
目的が違ったのでサンカを意識して行ったわけではありませんでしたが。

サンカはどのみちアウトサイダーですから記録文書が残っていないでしょうし、三角寛氏のような想像力豊かな人に翻弄されてしまうのもしかたのないことでしょう。

羨ましい生き方です。
高度管理社会からのなんとか、いうのも陳腐ですが、むしろ自然と一体化とか共生とかいうのが最近のはやりでしょうか。

やまだ - 2001/07/31(火) 18:30<

すごいです!

自分もニュース番組の中でここのHPの存在を知ってやってきました。
ざっと読んだだけですが、とても共鳴できるものがあり、
また、その感性と実行力には感服いたしました。
羨ましい生き方だと思います。
これからもちょくちょく見させて頂きます。

鈴音 - 2001/07/31(火) 17:49<

はじめまして。

みなさん、こんにちは。はじめまして。
今日、たまたま昼から仕事が休みで、たまたまテレビをつけていて、このHPに出会いました。
ヤゾーさんとは、多分、車で1時間ぐらいのところに私も住んでいます。近いですよ、きっと。
でも、ぜんぜん知りませんでした。
今からゆっくりHPを見させていただきます。

tomo - 2001/07/31(火) 17:49<

ニュースみました!

こんにちは、ニュースを観てたら、サンカのことを特集していました。
そこに、アドレスがかいてあったので早速訪ねてみました。
おばあさんが50年以上大事保管していた篭を譲っていただいたなんて、よかったですね。
これからも、ちょくちょく見にうかがいますので楽しみにしています。

SUGI - 2001/07/31(火) 17:45<

こんにちは

みなさんこんにちは、テレビでこのHPの存在を知り来ました。
すごく面白そうな生き方ですね。同時に大変そうでもありますが。

min-min - 2001/07/31(火) 15:50<

12chやるみたいですね。

やぞーさん、みなさん、やっぱりやるみたいですね、本日pm5:00から。

いわく『現代によみがえる“山の民”の謎・・・なぜ今ブームに?』と新聞の番組欄
に載ってました。ところで今ブームなんですかぁ???

min-min@横浜

とんちんかん小僧 - 2001/07/31(火) 15:15<

RE 菓子屋が忍び?

 ピンクのトカゲさん
最新のBIGニュースですね。はたして、繋がりがあるのかどうかというのは分からない
ですけど、作家の名和弓雄氏は忍器、忍具の蒐集を五十年余やっている中で旧幕時代の
お城御用といわれる由緒のある老舗の菓子店から、撒きびしその他の忍器を買い求めた
ことが、あちこちで体験ずみだそうです。

きょうかい - 2001/07/31(火) 12:10<

渋谷、千駄ヶ谷

ぽんさん、こんにちは・・
渋谷区在住だそうですね。いろいろ情報教えてください。
226事件の処刑は、確か渋谷公会堂のところだったと思います。
幽霊話も好きですので、もっと知りたいですねえ・・
 千駄ヶ谷もおもしろそうですね。あの有名なスタジオもあるし
すぐそばは、「霞」ヶ丘団地ですね。観音橋もあるし、熊野神社もあるし
鎌倉古道もあるし、キラー通りなんて命名も偶然とはいえ意味なんか
ありそうです。 
 よろしくお願いいたします。

Dongly - 2001/07/31(火) 11:24<

数の数え方

ピンクのトカゲさん。おはようございます。
母方祖父は箕作・六部の姿でやってきたサンカを、なぜか嫌ってたそうです。
その祖父はある村の長田出身、祖先は野鍛冶の筈で、数字を「ひーふーみー
よーいつー」と数えてました。(隣を「かみ」と呼び、その家には鍛冶屋文
書があるそうです、今度見せて貰います)。八切止夫は原住民サンカの数え
方といいます。
また農地改革で最良の土地を小作に譲る事になりましたが、この小作人の家は
昔茅葺で、家の出入口は北で、一ヶ所だったといいます。セブリテントと同じ
く蝮が侵入しないためにテント入口は南にしない思想「ふじなみ」といえます。
また別所作りの家も曲り家も北出入り口が特徴です。この家の竃がある部屋は
母屋と別棟か否か、竃室と母屋は別出入口か否か、は聞いておりません。
 母屋と離れた別棟に、風呂と共に竃を置いてる家は見た事あります。
 祖父宅の「ねべや」は寝室の意味と教育委員会勤め校長あがりの叔父は嘘を
言ってましたが、本当は、蔵の番人を兼ねた「家付き小作人」の部屋でした。
この家付小作人が朝から野良仕事で、曽祖父は朝から茶碗酒だったそうです。
 また祖父は30年前「蛙や泥鰌がいなくなるような農薬は人間にもいけない」
といって早速農薬をやめ、1〜2年後は米の収量が落ちたそうですが、3年目に
元に戻った上に丈夫な稲になったといってました。非農耕系の直感でしょうか。

ピンクのトカゲ - 2001/07/31(火) 07:07<

祖父のこと

掲示板呼び水になっております。
少しずつ忘れかけていた記憶蘇ってきております。
私が学校に上がる以前、五・六軒先の銭湯に祖父と毎日行っておりました。
時間は、決まって、四時ぐらい 祖父と同年代の五・六人がいつものメンバーでした。
他の人の名前は思い出せませんが、鋳掛け屋の『やっちゃん』が祖父をヤゾーと呼んでいたのを覚えております。あのときの会話は、ほぼ符牒のオンパレードといったものだったと思います。祖父の仲間達が使っていた言葉を聞くままに覚え、よそで使って意味が通じなくて、戸惑ったこともしばしば、でも、聞けばわかるんですが、40年近く前のこと思い出せません。
みな魚取には長けていたようで、面白おかしく、昔を語り合っていたことを思い出します。
みな家に訪ねてきたことはなく、四時過ぎの銭湯が会合の場所であったのでは?
とんちんかん小僧さん
参考になるかどうか解りませんが、戦後、祖父は、かき氷、アイスクリーム等を作っていたようですが、砂糖は、なにか別のルートがあったようで安く入っていたようです。
香具師についても砂糖は、安く入っていたのを大人になってから、祖父に聞いています。
例の菓子屋の話と結びつくのでは?

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/07/31(火) 03:19<

遅くから失礼

あかねさん。
「刀鍛冶は刀だけ作ればいいが、わし等は何でも作らねば」と野鍛冶筋の方はプライ
ドを持ったようです。私の母方は野鍛冶だったような証拠と山の中腹の黄幡(おうば
ん)池の傍に黄幡社を祀り、正月には餅を供えてました。赤松氏のルーツは福島県喜
多方市にある旧家の宍戸家に遡るとか。赤松は昼間の戦闘に負け、勝ったのは夜戦だ
けだった「石灰族」と、末裔は嘆いていました。もちろん別所の者の系譜です。
ピンクのトカゲさん。
人に関する方言だけは集めています。霧を「なご」と呼ぶのは神奈川津久井郡・山梨・
静岡・北設楽郡・下伊那郡・北魚沼郡と方言辞典にあります。もっと地名が絞れる
なら歴史や民俗の解明に役立つのですが。人的呼称では「家付き下男下女。作男」の
意味で、これに関連の地名はあります。役に立ちませんね。
ぽんさん。
渋谷の「道玄坂」。道玄は「大工の世話人」かもしれません。昔の雰囲気が残るなら
ば慶安(人身売買・職業紹介人で多くは番多の兼業か)が世話人をやってたようです
ね。大木戸さんからの聞取りですが「大木戸」は中世からある往還の番人の呼称のよ
うです。江戸期にも木戸番は多かったようです。後の焼芋屋・散髪屋・文具屋などの
ルーツです。「大木戸」の実物は、上野忍す池傍の下町資料館(間違ってるかも)に
再現されています。大店のある表通りに設置されたゲート(格子戸)で、朝6時に開
け、夕方6時に閉めたとか。閉まってる時出入りする者を「鼠」「鼠小僧」と呼んで
たようです。もちろん「袖の下」は時間制限フリーの決め手であったと思います。

とんちんかん小僧 - 2001/07/31(火) 01:45<

陰陽忍軍歌 (1)

 徳岡久兵衛(とくおかきゅうべえ) 【生没年不詳】

☆吉川氏に仕えた西国の忍び

 流派は明確には不明だが、百済の遁甲(とんこう)術なる忍びの術を使ったという。
 徳岡一族は、西国一の勢力を誇った大内氏と遠祖が同じという。推古朝時代[592−
628]に百済聖明王の第三子琳聖(りんしょう)太子が周防国(山口県)に渡来し、
多々良の姓を賜ったと伝えられる。ただし、大内氏も平安末期[1180頃]に至るまで
の家系は不詳である。
 安芸(広島県)の毛利元就の陰謀、策略によって、大内氏が滅び、周防・長門(山
口県)が毛利氏の支配になったのは弘治三年[1557]。その頃、徳岡一族は毛利氏に仕
える。一族の長である徳岡利兵衛〔次回以降に〕は、元就の忍役(しのびやく)として
信頼を得た。元就死後も嫡子降元の陰の総帥役。
 徳岡久兵衛は利兵衛の従弟貫兵衛の子である。吉川家の忍役。利兵衛が、知る人少な
い陰としての存在であったのに対し、久兵衛は忍役百人組の組頭で“徳久”といわれた
“陽”の忍役の役割を担った。配下を手足のごとく動かした久兵衛には、吉川家の当主
元長(元就の孫)の幕僚で、“お面杉原”と囁かれる杉原盛重という不気味な存在があ
った。その命で織田軍と毛利勢との上月(こうづき)城をめぐる攻防に暗躍した久兵衛
は、鉢屋の手にかかり討死した。

 今回は、忍び者シリーズ史上最も長くて重要なものになりそうです。けれど、重複する
個所が多くなるかもしれないですけど暖かい目で見て、読んで下さい。お願いします。

ぽん - 2001/07/31(火) 01:25<

前言の訂正

ちょっと、訂正です。まず、前半。
シブ色を含んでいて、シブヤ川と呼ばれていた。です。
それと、
四谷の大木戸とかがそうじゃないかと聞いた・・・に訂正します。

やぞー - 2001/07/31(火) 01:24<

みなさん こんばんわ

>私は日本人には皆、多かれ少なかれ、過去にサンカの血が入ってるように思います。

アカネさん、丁寧なお返事ありがとうございます。
そうですね。極論を言えば、サンカこそが本来の日本人って気がすることがあります。
それくらいサンカというのは僕たちにとって魅力的な存在なんですね。

>パラボラを買わねばなりません。ショックです。

もんむーさんの場合はまだ救われます。
僕の場合はアンテナを建てようが、何をしてもテレビは写りません。
トホホホ。

ピンクのトカゲ さん、祖父さんのお話を待ってました。
どんな言葉を使っていたのかなんてとても貴重な話しだと思います。

ポンさん、お久しぶりでした。
渋谷の興味深いお話を聞かせて頂きまして、ありがとうございます。
また来てくださいね。

サクラさん、元気そうでなによりでした。

ぽん - 2001/07/31(火) 01:00<

ちょっと、それてるかも。渋谷の話

ご無沙汰しております。
渋谷の話が出ているではないですか。(いつも、反応が遅く、しかも単発登場ですみません)
渋谷区民のぽんに書き込みをさせてください。
私の持っている「東京地名考」(朝日文庫)に寄ると、渋谷の地名の由来がいくつか出ています。
まず、渋谷という名前の有力者が住んでいたから(渋谷氏といっても、時代も素性も違うのがいくつか候補に上がっています)というもの、
それから「この地を流れる川の水が赤錆色の鉄分をシブ色でシブヤ川と呼ばれていたこと、あるいは塩谷の里がなまったものとか言い伝えられるが、おそらく、渋谷川流域の低地がしぼんだ谷あいであったので、それがシブヤに転じたものであったであろう」と
というのが出ています。(猿楽町、蜂山町の地名の由来は出ていない)
わあ、でた赤錆色!!。こっちがいいなあ。
渋谷は谷が多いから、別所ぽい(?)ところは多いかも。
たとえば、千駄ヶ谷とかも、どうでしょう。
前の話と関係なく、しかもうろ覚えなんですが、名曲喫茶を経営する古老にきいたのですが、今、NHKがあるところは、昔は原っぱで、暗く、子供のころは恐ろしくて行けなかったそうです。2.26事件後など特に。(処刑された場所なんですか?)近くの大向小学校は今でも時々軍靴が聞こえてくると、お化けスポットととして一部で有名です。(ぶるる。涼しくなりました?)
私は、道玄坂の上のほうは、すごく妖しい雰囲気というかやくざな雰囲気で、私は身震いがするほど好きな場所です。(百軒店の通りのあたりとか)
(ところで、その渋谷のユーロススペースという映画館で、中上健二が故郷の路地を撮ったフィルムを基にした映画をやっていますよ。)
以前、こちらにも書き込みがありましたが、区は違いますが、霞町(現西麻布)とか四谷の大木戸とかがそうだったと聞いたことがあります。
身近にも、結構、ありますよね。
上記のような場所では、もちろん差別もないし、気にしてる人も少なく、古い住民もしがらみもありません。
ただ、都心のわりに、交通が不便だったり、場の雰囲気がちょっと違ってたりして、土地に残された記憶みたいなものは感じます。


ピンクのトカゲ - 2001/07/31(火) 00:47<

みなさんにお尋ね。

祖父が霧のことを『ナゴ』、田んぼの方を『トオモ』とっていたのを思い出しました。近所の年寄りに確認したところ、知らないとのことで方言ではないようです。ただ、深田を『ドンボウ』とは、このあたりで入っていましたが、『トオモ』とは、ちょっとニュアンスが違います。
サンカ関係の資料に出ていた記憶はないのですが、どなたかご存知ありませんか?
Donglyさん、野史の方でそんなの聞いたことありませんか?

あかね - 2001/07/30(月) 23:19<

遅レスですんません

↓産鉄の話で、銅は融解温度が高く、道具も大掛かりだから、鋳師の定着は最もかも。というのが抜けて
 ましたm(__)m。鉄・銅でも鋳鍋は流通しないと造り続けられませんもんね。あと、スサノウは大国主・
 えびす(九頭龍さんも)でもあり、藤原鎌足は鹿島市出身だというのもヌケです。

Donglyさん
初めまして。不勉強でいつも勉強させていただいてます。今後もよろしくご教示お願い致します。

>非金属製品だけでも100以上はあるでしょうか。
 そうですね。実家にも農家ではないものの、今でも色々残ってます。お書きの品々は私にとって
馴染み深い物です。使った事はないですが。それにしても細工物は今はお高い…

>サンカ鍛冶の使う鋼原料の地は…
 勉強不足で分からないですm(__)m。何か、竹細工の産地と重なってる気が…。サンカ縁の地、よく出向
いた地の鋼であり、在地と関わりを持ってる所のものだとは思うンですが。私としては支配側が重視し、
山岳武士が跋扈した地でもあるあたり、関わりが気になったりします。

>石工・大工・鍛冶屋グループの職業神での海人族との違いはフイゴ祭りにあるようですが。
 これも勉強不足ですm(__)m。ちょっと考えてみます。フイゴの北方系・南方系、発達変遷、時代による
地域差ぐらいしか、もう一つ、把握できてません。祭りの根本的な何か違うのですね。またご教授下さい。

>兵庫奥丹後半島(竹野郡・中郡・ヨサ郡など)で近年に古代の大製鉄跡が発見され調査中とかですが、
 海砂鉄も多く、古代砂鉄と「別所」砂鉄が重複しているかもしれません。
 製鉄一環工場ですね。場所柄、重複してるだろうなと思います。読まれたら是非、お教え下さいませ。

>赤松氏の本願地は千種鉄で有名な宍粟郡千種町鷹巣別所と聞いていますが。
 確かにそう言われてるのですが、大河原氏系統だとする説もあります。初めて知った時は驚きましたが
説の根拠を忘れましたので、詳しい方に教えてもらうようにします。ごめんなさい。いずれにしても赤松
円心の3代前?が千種に移る、配流?される以前の事ははっきりしないようです。宍粟に来た当時の
赤松は、文書の表記の仕方では、地頭クラスより下だった事は確かだそうです。
 それと、赤松は大鉱山のある地を領したにも関わらず、鉱山経営にあまり力を入れた様子がないらしい
のも不思議。これって赤松は元来、鉱物採掘加工等に従事していた山民を内に含んでいた山岳武士だった
から、敢えて鉱山支配を強化する必要がなかったためのような気がしす。つまり、山民ルート(本州を山
だけ歩いて移動できる相互補助のような世界)と、深く繋がっていたからだろうなと。
だから13歳にして円心は、兵を率いて南朝側につき、吉野の山で活躍できたのかな、とも思います。
 更に水軍は関東・東国?方面へも移動してたそうなので、その意味でも大河原氏だったら興味深いです。
 また千種鉄の地が戦力増強に重要なのは無論ですが、塩も食糧の他に、鉱物加工の仕上げ等や馬の飼育
等に欠かせないので、播磨に来た意味もわかる気がします。山民・海民が融合してるのでしょうね。

おミヨさん
 こちらこそ、いつも楽しいお話で、学ばせていただいてます。サンカの知識、私、ホントに少ないです。
産鉄民の話が一緒にできて、嬉しくて、つい書きこんじゃいました。
 篠山なんかぁ。嬉しいなぁ。篠山、親戚あるから、たんまに行くんや。実家の気候は篠山に、ほんま、
よう似とんねん。そっくりなんよ。播磨弁は語尾が地域によって違うんやけど、特殊な語尾入れんと
書いとったら関西弁とかわらんな。ほんで東播磨は、篠山とも言葉、だいぶん似てるんやないかな。
面倒な事を、めんどいなぁ、言うし〜。お粗末でしたぁ(^o^)

ピンクのトカゲ - 2001/07/30(月) 20:08<

羨ましいですか?

豊橋の劇場で見たけど、あのとき、麻雀放浪記かなんかと二本だてだったけど、麻雀放浪記上映してるときは、結構広い映画館に五・六人ひといたけど、『瀬振り物語』始まったら貸切で見れたからね。

もんむー <http://www.nihon-eiga.com/> - 2001/07/30(月) 20:06<

戒厳令の夜

衛生放送の日本映画専門チャンネルで8月24日から25日にかけて
五木寛之オールナイトと題して五木氏の映画化作品、5作品を連続
で放送するそうです。

その中に「戒厳令の夜」が含まれているので是非見たいのですが、
パラボラを買わねばなりません。ショックです。

でわでわ

あかね - 2001/07/30(月) 19:38<

ことらこそ宜しくお願いしますm(__)m

やぞーさん
 TV、自宅で仕事する事が多いンで見ようと思ってます。ワクワク

>サンカと産鉄民、また野鍛冶、鋳物師って、どこか同じ匂いみたいなものを感じていました。
 私は日本人には皆、多かれ少なかれ、過去にサンカの血が入ってるように思います。分かりませんが、
サンカとはその暮らしを選び取り続けてその文化を誇る人達、「状態を表す」言葉だと思います。
それは社会システムからは逸脱するもので、だからまだフタをされてる部分が多いンでしょうね。
 鍛冶・鋳物師は、武器や大構造物・美術品を造るために時の権力が押さえる必要があり、職人にとっても
その腕で安定した生活・出世を得る近道(特に刀鍛冶・忌鍛冶や茶釜の鋳物師)でした。鋳師なら、後に
江戸幕府公認・公家系の真継家のシステム下に入り、惣官鋳師や由緒鋳師となって優れた作品を後世に
残す…。それは出世だけでなく、定着当初は、良い品を安定した状況で造りたい気持も職人側にあったの
ではと思います。つまり野鍛冶では移動道具故に、より細工の細かな品は造りづらく、鋳物師はシステム
下に入らないと、大規模な作品造りに携わりにくかったから。などの理由もあると思うのです。
 といっても無論、野鍛冶の職業意識が低いわけではありません。野鍛冶は浜(川も)鍛冶・農鍛冶も同時に
行った事が多かったそうで、この事は暮しに密着した道具をそれらが手に入りづらい地域でも供給する
役割を担い、誇りもあったでしょうから、要は何を造りたいか、によっても職・生活形態を選び始めた
場合もある気がするのです。まぁ、そんな悠長なものではなかったかもしれませんが。
 定着の鍛冶屋も、野鍛冶にも色んな情報が集り易く、特に鍛冶屋はそれ故に地域で力を持つ事も多か
ったそうです。この辺り、職性だけでなく、鍛冶が中世に諜報活動へ携わったらしい、血の伝統のような
ものもあるのかなぁ、と感じます。そう言えば、石川五右衛門にも鍛冶・忍者説がありますね。
五右衛門や伊右衛門(お岩さんの)等は、江戸期、マエビキ鍛冶の名高い登録商標でしたし。

>サンカの伝承にあるスサノオの話しでは、砂鉄との関係を感じさせますし、
 スサノウの「スサは鉄」であり、スサノウは砂鉄の神「スクナヒコ」(お子神)や、「葦原醜男命」
(醜男とは何度殺されても蘇させられる頑強な神への尊称。再生できる鉄の性質を示す)、鍛冶神の
「天目一命」、「天御影命」等と同じ神だと言われ、更に曲金の発明者と伝わる「八意思兼命」でもある
という説もあります。加えて「天日槍(槍は鉄、矛と書けば銅)命」には、スサノウと宗像女神のお子神
伝承があって、天日槍命は斉部氏には「海日槍命」と伝わっているので、海人の神です。
 これらの神々には全て朝廷配下の後裔があるわけで、ぐるぐるとみんな繋がってますね。
権力へ、サンカ伝承が取り込まれた結果なのかもしれないとすると、意味の深い存在だなぁと思います。

>サンカの作る箕や籠類が、産鉄の際にとても重要なものであったことも、
>なんらかの関係を想像させますね。
 産鉄の籠やゴザ等を作った藤葛のつく姓、藤原には、葛原の意味もあるそうです。金屋子神の社にも
藤の紋?があるらしい。また持統天皇の藤原宮は、飛鳥にあった藤原宮を移したもので、飛鳥の藤原宮
(藤井ヶ原・藤原氏の本貫地)の地は、藤蔓がまといつく樹木が自生していたそうです。更に橿原市の
藤原宮は「高殿」という地にあり、タタラ場を高殿と言うのも面白いです。寝殿も高殿。不思議ですね。
 また藤や田のつく名前は鍛冶・鋳物師にも多いです。田がつくのは鉱物採掘初期には、田の開発にも
なるからでしょうね(だからスサノウは穀物神等や稲荷信仰へも繋がる)。鋳師で田がつく方々は各地に
分布したそうですが、常陸方面から河内畿内、滋賀や伊勢等の鋳師に入り、移動したようで興味深いです。

>出雲や丹波、また山、川などの共通した場所を持っていますしね。  ほんとにそうですね!
>釣り師、垂涎のブランド『がまかつ』は播磨の会社だったんですね。  そうなんですよ〜(^o^)V

ヤゾ− - 2001/07/30(月) 17:56<

勘は当っていた!?

地元で仲の良い釣り友達の従兄弟に、
地元でも有名な釣りバカにして名人がいるのですが、
その人に初めて会った時に、妙にサンカの匂いみたいなのを感じていました。
所謂、直感というやつです。
でも、地元の釣り友達の家系ではそんなこともないだろうと思っていたのですが、
ついさっき、その従兄弟のAさん(年令は50代半ばくらいです)の親父さんは養子に入った人で、
ウナギ捕りの名人にして竹細工もしていたとの話を聞いて驚きました。
その親父さんは、周りの人には山林土木の仕事に従事して、全国の山を転々をしていたと言っていたそうですが、
それでウナギ捕りが上手であったことは納得はできますが、竹細工となると納得ができません。
な〜んか怪しいです。僕はサンカであったように思います。
残念なことに、そのAさんの親父さんは亡くなっているのですが、
その弟さん(80歳位)が近くの村に暮しており、やはり竹細工をするとのことです。
今度、会いに行ってきます。

そのAさんですが、マンガみたいな人なんです。
地元でも有名な『RX-7 クソまみれ事件』という逸話があります。
20年以上昔の話しのようですが、
Aさんの愛車である初代RX-7で、釣り友達を乗せて朝早くから釣りに走ったそうです。
途中、餌屋で餌を買い、同乗していた人が売っていたコーヒー牛乳を飲んだそうです。
そして再び物凄い勢いで目的の磯を目指して走るのですが、
同乗の人の腹具合が悪くなってきて「すまんけど、ちょっとクソしたいんで止めて」と言ったそうです。
そしたら、Aさんは「あかん、場所なくなるんで、クルマの中でせえ、」と言ったそうです。
一度言い出したらどうもこうもならないことを知る同乗の釣り友達は、
初代RX-7の超狭い後部座席まで移って行き、餌を買った際に貰ったナイロン袋にビチグソをしたのだそうです。
臭いわ、こぼれるわで、あんな情けないことはなかったと、その時に一緒に釣りに行った、今は地元土建屋の親方はこぼすのでした。
ちなみに、その人に最初、山を造成してもらいました。アハハハ。
そうまでして釣りに急ぐほどの人なんです。
また、磯で釣りをしていて何にも釣れない時など、
チョット下見てこよと、パンツ一丁になったかと思うと、海に飛び込んで魚がいるかどうか確かめてくるのだそうです。
野生の人です。また常識を超えた人の良さと、少しヤクザっぽいところもあったりします。

ピンクのトカゲさん、瀬降り物語のパンフレットを持っているなんて羨ましいです。

ピンクのトカゲ - 2001/07/30(月) 09:07<

瀬降り物語

本棚整理してたら瀬降り物語のパンフレットが出てきました。
なんか懐かしい気分です。

やぞー - 2001/07/30(月) 07:50<

はやとちり

さっきメールチェックをしたら・・・

『あ、すみません。表現が悪かったようで・・・・
「和歌山県はうつりません」の意味は、「和歌山県ではテレビ東京のニュースが
うつらない」の意味です。失礼しました!!
和歌山県での中元さんの取材分はバッチリうつります。
いま、あの美しい山や川、中元さんの素敵な生活ぶりのどう編集するか、
一生懸命がんばってます。楽しみにしていて下さい。
ただ、残念ですが、やっぱりタヌキや小鳥の映像は入らないかもしれません。
ごめんなさい!!』

ということでしたので放送されるようです・・・(*^^*)

ヤナギムシ - 2001/07/29(日) 22:26<

少し安心・・

少し安心しました・・
  TV放送が、無いかもしれないって事・・
  >時機尚早なのかも・・
   なぜなんでしょうね
  沖浦先生のお話なんかも、聞いてみたかったんですけどもね

   TV東京のそのビデオ、どうするんだろ?
     ダビもんでもヤゾーのもとに、とれないかな??!!

とんちんかん小僧 - 2001/07/29(日) 20:56<

予告

 きょうかいさん、おミヨさんレスありがとうございます。
 また、秦氏についていろいろな事が分かってよかったです。おミヨさん御心配なく。しばらく
彼らとの共存はよい体験だったし、何より声を聞くことができたので嬉しかったです。
 昨日、西宮(にしのみや)へ傀儡師の発祥地の石碑を見に行ってきました。とても感動しまし
たので、記念に石碑とのツーショット写真とってきました。
 次回からは・・・武田忍びか、“吉川の徳久”について書きませう。後者はおミヨさんも知っ
てると思いますが、ナイショにしていて下さいね。
 

ヤゾ− - 2001/07/29(日) 19:35<

アノさんの流れ

海彦さん、はじめまして。
「風の王国」の中で、
新たな生き方を選択する場面がありましたが、
今、そんな時代のような気がします。
早く新しい生き方に踏み出さなければ、
もうどうしようもないほど、
人も地球も疲弊しきっている気がします。
今後とも、よろしくお願いします。

>やぞー秦氏についての書き込み面白かったです。

おミヨさんに面白いと言われたので、
ではもう少し胡散臭い話しを。

僕は、この国には遥か昔に、なにか故意に隠された文明があったように思えて仕方がありませんでした。
その文明を携えて世界各地に散らばったという記憶が、
やがて逆に今度は母なる国を目指して様々なところから
渡来してくることになったのではないかと思っていたことがありました。
そして、その失われた文明を、母なる国で断片的に受け継いでいたのが、
サンカではなかったのかと思っていました。

サンカの発生を、比較的に新しいものとする意見があるようですが、
サンカがもしそんなに底の浅いものなら、 どうして僕たちがこれほどまでにして憧れるでしょうか?
サンカの人が書いたものを読むと、いかに自然を大切にし、敬っていたかよく分りますし、
また、自然に対して、本当の意味での知恵を感じさせます。
それらは遥か古代から受け継がれたものであり、
とても重要なものを継承していた気がするのです。

ちなみに僕を取材したものは、おそらく放送しないであろうとの連絡が入りました。
如何なる理由により放送しないのかは分りませんが、
サンカに憧れる人たちが集うHPを、テレビで放送するのは時機尚早なのかも知れません。
残念でした、ヤナさん。
半分、醜態を曝さなくてホッとしていますが、
アノさんの流れに逆らえば、必ずその報いはあるそうです。

海彦 - 2001/07/29(日) 04:17<

感想

いつもみなさんの会話を読ませていただいております。漁師の孫で、
今は平凡なサラリーマンをしている海彦と申します。どうせ大した
出自ではないことは明白な私にとって、この社会は入り込む隙のな
い息苦しい世界のように感じられます。そんな私に、サンカだの山
人だの、あるいは民族的な歴史の話は救いです。秩序の仮構性を予
感させてくれるからです。
ではありますが、たとえば縁日に出店しているテキヤ?の一部に感
じるどうしようもない嫌悪感はどうすることもできません。世の中
に対する憎悪だけで生きている(ように見える)人間。自分も他人
も肯定することができず、一切をごみために放り込んでいるような
人間。思わず「人間のクズだ」とつぶやいてしまうのです。
その点、「風の王国」はいいですね。あのような世界が絶対にない
とはいえない、というより、あのような世界の存在をどこかで信じ
ていたい、という気持ちになります。ロマンチックといわれれば、
まったくそのとおりですが…。
自分に流れている血(遺伝子)は意識しますが、考えてみますと、
10世代で1000人、20世代で100万人の直系の人間がある
ことになります。その意味では万世一系というのもあながち嘘とも
いえなくなるでしょう。
すべて夢のような話ではないでしょうか?

おミヨ - 2001/07/29(日) 01:33<

けけけの妖怪ヤナ子さんの声が・・・

安眠中になにやら
けけけけ・・・・だの  ははははだの賑やかな
声がして目が醒めて、ついつい開いてみたら・・・・
妖怪ヤナ子さんの声でした。
ダビを
両ヤゾー、ヤゾウに頼むとめんどくせぇーなー・・・・なんて
やさしい両ヤゾー、ヤゾウだから言わないと思ったんだけど・・
ヤナさんにお願いしちゃったーーよろしく。。

葬式の話し初めて聞きました。興味大ですね。

なぞなぞ 誰やろか?

ヤナさんのビデオ回覧利田ヤゾーさんちに回しましたよ。

やぞー秦氏についての書き込み面白かったです。

ほんやら  おやすみなさい。


ヤナギムシ - 2001/07/29(日) 00:27<

なんどもすみません

安眠中の乙女2号へ・・
  丹波の出ですか・・・そちらのでの人の話ですが
昨年の話ですが、お葬式の事やねんけど
  無くなった方の、衣類や寝具、川で洗ったりするんですか?
  もちろん遺体も・・??
その後、洗ったものを川原で乾かすような・・そんな風習のこってるんかいな??
   ふと・・思い出したので

    それと、利田ヤゾー・・京都の愛宕山の話ですけど
      もう20年くらい前の話なんですが
       まだ、寒かったから4月頃やったと思います

  30代女性と女の子3歳いや5歳くらいやったかも
   その歳になったから、食べれる、山の幸教えに来たんです
    わたしたちは、この歳になったらみんな、経験するんです
   そんな話でした・・・
  その頃、サンカについて知ってましたから
        匂うぞとおもって、今も覚えているんです

ヤゾ− - 2001/07/29(日) 00:03<

秦氏とは!?

秦氏については書くと、物凄く胡散臭くなりそうなので、
あまり書きたくはありませんでしたが書きました。

>ところで、その秦氏で質問なのですが、村長(むらおさ)というか小集団の代表を勝(すぐり)と呼び、
>大代表、ある意味、頭領は大勝(おおすぐり)と呼んだそうです。この呼称はサンカ系のものと
>何か関係がありますか?どこかに書いてありましたらごめんなさい、です。

二十代半ば頃のことですが、ヒゲを何年も切らずに伸して、
独りで店番(吉祥寺のガラクタ屋でしたが、不思議と著名人が多く来る店でした)をしてたら、
ある時に変な老人が訪ねて来て話しをしたことがありました。その時に僕の顎ヒゲに生えている赤いヒゲを見て、
それは古代に中近東から渡ってきた人の血が僅かながらでも入っているからだ、などと言われ、
単純な僕は、それから日猶同祖論についての本を少し読んだりしたことがありました。

秦人がシルクロードを経て、または海路から中国に渡り覇者となり秦王国を建国しますが、
秦王国を支えていたペルシャ騎士団の老齢化により弱体化し、台頭してきた前漢に圧され、急速に滅び去り、
結果、大挙して朝鮮半島南部になだれ込み、後の新羅となる辰韓(秦韓)を建国することになりますが、
結局、最後に行き着いたのは日本ではないかという本を読んだ記憶があります。
最初から日本を目指したという本もありました。

縄文の終わりから弥生時代以降に渡来してきた集団の中には、
縄文系の集団を支配しようとした人たちと、
縄文の生き方を尊敬し、そのスピリットを継承しようとした人たちがいたように思います。
そのどちらにも秦系の人たちが関わっていたように思うのです。
訳が判りませんが、価値観の違いや宗教的なものなのか、
政治的・軍事的敗者としか分けようがありません。

サンカと関係の深い山伏が、頭につけている兜巾というものがありますが、
それはユダヤ人のヒエクリティリーという小箱と同じ意味のものであるともいいます。

前に高野山に行った時に、いつ頃のものか判りませんが、
景教の大きな石碑を見た覚えがあります。

また太秦の広隆寺は、もともと景教の寺であったとされ、
景教の意味する「光の賜物」はヘブライ語で「ウズマサ」と呼び、
近くには『いさら井の井戸』というのがあります。

そういえば祇園祭りそのものが、山鉾をペルシャ絨毯なんかで飾り付けたりしてなんだか変ですね。
祇園祭りのクライマックスは何と言っても山鉾(やまぼこ)巡行ですが、
巡行はノアの方舟がアララット山に漂着したとされる 7月17日に合わせて行われるのが恒例となっています。
この山鉾の周りの布地には波の模様が描かれていますが、山鉾がノアの方舟そのものであると言っているようです。
ギオンとはシオン(イスラエルの別名)のことで、また八坂とは古代ヘブライ語で神への信仰を意味する言葉であり、
神社の紋の中心に描かれている十字に組み合わされた巻き物は、ユダヤのト−ラ(ユダヤの立法書)で、
トラの巻きという言葉はここからうまれたのだという人もいるようです。

映画の都ハリウッドを作ったのはユダヤ系の人たちであることはよく知られていますが、
日本の映画の発祥の地、太秦も実は古代に渡ってきたユダヤ系の人たちの土地であったんだと、
真面目な顔をして語った映画関係者がいたそうです。

出口王仁三郎はスサノオを万神の罪を一身に引き受け、かんやらいにあわれたメシアであり、
キリストだと言っていたそうですが、
王仁三郎の出自をサンカとする説を考えると面白いものが見えてきたりします。

と、書けば書くほど胡散臭くなるのでした。

ところでいヤナ、ヤナさんです。
そんなに僕の醜態を見て笑いたいのかえ〜

ヤナギムシ - 2001/07/28(土) 23:56<

え・・・・えええ

チョット待ってーーな!!
   ええ
  おミヨさん、両ヤゾーさしおいて!!・・御指名ですか??
    ハーーーーイ1番テーブルご指名はいりました!!!!
   18番ヤナさん・・ご指名ですーーよ!!   ハーーーイ
  本日は、ご指名ありがとさんです・・

  はい・・これ私の名刺です  
この次も・・よろしくね?

   クラブ妖怪   ヤナ子・・・    けけけけけ


   はははは・・・録画ですか・・
           やってみます・・ね

   けけけ・・・           
            えええええ  と関西では、19CH
                     31日PM  5:00
                   ニュースアイKANSAI
                         早坂 淳キャスター
                      で  よかったんかね


                             ・・・ヤナでした

なぞなぞ - 2001/07/28(土) 12:53<

美人コンテスト

「瀬降り物語」のロケ地、愛媛県で美人コンテストが開かれました。
優勝者は「サンカ」にゆかりのある方でした。
だーれだ?

わかった方は、判ったとだけ書込みしてください。
答えは書かないでね。
実に良く出来たなぞなぞです。

おミヨ - 2001/07/28(土) 11:47<

あかねさん始めまして・・

レスありがとうございました。
とても勉強になりました。これからもいろいろご教授よろしく御願いします。
私は丹波篠山から流れてきているものです。
産鉄民についても、いろいろ学びたい事が一杯あります。
また、ちょくちょく書き込み御願いします。
播州弁なんか使っていただけると懐かしさ倍増。

確かにサンカに対する差別意識はないと思います。
私なんかは憧れています。

やぞーさん
私は夜11時過ぎたら音楽の世界、聴きながらスヤスヤと眠り姫です。

Dongly - 2001/07/28(土) 10:48<

はじめまして

あかねさん。
 サンカへの差別意識は余りないのが普通でしょう。今でも農家へ行きます
と、大箕・小箕・篩・すのこ・筬・簾・土臼・石臼・箒・熊手など非金属
製品だけでも100以上はあるでしょうか。しかも古い竹製品もなかなか譲っ
てもらえませんネ。農家はサンカ製品がなければ生産不可能ですし、サンカ
は農家をお得意にしなければ暮らしていけません。本来物々交換(非商品流通
です)の共存共栄でしょうか。農家の生産用具を調査すると面白いでしょう。
どうやら、差別は差別する必要のある者がする、というの実情でしょう。
 サンカ鍛冶の使う鋼原料の地は「越前来」「出雲石井」「美濃関」「筑前石
堂」「豊後了我」と言われてますが、場所が良く分りません。現在、刃物用の
鋼は鳥取倉吉の神戸製鋼所?で作っているそうです。ご教示をお願いします。
 サンカの信仰はまだ勉強中ですが、石工・大工・鍛冶屋グループの職業神
での海人族との違いはフイゴ祭りにあるようですが。どうでしょうか。
 兵庫奥丹後半島(竹野郡・中郡・ヨサ郡など)で近年に古代の大製鉄跡が
発見され調査中とかですが、海砂鉄も多く、古代砂鉄と「別所」砂鉄が重複
しているかもしれません。町村史を購入していますが全然読んでいません。
 赤松氏の本願地は千種鉄で有名な宍粟郡千種町鷹巣別所と聞いていますが。
 但馬などでは産鉄族のおかずであるクロナが生えてる所とか、家紋や寺紋に
「抱き茗荷」が見られます。山間地方どこでも山神に魚を供える習慣の他、
「寿司」「刺身」の店が必ずあります。1)古代海人→山人族、2)鉱山開発
・林業開発に関わる渡り、3)別所など流刑や移配にかかわる場合、などを
その原因と考えています。

やぞー - 2001/07/28(土) 07:45<

みなさん おはようございます

あかねさん、こちらでは初めましてですね。
ようこそ掲示板にいらっしゃいました。

それにしてもいろいろとお詳しいです。
サンカと産鉄民、また野鍛冶、鋳物師って、どこか同じ匂いみたいなものを感じていました。
サンカの伝承にあるスサノオの話しでは、砂鉄との関係を感じさせますし、
サンカの作る箕や籠類が、産鉄の際にとても重要なものであったことも、
なんらかの関係を想像させますね。
出雲や丹波、また山、川などの共通した場所を持っていますしね。

今後とも、よろしくお願いします。

釣り師、垂涎のブランド『がまかつ』は播磨の会社だったんですね。

あかね - 2001/07/28(土) 02:48<

続きm(__)m

↓の続きです。初めてでいきなり長くてすみませんm(__)m

 また姫路では鉄は産出します。姫路の野里鍛冶・鋳物師は、同じ河内鋳物師の流れです。
即ち、河内鋳物師の起った美原町の鋳物師、北河内・枚方市藤原の河内鋳物師の代表家・田中家、
天明鋳物や中居鋳物なども河内鋳物師を祖とします。
 更に三木金物は、5世紀に韓鍛冶・王子恵が丹生山に渡来して、地元の大和鍛冶(託賀郡の大和鍛冶と
同系)に新技術を教えて協力しあった事に始まります(「三木の金物史」に詳しい)。
 更に三木の別所氏は赤松であり、赤松氏は大河原氏の別れのようだというのも面白い所です。天竜川沿
の大河原は岩塩の産地であり、赤松は岩塩の産地から海の塩の産地へと中央構造線上を移動したわけです。
別所氏の親族である姫路の英賀城主・三木氏は、讃岐の河野氏の親族であり、この辺り山岳武士と水軍、
山民・海民の繋がりが見えて興味深いです。Dongly様が書かれてました「三木→山木かも」というのも、
三木氏には山部連の後裔がある、という話を思い出して興味はつきません。この三木氏は英賀の三木氏と
は別系統なのか忘れましたが、山部連は確か明石国造であり、針間鴨国造は山部直なので、その辺と関係
あるのかなぁと想像が膨らんで楽しいです。

>山の民といわれる人々の中には、もともとは、河川水運に関っており、
>その先は、海人だった人々もいるのではと...
 私もそう思います。丹波や東播磨には、海人族といわれる多氏ゆかりの地名も多く残り、太陽信仰の
地もあります。山村各地に残っていた鵜飼なども、海人の文化ですもんね

あかね - 2001/07/28(土) 02:39<

初めまして

 サンカについてあまり知識はないのですが、産鉄民に興味を持っておりまして、その関連からこちらの
ファンになりました。私は奥播磨出身でして、今は北摂に住んでます。今後ともよろしくお願いします

>ヤゾーさん
 下北山村にサンカへの差別意識はない、というのを読ませていただいて、東播磨中部に昭和40?年代
前半迄、暮らしていたサンカの方々へも、地元の人々はとりたてて差別意識を持っていなかった、という
話を思い出しました。彼らが町で何を商っていたのか、また親に聞いておきたいと思ってます。

>おミヨさん・皆様
 初めまして。「兵庫もんはごめん」というのを初めて知りました。この場合の兵庫とは、神戸の兵庫
限定なのか、播磨・丹波・但馬・淡路・摂津の県全域を指すのか、何となく気になりました。
 但馬以外は関西弁ですが、但馬弁は主に山陰、特に出雲弁と似てるようですし、兵庫県は日本海側、
瀬戸内側、浜手、山手など地域によってだいぶ、気候風土・気質が違うので面白いですよね。

 それから、丹波地方は産鉄地というよりも、銅山中心だと思います。確か鉱山としては、鉄そのものの
産出は少ないはずです。但し中国地方から越前〜若狭丹後まで、秩父古生層上部の地層が続いており、
その古層上に多くの鉱床が認められるので、加古川河口のように磁鉄鉱は出たのかもしれません。でも
川砂鉄が多かったかはわかりません。それよりも、褐鉄鉱(錫)中心なのかなぁと思います。
その意味では、丹波は初期製鉄の産鉄地だったのかもしれません。

 播磨の釣針の話では、「がまかつ」本社のある東播の奥播磨・西脇市でも、鉱山で鉄そのものは産出
しませんので、釣針は当時、宍粟などの鉄を使ったと思われます。
 うろ覚えなんですが、西脇市には、「源頼光」が鵺退治を行った伝承地があります。地元では、頼光は
摂津の他にこの地方(播磨国風土記の託賀郡)にも庄園を持っていたと多く伝わります(中央の文書には
残ってません)。実は頼光を頼って京都から「河内鋳物師大工」が託賀地方に入ってこの地に住みつき、
西脇の寺に釣鐘(鋳物師大工たちの名が入ってます)を残しています。
 西脇を含む託賀地方では鉄は産出しないものの、古くから銅山地帯であり、江戸期には大坂銅所と直結
ルートがありました。鉱山で鉄は出ないにも関わらず、託賀郡北部は「大和鍛冶の起源地」として知られ
「播磨二宮天目一神社」があります。これは播磨の開拓神・出雲系伊和神と宗像女神、そのお子神として
天日矛命の伝承が託賀郡に残る所に理由があるようです。加えて天目一の最古社・佐用の「天一神社」と
宍粟の「播磨一宮伊和神社」が播磨中部にあった「鉄の道」近くにあり、託賀の播磨二宮は鉄の道からは
ズレてますが付近の銅は、三木市・志染の駅(鉄の道)に集結し、中央へ運ばれた事とも関係あるようです。
 従って東播磨北部では鉄の鉱山はないので、播磨における製鉄王国は、播磨北部地方というよりも、
西播磨の奥播磨(宍粟・佐用郡)地方というのが正式かなぁと思います。でも、宍粟郡の鉄製錬が盛んになり
過ぎて、すぐ東の神崎郡でも宍粟で産出した鉄の製錬場が設けられていた、という話も残りますので、
広く言えば、更に東の託賀地方でも製鉄は行われてたのかもしれません。褐鉄鉱などは出たのかも。〜続く

やぞー - 2001/07/28(土) 01:07<

よきかな

『千と千尋の神隠し』 観てきました。
面白かったです。
特にクサレ神だと思っていたのが、
ごみとヘドロにまみれた名のある河の神さまで、
主人公の千(千尋)が綺麗にしてあげた時に、
ヘドロの固まりが流され能面のような顔がポッと現われ、
『よきかな』という言葉が河の神さまから出てきた場面が印象的でした。

早寝早起きのおミヨさんがこんな夜中に書き込みするなんて珍しいですね。
僕は夏ばてってほどでもないですが、よくうたた寝をしてしまいます。
さっきも10時頃から2時間ほどうたた寝してました。

では、みなさま、おやすみなさいませ。

おミヨ - 2001/07/28(土) 01:02<

太秦

京都の太秦は、昔は秦氏一族、今は鮮人長屋
太秦・花園・安井の三郷は何れも非常に古い歴史をもっていて、これらの土地が荒廃から救われて,
かなりに多数の民家が建ち連ねてきた。個人の邸宅というものも相応に出来たが、長屋式のものが多い。
しかしてこの長屋の中から白い衣服をつけた朝鮮人が出入りをする。男子は日本式の
仕事服を纏っているが、婦人は固有の鮮服であるから良く目につく。それは今から一千ニ三百年も前
にこの太秦の郷が秦氏の一族に占領されていた頃に、今見る鮮人のような漢人種が異様の、しかし、
一般日本人よりは進んだ風体をして盛んにこの辺で活動していた。太秦の文字は献上の反物の積み上げ
られたるを見て、時の天子がうず巻きににたりと言ったことから太秦と読まれるようになった。
この頃、帰化人の一団は支那、朝鮮の文化を将来して、殖産興業にはげみ多大の富を有していた。
実際その後に秦氏の一族の誠忠と献金により、奈良から平安への奠都が完全に行われ、今みる京都
が出来た。だが、一時盛大を極めた秦氏の富も何時の間にか消えうせ、この地方の名物は広隆寺、
秦氏の祭神蚕の社、酒の神などという神社仏閣というにすぎなかった。
その荒涼たる一地方が今再び田園生活として注目されるようになり、果ては鮮人の群れをも迎えいれて
過ぎし古の面影を目の当りに見んとするにいたった。
花園、安井もまたしかり・・・。      京ところどころから(昭和3年)

31日ですか?仕事ですので、どなたかダビして見せていただけませんかしらん。
ヤナさんお忙しいですよね・・・。。

ヤナギムシ - 2001/07/27(金) 23:16<

ききき・・かいな

けけけけけ・・・31日
PM5:00TV・・・TV東京
  ニュース番組・・われらがヤゾー出演・・
   みんなで、見たらこわくない!!ぞ!!

       あははははは・・算数だめの・・ヤナギムシでした

randy <http://www12.freeweb.ne.jp/sports/randy2/> - 2001/07/27(金) 22:27<

秦氏と勝(すぐり)

確か秦氏は中国秦人のコロニーが半島に移って秦韓となり(秦語を話した)、後に辰韓となって、
一方は九州の豊国に移り一方は新羅の民となったと言われますね。豊国から周防にかけては
【隋書】にある秦王国だと思います。で、とある本によっては秦氏は新羅系だとするものがありました。

ところで、その秦氏で質問なのですが、村長(むらおさ)というか小集団の代表を勝(すぐり)と呼び、
大代表、ある意味、頭領は大勝(おおすぐり)と呼んだそうです。この呼称はサンカ系のものと
何か関係がありますか?どこかに書いてありましたらごめんなさい、です。

おミヨ - 2001/07/27(金) 19:13<

ききき・・・・・

産鉄民に興味のある方は
「闇の日本史」「閉ざされた神々」「鬼の日本史」その他 沢 史生 彩流社をお読みくださいませ。

とんちんかん小僧さん 調子回復されたようですね。
岡山には「八つ墓村」の素材である「津山事件」というのを読みましたけど・・・・・。
平家落人の怨霊が・・・・・・・関係ないですね。おどかしたりしてすいません。

それにしても兵庫は、やはり異界ですね。
未解決事件ふくめて、あんな事件こんな事件と振り返ってみて大きな事件がおおすぎる。
サンカコトツ唄に「兵庫もんはごめん」というのがあるらしい。

ヤゾーさんは夏バテないようですね。頑張ってください。

小×さんはハゲてきた。(頭の話しではありません)


きょうかい - 2001/07/27(金) 14:10<

秦さん、追記

 手元に資料がないので、大よそで書きますが、古代関東を
 比較的早く席巻したビッグネームは物部さんで、秦さんは、
 ほぼ時代をともにして殖民している様です。
 

きょうかい - 2001/07/27(金) 13:57<

秦さん、おもしろい

とんちんかん小僧 さん
以前、新宿で平城京展に行ったとき、当時の貴族の部屋の
再現を見たのですが、ペルシャ絨毯や琵琶に似た楽器があって、
それこそアラブの片田舎の普通の家って感じでした。
よく東西文化交流とシルクロードとか、いいますがモノの交流
ばかりで人的交流のことは、皆目言われません。一番知りたいところです。
あと、厩戸王子という命名は、きっとキリスト教(ネストリウス派)と
関係あるなと思ってたのですが・・
時代もちょうど合いますね。
  注)ネストリウス派;マリアを「キリストの母」とした為に追い出された。
           当時の正統は、キリストの神性を重視してマリアを
           「神と子の母」としていた。アホなことでケンカするのね・・
 古代の関東は、秦さんが、大変活躍しております。
 ちなみに633年太子の舎人の物部連兄麿(えまろ)という人が、武蔵国造に
 任命されています。(聖徳太子伝暦)(孫引きです)
 厩戸さん、秦さん、物部さん、ペルシャ、新羅、出雲を頭の中で整理したいです。
 秦さん期待してます。

 今月29日(日)あさって!まで、サントリー美術館において「海と川の水辺の人々」という
 のをやってます。一昨日知った次第です。中世以降の水辺を描いた絵を
 たくさん集めている様です。赤坂見附そばです。10:00〜5:00
   

とんちんかん小僧 - 2001/07/27(金) 11:24<

秦河勝(下)

 こうして秦河勝は、欽明朝から推古朝まで、五代歴任し、ことに聖徳太子の信頼を
受けたが、こんどは“うつぼ舟”に乗って、いずこともなく去るのである。
「化人、あとを留めぬ」
 ということだが、播磨〈兵庫県〉の坂越(しゃくし)の浦に着いた。浦人が拾い上げ
てみると、人であって人でなく、いろいろの奇瑞を示した。そこで、
<大荒(おおさけ)神社>として崇め、その地に祀った、と。
 壷中からの出生は、始皇帝の伝説そのままだが、そのほかずいぶん不思議なことが
まつわる。
 彼は、太子から仏像を下賜されて、根拠地太秦(うずまさ)に広隆寺を建立し、俗に
太秦寺とよばれた。
 ところが、古く中国では、ローマのことを、<大秦>と書いた。点のあるなしが違う
が、字の成り立ちからいうと、大を重ねたものが点になった。通字と考えていい。
 太秦寺→大秦寺ということになると、それはローマ寺、つまりキリスト教寺院である。
 厳密にいうと、<大秦景教寺院>である。この景教は、キリスト教の一派、ネストル
教のことで、五世紀のはじめ、コンスタンチノープルの司教、ネストリウスによっては
じめられた。
 シリア、メソポタミア、ペルシアを経て、唐の貞観(じょうがん)九年[635]に、オべ
ロンという宣教師らによって、長安に広まった。ときの大宗(たいそう)帝は保護し、
大秦寺も建った。当時留学していた僧空海もその寺院の偉容を眺め、教義にも触れている
はずである。
 その空海入唐の七十年ぐらい前の天平八年[736]、唐人三人のほか、ペルシア人李密翳
(りみつえい〉という者が日本に来ていることが『続日本紀(しょくにほんぎ)』に載っ
ている。この人物は景教宣教医師説のほか、ゾロアスター宣教医師説、楽師説、マニ教徒
説など諸説があるのだが、このとき日本に景教が伝わったという説が古くからある。
 が、もし伝来者がこの李密翳でないとしたら、秦氏の先祖にちがいない。江戸時代の
儒学者太田錦城(きんじょう)などは、はっきりと、太秦の広隆寺は景教の影響を受けて
いる、と述べている。
 また、当寺には播磨坂越の大荒神社を合祀した“大びゃく【門がまえでなかに辟】神社”
があること、これは養蚕・機織・管弦・楽舞の祖である秦酒公(はたのさけのきみ)を
祭るものであること、大びゃくというのは、漢訳聖書によれば、“ダビデ”であること、
仏式でも神式でもない妙な祭文を読み上げる牛祭りの行事があることなど、奇怪な話がいく
らもある。
 いずれにしても、西域の匂いのするものだが、この秦河勝が能楽の始祖なのである。

ピンクのトカゲ - 2001/07/27(金) 07:41<

ご心配なく

サクラさん
トカゲは夏バテはしません。ただし、冬には冬眠します。

サクラ - 2001/07/27(金) 00:02<

気持ちいい風です!

昨日の雷は凄かったですが久しぶりの雨は嬉しくもありました。
皆様、涼しくなって、よりここはますます熱くなっていくよう(^^)
きょうかいさん、NA-NIさん、ピンクのトカゲさん夏ばてなどせずがんばってくださいねぇ..!!!

donglyさん、先日は赤熊の情報のHP教えて頂いてありがとうございます。
アコさんのところは興味ある話が目白押し...また、ご教授お願いします。

とんちんかん小僧さん
またまた、能の話ですか...わーっ、楽しみがふえてしまう...

このところ、やぞーさんの下北山村の話も思わず首を長くしてしまいます。
タイでkeijuさんもいい音楽聞きながら、首長くして報告待ってるのではないでしょうか???

以前、行った時に熊野川ぞいにバスで走った時に、ちょうど良い頃合いに、竹やぶが現れるのですね。
こんな道を竹を刈りながら歩いたのかと想像していましたが、ほんとうにやぞーさんの小屋のそばに
いたなんて、やっぱりkumanoはすばらしい...
サンカ博物館の場所としては最高なところですね。やぞーさん!

ヤナギムシ - 2001/07/26(木) 23:48<

ははははぁーーぁ

あはははは・・ええやんか
  ほんま・・ヤゾー31日やったかいな!!??
楽しみやね・・どんな、あほなことゆうたんか・・けけけけ
  きいたるわ・・
  大阪でも、みれるんやろね!!
   あんまり・・あつうなったら・・あかんよ!!
     みんな、いろんな考えあることやし
  硬い事ゆうとったら・・あはははははっはああ
       疲れるがな!!
きんのは、天神祭りやったやろ・・ほんまアツウテ・・気狂いそうやったわ・ね

  そやそや・・今度の日曜選挙やね・・みんないかなあかんよ・・ね
   一番票とるのん・・・
             小泉さんちゃうやろか????

                あはははっはは・・そおなったら
                  ほんま、お笑いやのにね

   わたしは、セブリ物語のような・・さんかもんが・・・好きです
        下北山村のはなしみたいのんが・・おおてます

  そやそや・・奈良では垣内・・ガイトって読みますよね!
          なんかひっかかります

            けけけ       ・・・・ヤナギムシでした

ピンクのトカゲ - 2001/07/26(木) 21:37<

下北山村のサンカ

ヤゾー
ヤゾーも山の民の中に海人がいたと思ってるんですね。


アテネとスパルタの例を出すまでもなく、海洋国家は自由経済、大陸国家は、統制経済であることは、ゲオ・ポリティクスのしめすところである。ヤゾーのレポートにもあるように、サンカ(木地師もそうであろうが)が、交易を生業とし、自由交易を本質とする。これは、山の民が海洋民族の血を引いているとの感よりつよくさせてくれます。

地球温暖化についてマイナスの部分が強調されていますが、旧ソ連の崩壊と地球温暖化は、無関係でない。
ロシアは、本来長い海岸線を有するが、海岸が凍結し、大陸国家と化し、統制経済(マルクス経済は、統制経済の一つ)をとらざるを得ない。しかし、温暖化により、本来の海洋国家の姿を取り戻したと前から考えています。
中国共産党が、南京でなく、北京を首都としたのもマルクス主義が統制経済を本質とするからと考えています。

とんちんかん小僧 - 2001/07/26(木) 20:22<

秦河勝 (上)

 副題:能楽の始祖は渡来人の秦河勝
<能>
 この日本を代表する芸能は、笛のしらべが聞こえるか聞こえないかのうちに、静
かな、深いうねりがただよってくる。それは天から降るといってもよく、地から湧
くといってもいい。
 そして、現われるのは、神かもしれず鬼かもしれない。また聖であるかもしれず
、乞食(こつじき)であるかもしれない。
 それらは、“見所(けんしょ)”に座したとき、見るもの見られるものを超えて
、早くも抱く戦慄なのだが、こんなものが散楽の中から昇華して出現した。
 能楽という言葉は、ペルシア語のナオに発するという説があるが、それはさてお
き、芸能呼称としては、そんなに古いものではない。
 能楽を能楽として高め、創成した観世親子は、散楽−猿楽(さるごう)とを区別
するため、
<申楽(さるがく)>と称した。
 その申楽のはじめは、こうである。
「それ申楽延年の事能(ことわざ)、その源を尋ぬるに、あるいは仏在所より
起こり、あるいは神代より伝わるといえども、代へだたりぬれば、その風まね
ぶ力、及びがたし。 近ごろ、万人のもてあそぶ所は、推古天皇の御宇(ぎょ
う)に、聖徳太子、秦河勝におおせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快
楽(けらく)のため、六十六番の遊宴を成して、申楽と号せしよりこのかた、
代々の人、風月の景をかりて、この遊びの中だちとせり」
 これはほかならぬ『風姿花伝』の一節である。
 延年の事能だという。つまり不死とはいわないまでも、
<仙>にあこがれるものであり、仏在所(インド)から起こるというのも、神代から
伝わるというのも、神仏の威力、奇跡の再現をこめるものと思われる。
 散楽が渡来し、中国のように貴族の間にもてはやらせていた当初、<散楽戸>が設
けられた。いうまでもなく、楽戸は雑戸(律令制官僚組織の下部の階層)である。
 賤視されていたかもしれないが、税は免ぜられ、芸の保護を受けた。秦河勝が聖徳
太子からおおせられたというのは、この散楽戸を司ったという意味だろう。 
 秦河勝の先祖は渡来人である。『記紀』には、応神朝の帰化と記されている。
 当人はしかし、不思議な伝説に彩られている。『風姿花伝』によると、
 欽明帝のころ、大和泊瀬(やまとはつせ)川が洪水になったとき、川上から一つの
壷が流れてきた。殿上人某が拾ってみると、中に玉のような幼児がいた。おそらく天
から降ったものと思い、帝に言上した。
 その夜、かの幼児が帝の夢枕に立ち、
「我はこれ、大国秦の始皇の再誕なり。日域に機縁ありて、今現在す」
 といった。
 奇特に思った帝は、殿上に召した。才智衆に超え、十五で大臣になり、所縁から秦
の姓を与えた。

利田 - 2001/07/26(木) 20:05<

めでたい

下北山で貴重な話を聞けて、おまけにサンカ作の竹細工入手して、
今度は山小屋の近くでサンカの手がかりを得て。すごいな。
伊勢神宮の御利益かな?
今度はどんなラッキーなことがあるのか。楽しみです。

ヤゾ− - 2001/07/26(木) 19:14<

下北山村史

カメツリ(本当はカメツ)と呼ばれていたサンカは、大体三月頃から盆頃までいたが、
四、五月頃に来る者が多く、大里など戦後になってもまだ見掛けた。
戦争前後に来た者は、もっぱらカンゴ(籠)を作って売り歩いたが、
竹薮の持主に、ちゃんと断ってお金を払って竹を伐り、それで上手にカンゴを作るなど、
正直な人が多く、大体毎年来る顔触れがきまっていたから、未だに村人の記憶に残っているのだろう。

つづく

なお過去の掲示板(2000/08/18(金) 00:29)にも下北山村史から抜粋したものを書いております。


>山人達の祖先は産鉄人ともいわれている。

産鉄の技術は大陸から渡ってきたのでしょうが、
担い手は原住民系の人たちが多かったといいます。
熊野も昔は金が多く産出したのではないかという人がいて、
金を掘り尽くしたら銀、その次ぎは銅が産出したのだといいます。

>山の民といわれる人々の中には、もともとは、河川水運に関っており、
>その先は、海人だった人々もいるのではと...

僕もそんな気がしてます。
山の神がオコゼが好きだったり、山並みという言葉があったりと...
という当たり前の話しからではなくて、
僕がこの人はサンカの末裔に違い無いと感じた人の多くが、
妙に海の好きな(釣りの好きな)人が多いのです。
僕も山の中に暮らしていますが、
いつの日か、ヨットで南大平洋の辺りを巡ってみたいと夢みています。

>「下北山村史」をインターネットの古書店で調べてみたら、25000円もして呻
>いてしまいました。今度、図書館を探してみます。

もんむーさん、こんばんわ。
下北山村役場で撮影スタッフが到着するまで教育委員会の人と話をしていたら、
最近、下北山村史が欲しいという問い合わせが多いと不思議がっていました。
また、沖浦先生も欲しいようなことを言っていましたが、
あまりないみたいです。

>“サンカ”の血が流入したはず。それでDNAが“疼く”のでは?(笑)

min-min さん、こんばんわ。
ほんとうにそうだと思います。
自分の中の遺伝子が、サンカを求めているような気がすることがあります。
また僕に限らず、そういう時代のようにも思ったりします。
それぞれのルーツを探し求めて、そこから新たに何かが始まるような...

今日は久しぶりに夕方前から雨が降り出して、とても過ごしやすいです。
連日の酷暑で普段パソコンを使うロフトが異常に暑くて、パソコンの前に座る気がしませんでした。
だってキイボードに汗がポタポタ落ちるんです。

min-min <http://homepage2.nifty.com/TUBA/> - 2001/07/26(木) 16:45<

灯台もと暗し

やぞーさん、こんにちは。まさに「灯台もと暗し」といったところでしょうか。

でも、下北山のお年寄りが“サンカ”という言葉をしらなかったという事実から
すぐ「あそこまで来たのならここにも来たはずだ!もう一度聞いてみよう」と
思うやぞーさんの「感性」は素晴らしいと思う。
思考がまだ柔軟な証拠ですよん。♪(^^)v。。それにしてもピッタシカンカン!
びっくりですねぇ。

それと、やはりやぞーさんの身体の中には絶対古代から現代に至るどこかで
“サンカ”の血が流入したはず。それでDNAが“疼く”のでは?(笑)
でもマジな話、東京から熊野に惹かれ、さらにサンカが瀬降りしていた場所
に行き着いたやぞーさんの“行動”をどのように説明できるのでしょうか?

今回、私も石川県・能登島までルーツを求めて旅してまいりましたが、不思議
と“導かれる”ものがあって邂逅できた経験をしたものです。やはり「なにか」
の力が働くと理解した方が自然ですねぇ。
今後の更なる調査を期待いたします。

min-min@横浜だけど今、渋谷でした。

もんむー - 2001/07/26(木) 15:42<

下北山村史

ヤゾーさん、こんにちわ

ヤゾーさんのように村を調べてまわるのも楽しそうですね。私のように文献ば
かりあさっていても、実態をうまくイメージできていないような気がします。
サンカはともかく一度、山里を歩いてまわってみたいです。時代をさかのぼる
程、「サンカ」というキーワードが通用しないように思います。

「下北山村史」をインターネットの古書店で調べてみたら、25000円もして呻
いてしまいました。今度、図書館を探してみます。

でわでわ

やぞー - 2001/07/26(木) 14:39<

なな なんと!

山小屋の直ぐ近くの河原が瀬降り場であったことが分って驚き桃ノ木山椒の木!!!

山小屋で暮すようになり、何度となく地元のお年寄りにサンカの話を向けてはみましたが、
今一つ要領を得た答えが返ってこなくて、この辺りにはサンカの人たちは来てなかったのだと思っていました。
しかし、下北山に来ていて、この辺りに来ていないというのも納得できないものがあり、
この前の下北山での話しで、サンカという言葉を始めて聞いたとの証言が気になり、
再び、テレビ局の人に頂いた菓子折りを持って、昔の話しを知っていそうなお年寄りの家を訪ねてみました。

そしたら、サンカの話しが 出るわ出るわで、さあ大変。

話は昭和10年前後で、当時10歳〜12歳頃の記憶だそうです。
やはり彼等がサンカと呼ばれていたことは知りませんでした。
その方が、10歳〜12歳頃にサンカの天幕を見て、家でおじいさんに、あの人たちはなにかと訊ねたことがあったそうです。
そしたら、おじいさんが「由緒のある河原乞食」だと教えてくれたことを覚えてるそうです。
「由緒のある河原乞食」という意識はどこからきたのか興味のあるところです。

山小屋の直ぐ近くの河原に、毎年どこからかやってきて、
竹を交差させて棟をかけたものに白っぽい布を被せたテントで、
家族4、5人が生活していたようです。
やはりウナギや魚を捕るのが上手で、売り歩いていたのを見た記憶があるそうです。

また、彼等の生活に興味を持ち、近所の子供と一緒に瀬降りの近くまで見に行き、
テントの前で竹で何かを編んでいたのを見た記憶があるそうです。

僕が昭和30年代頃まで、サンカと呼ばれていた人たちが居たことをいうと、
もしかしたら、それくらいまで居たかもしれないけれど、
意識して見てなかったので記憶にないとのことでした。

下北山村でもそうでしたが、サンカのことを覚えているお年寄りの話しも、
10歳〜12歳頃の話しでしたから、
少年の目には、特別興味のある存在であったのかも知れません。

そのお年寄りがいうのには、もっと詳しくサンカのことを知っている人がいるのではないかとのことでしたので、
これからも地元での聞き取り調査を真面目にしてみようと思ってます。

後、興味深い話としては、
地元の町史にも載っていない話として、(というか、肝心なことは載っていないとのことです)
少し山の中に入ったところに、そうとう昔のタタラ跡だといわれているところがあるそうです。
そんな場所があるのなら正式に調査して町史に載せるようにしなしのかと僕が言うと、
役場の人や教育委員会の人は余計な仕事はしたくないばかりなので、
そんなことは過去いくらでもあったとのことでした。
そうやって貴重な歴史が埋もれていくのかと思うと情けない限りです。

ピンクのトカゲ - 2001/07/26(木) 10:12<

元気になってなにより

とんちんかん小僧さん
元気になってなにより
忍者の末裔がそんな程度のことでへこたれては、いけません。
河川だけでなく、稜線などの分水点も境界になりますね。
サンカが川筋毎にテリトリーをわけてたって言うことは、河川を中心にその河川に集まる水の分水点を境界にしていたと言うことになりますね。
つまり、山の民といわれる人々の中には、もともとは、河川水運に関っており、その先は、海人だった人々もいるのではと...
これが、私の研究テーマなんですが
参考になりました。

ヤゾ− - 2001/07/26(木) 00:31<

下北山村史

下北山村史には他の市町村誌(史)ではまず書かれることのないサンカについて、
極めて詳しく書かれています。
サンカという言葉は出てきませんが、文章を読めば間違いなくサンカのことだと分ります。
その貴重な証言の幾つかを紹介します。

どこの者とも判らないが、昔は毎年幾組もやって来た。独り者もいたが、たいがいは女房子連れだった。
春になって一寸ぬくもって来ると『もうカメツが来た』などと言って見ていた。
テンマクを河原に張って付近を転々とし、主にウナギを目当てに、カブやキンタ(ハヤ)を餌にしてナゲツリし、
また網でアメ(アマゴ)やウグイを捕って、捕った魚は女房や売り子がダンナシや宿屋などへ売りに来た。
よう魚を捕らん家へばかり来たから結構さばけた。魚を米や品物と取り替えることもあれば、
お金を貰って行くこともあった。

河原に大きな穴を掘って、その中に焚火をし、そのあとへ水を入れて沸かしたり、
岩のクボケ(窪み)に湯をとったりしてユアミさせた。

冬はウナギが捕れないので、カンゴ(籠)を作って売りに来た。

この人たちのテンマクは布団皮のような縞や碁盤などいろんな布をツギサガシた(張り合わした)もので、
竹を二本組み合わせて両方に立て、上に竹の棟を渡して、その布をかけた簡単なものだったが、
結構、雨も漏らなかったらしい。天幕を張るには、山と川との境の良いダイラなどを選び、
場所が悪いと自分で平地を作った。 

つづく

とんちんかん小僧 - 2001/07/25(水) 22:55<

八瀬童子の六百年

 以前、酒呑(酒顛とも書く)童子、八瀬童子について書いていたので
少なからず影響を受けてしまいました。けれど、いい感じの本との出遭
いもあってよかったです、その本というのは、
  猪瀬直樹著『天皇の影法師』 朝日文庫 00/1/1
です。八瀬童子と天皇家の関係など興味深い内容が盛り沢山。大正から
昭和へ元号の引継ぎの際に起こった東京日日新聞の「元号誤報事件」の
真相とは? 興味がありましたらお読み下さいませ。

とんちんかん小僧 - 2001/07/25(水) 22:17<

蜂須賀党と甲斐の金堀の関連とは?

 ピンクのトカゲさん、メールありがとうございます。
 間違えてすみませんです。
 蜂須賀党と甲斐の金堀との関係もいろいろと調べました
が明確な答えが弾きだすことができませんでした。
 一つ、二つ共通点をあげるとすれば、両者は共に忍びの
流派は異なるけれど透破(スッパ)であること、甲斐の金
堀は、以前に黒鍬之者について書かせてもらった時に彼ら
が、土木集団であって知識や情報を得るために移動する民
だと書きました。それによって山の漂泊者(木地師・山伏
流浪の芸人等)との関わり合いもあったとすれば、蜂須賀
党の関わりもあったと思います。彼らも尾張海東郡蜂須賀
郷という、尾張・美濃国境の「川筋」に本拠を置く「川筋
衆」で『武功夜話』によると、小六は川筋で千人余を動員
できる力を持っていたとされている。千人余といえば、三
〜四万石の大名が合戦に動員する兵力に相当し、一介の土
豪の動員できる兵力ではないが。彼らが川筋の非農業民で
あったとしたらあながち、出鱈目とはいえないだろう。
 なぜなら、現在も同じように、河川は地勢的に行政区画
上の境界とされることが多い。
 古代以来、美濃国と尾張国との境界は木曽川であった。
 木曽川は日本有数の大河であるが、その木曽川だけでなく、
濃尾勢三国国境地帯の濃尾平野には長良川・揖斐川という、
これも有数の大河が流れていた。
 これらの流域沿岸は国境とはなっていたが、網の目のよ
うな川流によって地域的には分断され、流路も洪水のたび
に変化するから、支配の網がかかりにくい。
 それで、そこに住む人々は生活の基盤として農業を営む
ことが困難であったため、いわゆる非農業民が多かった。
 河川沿岸での生活であるから、当然、舟運など交通・
運輸業に携わる者も多くいたはずだろうし、非農業民は
農業民のように土地への執着がなく流動的でありそれだけ
に、農業民のように村落内の結束、他村に対する排他性と
いうものがない。人と人との関係はゆるやかであり、その
分、その交流は、国という領域を超える広い範囲に及んで
いたという。
 両者の漂泊性なところも考慮すれば何かしらつながりが
あったのではないでしょうか。これ以上は分かりません。

おミヨ - 2001/07/25(水) 14:57<

産鉄民

王権側の巧妙な欺瞞政策や力で征服された産鉄民はインデアンの如く生活の場を追われ、漂泊という
習性から木地師、サンカ、マタギ、山伏、傀儡、芸能、歩き筋へとの生活を余儀なくしていく事になる。
定住して農耕に手を出す事もゆるされず大江山の酒呑童子のように恐れられる存在となり、こちら側の
世界を侵犯する異界のまつろわぬ反乱者として鬼とされていく。鬼は穏が変化したもの。
山人達の祖先は産鉄人ともいわれている。

サンカ秀吉は信長に仕える前後は針商人として全国をあるきまわっていた。その針を供給していたのが
蜂須賀小六。スカは砂鉄の取れる所で、小六も産鉄民でサンカとかかわりがあり、鉄の針だけではなく、
製鉄武器の供給者だった。そのため信長だけでなく秀吉にも重用された。木曽川デルタの砂鉄も押さえ、
淡路島の砂鉄地帯も領した。
サンカのメッカ丹波地方等も産鉄地で栄えたところ、播州の釣り針生産は天保年間から、後、
明珍ひばし(48代明珍宗之現在は51代目 みょうちきりんな名前です)鉄風鈴、明珍カブト。
播磨北部地方は、中国地方第1の製鉄王国として栄え、姫路の野里地区は鋳物師の集団が誕生。また、
「村の鍛冶屋」の記念碑が建つ三木市は、古くから金物の町として栄えたところ。
天正6年、別所氏討伐のため、三木城を攻めた秀吉軍は、敵の執拗な反撃にあい、力攻めを断念、
兵糧攻めで2年後、城主・別所長冶が自刃して落城。三木の干殺し。このせい惨な戦いが金物業の
発展につながっていった。

ふぁる - 2001/07/25(水) 13:33<

大問題ですな

「制約」から外れたモノには、常民からみれば異形であるからチカラが宿っているとされ、
畏怖或いは憎悪の対象となりましょう。

それは、現代でも同じ。

一定の約束事に基づいて共同体を形成していること->文明  であるけれども、
それを再形成する方向は生物的な変質に及ぶ事もあるんじゃないの、って普通に思ってました。

さて、どうなるでしょう。ここのところの日本島の騒動はただ事ではなさそうですな。
顕在化のきっかけ:オウム狂人集団によるテロリズム、淡路・神戸地域の震災
次に判りそうなもの:騒動の集約点
次に起こりそうなもの:ひ・み・つ

鬱陶しい始まり方だなぁ。

桃色蜥蜴 - 2001/07/25(水) 09:40<

目覚めよ誇り高き自由の民の末裔達よ。

国の最高法規たる憲法に規定する『政教分離』に反する『靖国参拝』を『首相として当然の行動』と公言する狂人小×。
訪米の折には、ブッシュに媚び諂い
近隣のアジア諸国には、配慮に欠ける。
まさに、『脱亜入欧』
『征韓論』ならぬ中国製品に対するセーフガード
この先にあるもの
今話題のパールハーバー。若い尊い命の犠牲。
それを知ってか知らずか若者までもフィーバー振り

終戦記念日に献花に自分で陛下と尊称を付けるバカ
自分を尊師と呼ばせる凶器集団の教祖と同次元。
それを咎めもしないマインドコントロールされたマスコミ
文部省の愚民化教育ここまで徹底したか?

天皇なんて弥生分化の継承者として人間国宝に格上げして、早いとこバチカン化しちまえばいいんだよ。

ヤゾ− - 2001/07/25(水) 00:03<

ほんとうに暑いですね

みなさん、こんばんわ。
この暑さと、ここのところの慌ただしさに、
掲示板、メールにおきましては、みなさまにご無礼をいたしております。
誠に申し訳ございません。

瀬降り跡地でのお年寄りの話しはとても貴重なものでした。
下北山村の人たちのサンカに対する意識が特別なものではなく、
自分たちと同じ山に暮す者として親近感のようなものがあったことを、
お話を直接聞くことで肌で感じることが出来たのも貴重な体験でした。

また、僕の思い込みかも知れませんが、
サンカについて話す時のお年寄りの顔が生き生きといていたように感じるのでした。
そして、沖浦先生も確実にサンカに対して愛情を持った方だと感じました。

ピンクのトカゲ - 2001/07/24(火) 18:05<

同感です。

NA-NIさん
シャチノミ説明しようと思って、省略したけど...
言っていることもっともです。同感です。
暑い掲示板にしていきましょう!

NA-NI - 2001/07/24(火) 14:33<

休暇です。

Donglyさん。
>NA-MIさん。間違えました。北里柴三郎は小国別所の出身です。
>元は赤馬(これも別所地名です)なる
>小国には、樹齢1300年以上(幹周9.6m、高さ25m)の大杉、
>樹齢1000年以上(幹周12.8m、高さ38m)の銀杏があるそう
です。
>東北から移配された俘囚やその末裔、あるいは元が攻めてきた時
鎌倉から来た北条氏(九州「大本営」をここに置いた)の姿をみたはず
です。

北条氏といえば、北東北にも進出してきて他の地頭領とモザイク上に所領を持ちます。
ところで小国自体、別所の意味はありますか?

>銀杏よ!大杉よ!心あるなら我に語れよ、エミシと別所の歴史を!

末裔には語りかけられているはず。大地の声を聞いているはず。
「現在」において、「現在」として方向づけるのは「現在」の私たちです。

>私は、日本語の基層には、抱合語的要素があったものと考えています。
>その基層に膠着語がかぶさり、現代日本語に発展したものではないかと...

私は、多くの言語は抱合語的ではなかったかと考えています。また、形容詞と動詞の区別をしなかった。
それは存在する物は人間と等しく、生きていると考えたからではないかとも思っています。
抱合語に見られるような人称の接辞から一つの独立した品詞として活用させたのではないかとも思っています。あくまでも私見です。

>つまり、縄文時代、日本列島で生活していた人が話していた言語と、アイヌ語には、連続性があると...

日本列島においても、いわゆる縄文期においても複数の系統の異なる言語グループがいたことも考慮にいれたほうがいいかもしれません。

桃色蜥蜴さん。
>ただし、なんでもかんでも、アイヌ語や韓国語で地名等を解釈するのは、賛成できません。

アイヌ語、韓国語なども化石のように無変容で古代から現在にいたっているのではないことをも留意する
必要がありましょう。
和語も同様です。それに、言語的に近似していても社会言語学的に同一とみなすのも慎重を要するのではないでしょうか。

また、地域、地域間交流(同族・異民族など)、生業などでも、言葉やときに文法体系(異なる言語グループからの文法・語法の借用・交換)
というケースもあり、言語も単一ではありません。

>しかし、風土記、延喜式等に記載されている地名等で縄文に遡れる可能性があるものは、海進等を考慮し、
>当時の地形等を復元した上で、アイヌ語を参考にしてみるのも一つの方法と考えています。

和語、漢語の地名に関しても同じようなことが言えると思います。
また、北海道、サハリン、クリル、北本州におけるアイヌ語地名、エミシ語地名と比較して
実際の地形を見てみるというのも方法でしょう。実際、山田秀三氏はその仕方で北海道、東北地方、
北関東の地名がアイヌ語地名であるかどうか検証して定評を得ています。

>上述の「シャチノミ」「チノミシリ=祈りをささげる場所」と何らかの関係があるのではと思っています。

九州・豊前に求菩提山があります。地元九州の方のお話をうかがいましたところ、八合目の台地に「乳呑坂」という地名があり、北海道に沢山あるチノミシリにそっくりの地形だった、とのことです。

桃色蜥蜴 - 2001/07/24(火) 09:51<

『酒呑考』

min-minさん
『捨て童子』近所の古本屋で斜め読みした覚えあります。
『捨て童子』これも貴種流離譚と表裏の関係にあり、納得できます。
ちょっと話がブレますが、豊田市に『酒呑』なる地名があります。縄文遺跡があり、読みは、「シャチノミ」です。
万葉集等に人称接頭辞の痕跡が見られることから、私は、日本語の基層には、抱合語的要素があったものと考えています。
その基層に膠着語がかぶさり、現代日本語に発展したものではないかと...
つまり、縄文時代、日本列島で生活していた人が話していた言語と、アイヌ語には、連続性があると...
ただし、なんでもかんでも、アイヌ語や韓国語で地名等を解釈するのは、賛成できません。
しかし、風土記、延喜式等に記載されている地名等で縄文に遡れる可能性があるものは、海進等を考慮し、当時の地形等を復元した上で、アイヌ語を参考にしてみるのも一つの方法と考えています。
上述の「シャチノミ」「チノミシリ=祈りをささげる場所」と何らかの関係があるのではと思っています。
それと『酒呑童子』がどう関ってくるかは、まだみえていませんが

KEIJU - 2001/07/24(火) 02:46<

妖怪を見たという友人

が僕は3人います! 琵琶湖近くで 河童を見たというやつ!
高知 海の近くで 子泣き爺 (これは2Mもある大男)
そして 大学の寮内で 餓鬼 をみたというのが!
みなマジです! 皆かなりちかい親友なのですが!!
子泣きじじいは みたときはなんだかさっぱりわからなかったが
ある日図書館で 見た本に記載されていたのとまったく同じで それがそうだと分かったとか”!
どう思いますか???????

眠たいDongly - 2001/07/24(火) 00:09<

赤頭=赤熊?

サクラさん。
 山鉾巡行・・・古来高橋町奉仕・・・犬神人・・・清め・・・赤熊・・・で。
 京の犬神人、高橋町に居住者の奉仕なら、熊野修験の流れではないでしょうか
 。熊野修験は、どうやら東北エミシの末裔の俘囚です。ところでエミシの
リーダーの1人は「赤頭」。閼伽出版の「アテルイと田村麻呂」、
 1) http://members.tripod.co.jp/Accord/BIGLOBE/nip16495.htm に
よると 赤頭=赤熊の可能性があります。アクロ王と田村麻呂については、
 2) http://www0.9-page.so-ne.jp/gb3/s-kimura/tamuramaro/akuro.htm
などです。また赤熊・しゃぐまで探すと関連地名の多くは「別所」地名のよう
です。また野史研究会でシャグマヲや臼太鼓踊りなど「頭に被り物する踊りは
別所系」と学びました。
 「しゃぐま」の秘密がここから解明できませんか。いかが。
 2)にある「宮沢賢治のアクロ王の詩」の中身が理解できません。
 よろしければ解説をお願いします。

min-min <http://homepage2.nifty.com/TUBA/> - 2001/07/23(月) 23:31<

捨て童子

ピンクのトカゲさん、こんにちは。

『サンカ研究』田中勝也著読み終えたところです。なかなか興味深かったです。
同時に『捨て童子・松平忠輝』隆慶一郎も読了したところです。
第一巻の冒頭で隆慶一郎が「捨て童子」について民俗学的?に述べていますのでちょっと引用して
みますね。
「<捨て童子>という言葉の呼び起こすイメージは、いつの世にもある単純な『捨て子』のそれでは
ない。貧困の故に、或いは片親しかいないために、産みの親が窮して捨てた『捨て子』と<捨て童子>
とは、画然と異なった別物である。<捨て童子>には、この世のものならぬ異形の者、つまりは怪物・
化け物のたぐいが持つ途方もないエネルギーが感じられ、その力が聞き手の胸の中に、一種の畏れと
戦慄を産み出すように思われる。
事実、この言葉が使われるのは、伊吹童子、役行者、武蔵坊弁慶などの生い立ちを語る中世口承文芸
においてであり、また大江山の酒呑童子の場合である。
酒呑童子の名は後世になって、酒を愛し、酒に明け暮れる大酒のみだから、なずけられたものだと
解説されるようになってしまったが、元々は<捨て童子>のステがシュテと訛って『シュテン童子』
となったと思われる。このことは御伽草子の<伊吹童子>が酒呑童子の前身は<捨て童子>だと書いてい
ることで明かである。『鬼っ子』は不思議な誕生の仕方をし、忌み嫌われ山中に捨てられる。しかし、
こうして捨てられた<鬼の子>たちは、死ぬどころか平然として行き続け、例外なく人間とは思えぬ異様
な力を身につけることになる。」と。
とまれ、この『捨て童子・松平忠輝』は同じく隆慶一郎の『影武者・徳川家康』とシンクロしながら
描かれる長編傑作でございますねぇ。

min-min@横浜でした。

もんむー - 2001/07/23(月) 22:54<

山はほらあなである

高田宏「われ山に帰る」(岩波書店同時代ライブラリ)は社会主義者、民俗学者、
児童文学者であった小山勝清の伝記です。挫折するたびに東京と球磨の晴山を
往復した毀誉褒貶の激しい人だったようです。

社会主義運動に挫折した小山は自分が生れた山里の晴山にユートピアを見出そ
うとします。村の伝承を収集して「或る村の近世」を上梓しました。

都会人や平地人と自分たち山里の人間との間にある文化的な差異や、山里の持
つ理不尽でありながら丸くおさまってしまう不可思議な秩序、そして山への畏
怖を数多くの作品に描きました。

「それからの武蔵」
「牛使いの少年」
「王者の牙」
「彦一頓知ばなし」

小山は日本社会の持つ重層的な文化に興味を持っていたようです。戦に破れた
敗軍を受けいれ、山窩のような異質な人々をも受け入れしまう山里の懐の深さ
を小山は愛しつづけました。

晩年、自身の顕彰碑を建てるにあたって、
小山は「山はほらあなである 勝清」と揮毫しました。
関係者は意味がよくわからないまま、そのまま建てられ、今も残っているそう
です。

深夜、月に照らされた山の山腹はまっくらで、ぽっかり穴があいているようで
す。そのほらあなが自分たちの知らない異界に通じているように勝清は感じて
いたのかもしれません。

「山はほらあなである」というレトリックがこのように使われるのを知ったら
「山窩」という名称が意味するところが大きく広がるような気がしました。

でわでわ

草刈Dongly - 2001/07/23(月) 22:35<

九州は小国別所

 NA-MIさん。間違えました。北里柴三郎は小国別所の出身です。
 よく行った黒川温泉近くの、元は赤馬(これも別所地名です)なる
小国には、樹齢1300年以上(幹周9.6m、高さ25m)の大杉、
樹齢1000年以上(幹周12.8m、高さ38m)の銀杏があるそう
です。東北から移配された俘囚やその末裔、あるいは元が攻めてきた時
鎌倉から来た北条氏(九州「大本営」をここに置いた)の姿をみたはず
です。西里小学校があり、やはり東・西・南・北の地名があったか。
 銀杏よ!大杉よ!心あるなら我に語れよ、エミシと別所の歴史を!

NA-NI - 2001/07/23(月) 20:25<

別所推定の場所

なるほど。おっしゃる辺りでしょうか。

 >別所推定の場所は、平河(今の内堀)と国立近代美術館の丘にはさまれた所でしょうか。
 >霞ヶ関は、かすみの関が置かれていたらしいです。(4kmくらい渋谷寄りにも霞町あり)
 >ここの関守と別所が関連があったかも。
>またちょうどこの辺は古代豊島郡と荏原郡の境でもあります。

郡界に別所ありとは菊池氏。豊島郡と荏原郡との境辺りに東光(薬師)寺があったのではないでしょうか。

>北里柴三郎の出身地も確か四国の山中で、別所のようでしたが。

横レスですみません。確か出身地は阿蘇・小国ではありませんでしたか。奴留湯温泉の近くの。
ちなみに大字で「北里(西里も北西にある)」なんて地名があります。

>一条戻橋の茨城童子 河童伝承とダブルところありますし、

某所に河童封じのお堂が山頂にありますが、かつて白山上宮だったのでは、と疑っています。
山腹に白山神社があり、童子丸という地名、海浜に恵比須社が2つなど。防人として配置されても
おかしくはない地勢も考慮に入れて考察中です。

ヤゾ− - 2001/07/23(月) 19:45<

下北山村へ行ってきました

下北山村でのサンカの瀬降り跡地の現地取材に同行し、
少し前に山小屋に帰ってきました。
この秋にサンカの本を出される沖浦先生が、
サンカと接触のあった人達の話を聞くといった感じの撮影でした。
サンカの子供と友達になり、その瀬降りに遊びにいった時の話しや、
サンカから直接、籠を買ったおばあさんの話しなどを瀬降り跡地で聞きました。
新事実も飛び出したりして、とても貴重なお話を聞くことが出来ました。
そして60年以上前にサンカから直接、籠を買ったという90歳くらいのおばあさんが、
その時の籠をまだとってあるというので、それを見に行きました。
その60年以上も大切に使っていた籠を、僕が欲しそうな顔をしていたら、
『持って行ってええよ』とくれました。嬉しくて泣きそうになりました。
下北山村ではサンカに対して、一切、差別的なことはなかったそうです。
同じ山に生きる仲間として意識し接してしたそうです。
役場の人も教育委員会の人もサンカのお話を聞かせてくれたお年寄りも、
とても人の良い親切な人たちでした。
取材に同行できたキッカケを与えてくれた利田ヤゾウには心から感謝しています。

ピンクのトカゲ - 2001/07/23(月) 18:30<

道宗伝説

日焼Donglyさん
田中勝也著『サンカ研究』第二章『乱裁道宗』からの引用です。
当然、一種の貴種流離譚であり、事実ではないと思っております。
しかし、時代的に酒呑童子とダブルあたりが重要だと思っています。
一条戻橋の茨城童子 河童伝承とダブルところありますし、
ところで、全然関係ないことで富田林市のホームページ開いて、富田林の民話ってページ見たら『毛人谷』って書いて『えびだに』って読んでたって書いたりました。
浮囚と関係ありそうですね。

利田 - 2001/07/23(月) 18:19<

にっちょさん!!

にっちょさん、おこんばんわ!
にっちょさんの書込みを見ていると、将来の自分を見ているようです。特に「釣り」関係の話。
へち釣りでオオカミ級のシマアジってどこで釣るの?
やっぱり八丈でしょうか?
この掲示板で釣りの話題ばっかりというわけにも行きませんので
お暇なとき、メールください。
メールアドレスは
tosida1@mail.goo.ne.jp

ヤゾー
たまには、取材を受けるというのもいい暇つぶしになったかと思います。




ふぁる - 2001/07/23(月) 14:20<

稲荷の付近

王子の話題が出てましたね。
私は稲荷参りの出発点(つまり稲荷装束)の凄く近所にて仕事してます。
北とぴあの通りです。冬場は風が強くて大変です。

テレビ取材ですか。ETV8とかでも取り上げて欲しいですね。

パネルディスカッションに集められそうな人なんて、どんな人がいるやら。

日焼Dongly - 2001/07/23(月) 14:14<

今日も布切れ1枚の

非人生活です。
きょうかいさん。
王子・王寺・王司は童子村の名残り(石山堅)。寺奴・神奴の内、院内からも
遠く離れ暮す最下級の者。寺社が潰れたら奴隷解放で自作農になった者もあり
とか。『秀吉は八の者』にあるように八は別所者、東京に八王子すらあります。
中世期事情により「堀の内」「土居」になった別所もあります。
北里柴三郎の出身地も確か四国の山中で、別所のようでしたが。
 慰疾園には精神病棟があったのでは?競馬場・家畜研究所あればその地には
騎馬・遊牧民族の背景や苗字はないでしょうか?野史呼び名辞典から考察すれ
ば「唐ケ崎」は両者の要素を感じますが。
 今の警察官は江戸期には道祖神・「地蔵」で、地蔵=交番です。ただし地蔵
「さん」は女警察官でしょうか?地蔵ある所、番多夫婦共稼ぎの地ではないで
しょか。通行セキュリティのためには1文×2=2文を地蔵は要求しました。
なければ「行きはよいよい 帰りは怖い とうりゃんせ」天神参りでした。
おミヨさん。
 甲州(甲斐=カイト地名で、別所)や八ケ岳はサンカのアジ−ルがあるそう
です。小海線沿いの大別荘には注意すべきです。詳細は故・金丸さんへお聞き
下さい。
ピンクのトカゲさん。
 大江山・酒呑童子を騙す時、頼光らが羽黒(修験)を自称したとするのは本当
でしょうか。道宗は藤原道隆の庶子というのは疑問ですが?八切説で唐から来た
下級役人の藤原氏が「高貴」という前提でしょうから、腑に落ちませんが。

きょうかい - 2001/07/23(月) 12:21<

皇居の別所

>ところで、話変わりますが、櫻田別所とは霞ヶ関あたりですか?
>江戸城の地に別所があったという噂も聞きますがどうでしょうか?
 菊池山哉の説だと、櫻田郷の別所は、下平川村だそうです。
 今でも残る、祝田、千代田地名から寿ぎ(ことほぎ)の住地を示唆しています。
 また熊野関係の文書も出ています。
 何しろ、太田道灌や江戸太郎左衛門以前のことですから、想像は難しいです。
 別所推定の場所は、平河(今の内堀)と国立近代美術館の丘にはさまれた所でしょうか。
 霞ヶ関は、かすみの関が置かれていたらしいです。(4kmくらい渋谷寄りにも霞町あり)
 ここの関守と別所が関連があったかも。またちょうどこの辺は古代豊島郡と荏原郡の
 境でもあります。立ちに溜め池といわれた水の障害がありました。鎌倉時代に頼朝によって
 日比谷の入江の先に団左衛門が、移住しています。
にっちょさん
 コワイ話ですね。でも知らないで使ってたり、乗ってたりすること、結構あるんでしょうね。
 言った方が親切なのか、余計なお世話なのか。僕なら絶対知りたい・・
 船だけでなく、この台地もそうですね。掘ればきっと何かある。 

ピンクのトカゲ - 2001/07/23(月) 09:06<

Re於茂利

おミヨさん
朱雀院の時代ですか。
干支一巡後(990〜1006)だと面白いんですがね。
朱雀院の時代といえば、東国では、将門が興きてますよね!
それと『竹取物語』も、この時代。
干支一巡後の正暦年間(990〜995)には、疫病が流行って
疫病の流行は、自分が下賎な女に子を産ませたのが原因だって
ときの関白・藤原道隆が、丹波の山中に庶子・道宗を捨てるんですよね!
道隆ってかなりの大酒のみだったようですね。
そして、この道隆に仕えていたのが、源頼光。
丹波の鬼は、酒呑童子。
ここに於茂利が加われば...

にっちょ - 2001/07/22(日) 23:08<

海難事故

もうすぐ7月23日ですね、13年前に起きた東京湾での悲しい、私たち釣り人にとって忘れられない衝突事故がありました。
東京湾浦賀水道で起きた海上自衛隊潜水艦「なだしお」と大型遠征釣り船の「第一富士丸」が衝突
富士丸が沈没、乗組員、乗客あわせて48人中乗員2名と乗客28名の尊い命が失われました。(合掌)

私がナゼ、この海難事故を多くの人々と同じように一過性の出来事(国民全てがそう思っているとは思いません)として片付けられずにいるのかは、理由があるのです。

当時聞いた話ですけれども、第一富士丸(当時の船名は違うと思います)は遠洋マグロ延縄船で活躍。
そして延縄漁の最中乗組員同士のイザコザから殺人事件が発生したそうです。
その後「第一富士丸」は近海での漁に転向していた最中、またしても船長が原因不明で死亡する事件が起きました。度重なる事件のため、その後は陸に上がり 気味が悪い船と噂が立ち買い手もつかず、いたところ
某大手商社が一儲けしようと会員制の大型遠征釣り船として復活させました。
バブルもそろそろオワリかなと、そんなときだったと思います。

当時私たちは、伊豆諸島、豆南諸島、小笠原諸島と釣り歩く日々でした、機会があったら一度参加してみようか、などとメンバ−と話していました。
でも噂を知っているので尻込みしていました、そんな矢先の事故でしたので忘れることが出来なくなりました。(合掌)

ヤゾ− - 2001/07/22(日) 23:07<

取材されちゃいました

利田ヤゾウの口利きで、某テレビ局のディレクターと制作プロダクションのスタッフが、
ニュース番組の中の特集でサンカを取り上げる関連として、
僕を密着取材しにきました。
お昼前に来て、約10時間にわたる密着取材は、この前に岡山へ行ったのより遥かに疲れました。
10時間密着取材して使うのはほんの数分なのだそうです。
でも、ディレクターのkさん、制作会社のスタッフさんたちも、とても感じの良い方たちだったので、
気持ちよく取材を受けることができました。
最後は小屋の前で利田ヤゾウが来たときのように焚き火で焼肉を焼いて食べました。

サクラさんのお見舞いで頂いた鬼子母神のお守のふくろうや、
おミヨさんから頂いた本なんかも写してもらいましたよ。
カットされずに放送されるといいけど。

明日、沖浦教授を乗せて下北山村の瀬降り跡地の説明を取材するそうですので、
僕も時間が会えば同行することになると思います。

それとまとめて今日の取材の様子をページとして更新します。
一枚だけ今日の写真を画像掲示板にアップしました。
では、おやすみなさい。

おミヨ - 2001/07/22(日) 21:17<

サンカ娘於茂利

東国でのサンカの本拠は甲州と信州にまたがる八ヶ岳と房総半島
房総半島のほぼ中央の山中に舞台作りの堂宇、大非閣が建つ笠森寺がある。
この寺にはサンカ伝承と思われる寺伝がある。開基は十一面観音を安置した最澄(伝教大師)
だとされるが、中興の祖は於茂利という箕作りの娘だという。
この娘は美しかったので、時の帝、朱雀院(在位930〜946)に召されて后となった。
その後、自分の信心する観音の寺があれていたのを建て直させたのが、笠森寺であるという。  




ヤゾ− - 2001/07/22(日) 20:43<

只今、撮影中です

今、テレビ局の人が来て、この掲示板に書き込むところを撮影しています。
後で、今日の報告をいたします。

桃色蜥蜴 - 2001/07/22(日) 18:31<

祝・武雄山十両優勝

私事ですみません。
武雄山、おふくろの実家のシンヤのシンヤなんです。
また、一つ飲む口実ができました。

サクラ - 2001/07/22(日) 14:07<

暑中です

たらちねの 岩にしみいる 蝉の声 諸行無常の響き在り
         
               あつい...
  
やぞーさん、もんむーさん
     あの「瀬降物語」が撮影されたという四国のやまの中ような
          涼しい、山の風送ってくださいな。
              ヤマガラたちは川のせせらぎに涼を求めているのでしょうか?
                あはは、タヌコはもちろん、暑いってひっくり返ってるよね?
                     おなかだして...

NA-NI - 2001/07/22(日) 05:47<

横レス失礼します。

>今日は、都内豊島区王子に行ってきました。王子地名は、王子権現に豊島氏が、熊野権守を賜った際
>99王子の中の若一王子を勧請したのが因縁だとか。もちろん元は、髪結や芸能の神様です。今日一番の目的は、
>菊池山哉の尾久の半島別所説の検証だったのです。

やはり出ましたね。尾久別所。「尾久」は「奥・置く」でしょうか?
熊野、白山ありましたか。尾久のあたりは低地でしたよね?

私、行く先々で別所をかすめていますが、ここもそうで、
王子の北トピアはちょっとした思い出の場所です。

ところで、話変わりますが、櫻田別所とは霞ヶ関あたりですか?
江戸城の地に別所があったという噂も聞きますがどうでしょうか?

きょうかい - 2001/07/22(日) 03:46<

ハレだいすき

桃色蜥蜴さん
 聞いてると、「ハレ」って言葉が生きてるね。ウラヤマシ・・(ハレがうらやましいのであって、
 状況がうらやましいのではないですよ!うう)
にっちょさん
 競輪で全部外れる事をカッパと教わりました。サセーーー
やぞーさん サクラさん
 今日は、都内豊島区王子に行ってきました。王子地名は、王子権現に豊島氏が、熊野権守を賜った際
 99王子の中の若一王子を勧請したのが因縁だとか。鈴木さんも関係もあります。熊野の広がりに
 驚いた次第。
 王子権現社の境内の隅に関神社あり。蝉丸を祭っています。
 なぜか髪(ゲーハー)の神様になっていました。
 (神様は、流行に迎合してほしくないです)
 もちろん元は、髪結や芸能の神様です。王子は江戸期第1級観光地だったのです。
 今日一番の目的は、菊池山哉の尾久の半島別所説の検証だったのです。
 半島の付け根の北と思われるとこは蛇行している入間川の自然堤防で微耕地になっており 
 また南は岸町という知名が示すごとく、半島説を裏付けるものでした。半島の付け根は、
 旧「堀の内」で白山神社がありました。ただ創立が近世か中世で意味が異なるので
 それを確認したかったのですが、わかりませんでした。感じとしては、団左衛門系にみえました。
 白山神社脇のお地蔵さんをしゃがんで調べてたら人のよさそうなおまわりさんに
 職務質問を受けてしましました。別所を調べてるとも言えず、またこんな事を仕事柄
 質問しなければならない彼に同情して困ってしましました。
 donglyさん
 慰疾園は、唐が崎町のとなり町で競馬場のすぐ前です。唐が崎町には、北里家畜研究所がありました。
 当時、慶応のとなりで住民から嫌われてましたのでここに作ったのかもしれません。なんか
 このあたりは、複雑な感じがします。
 北里柴三郎の件では福沢諭吉を尊敬してます。権ノ助のご教示ありがとうございます。
 なかなか面白いですね。調べてみます。(すぐは無理です)
           

ヤゾ− - 2001/07/22(日) 01:38<

随筆茶壷

>かっぱぎ<かっぱらって、ぎることの意味。

にっちょさん、こんばんわ。
なんか聞いたことあるような言葉です。
でも隠語にお詳しいんですんね。

>その注連縄抜刀して切っていくんですけど、そのきる役って言うのが、被差別地区なんですよ。

桃色蜥蜴さん、こんばんわ。
そうですか、なんか貴重な話のような気もしますが、
どういういわれからなんでしょうね。

>神社の古式のお祭りなんだから当たり前の事なんでしょうけど、犬神人の装束そのままの、清目があり、
>ぼうふりがありました。赤熊(しゃぐま)なんかも現れていましたが...

サクラさん、こんばんわ。
さすがに京都に行ってきたばかりだからお詳しいですね。
祭りというハレの場にケガレとされた人が役目を持つというのは不思議な世界がありますね。

『明和のはじめのころ、いづもはうきのくにざかいの山おくにさんくわすみ、さとさとにいでては、金穀をかすめさることしきりにて、
たくはへありてくらなどをもついへいへをねらふ。そのすがた、けもののかわなんどをき、ふぢづるのあみがさをかぶり、
やまがたなさし、二十にん三十にんとたむろをなしておしこみきたり、ものおほくうばひさる。ふしぎななるは、
まづしき家にはいらず、ひとをあやめぬことにして、云々・・・』

と小説『風の王国』では成瀬閑次の随筆茶壷にしるされているとあります。
検索でしらべてみて、なにもヒットしなかったけど、
本当の話しなんでしょうか?

サクラ - 2001/07/22(日) 00:57<

注連縄切り

ピンクのトカゲさん、二日酔いにならず楽しめたようでよかったですね。
各地もお祭りの季節になりましたね。

四条通麩屋町にたてられる斎竹に張られた注連縄は神域の境界を示すもの。
山鉾巡行当日、その注連縄を、長刀鉾の稚児が太刀で切り落とし、結界を解き放つ。
これにより各山鉾は神域に進む事が出来るのである。
注連縄切りは長刀鉾稚児の重要な勤めの一つであり、この場面は山鉾巡行の
ハイライトの一つといえよう。斎竹は葉付きの青竹で、古来高橋町の奉仕によっている。
ちなみに稚児は八坂神社で五位少将の格式を授けられ、10万石の大名の格式を得るという。
もっとも、祭りが終わると位はお返しするらしい...

神社の古式のお祭りなんだから当たり前の事なんでしょうけど、犬神人の装束そのままの、清目があり、
ぼうふりがありました。赤熊(しゃぐま)なんかも現れていましたが...

永世17年(1520)ころに京都から山口に伝わり天文11年に津和野に伝わったという、
鷺舞も、昭和30年に絶えていたのを津和野からの逆輸入。
白装束に顔かくし鷺の頭に羽根をつけ、羽を広げて舞う鷺たちの周りを赤熊が舞い踊る。
赤熊のことなんか、追いかけてみたのだけど、まだまだ良く分からない...

京都に魑魅魍魎の跋扈した、昔を感じたものでした...

桃色蜥蜴 - 2001/07/21(土) 14:59<

昨日は、楽しかったよ!

桃組サクラさん 桃色柳虫さん
昨日は、楽しみました。
線香代は、花代のことです。昔、時計がないとき線香つけて時間計ってたから、線香代って言うんです。座禅も線香で時間計ります。線香代も座禅のとき使う長いヤツで一時間弱です。
今日は、豊川進雄神社(豊川天王社)と吉田神社(吉田天王社)の祭礼で私は氏子ではないから手筒奉納しません。
三月の末に別宅がある中条神社(鍛冶天神=金山彦)の祭礼で奉納します。
火傷はしますよ!でも、東三河じゃハナビハゲっていって二箇月ぐらい髪もとに戻るまで自慢なんですよ!
何斤詰めたとかハネコ(手筒終わるときに破裂して鏡(手筒の下方の竹の節の部分)を抜くための火薬)どれだけ詰めたとか
明日、吉田神社で神幸祭あるんだけど、鳥居に小指代の太さの注連縄張ってあるんです。京都の祇園でも注連縄切りますよね?その注連縄抜刀して切っていくんですけど、そのきる役って言うのが、被差別地区なんですよ。それも吉田神社の氏子でもない。
小坂井の菟足神社(ウタリ)でも、やってたんですよ。こっちは入るときなんだけど、今は人権問題とかでやらなくなったけど

にっちょ - 2001/07/21(土) 09:45<

カッパギ

隠語
かっぱぎ<かっぱらって、ぎることの意味。 ぎる<だまし  (さだまさし、ではありません)

サイコロ博打のチンチロリンで親の4・5・6・あるいは、6の目めで子の掛け金総取りのこと。
河童と関係ないですね、失礼致しました(笑)

ヤゾ− - 2001/07/21(土) 00:57<

新宮とカッパ

>新宮の景色見ることができ嬉しかったです。
>新宮という名を聞くと、やっぱり胸きゅんとなります。

僕が始めて新宮へ行ったのは、そう、もう10年以上前になります。
東京からこちらへ来て、オンボロクルマで熊野を巡る旅をしている頃でした。
熊野三山、十津川村、北山村、玉置山、花の窟神社などを巡ってから、
新宮の町の中に入った時には、丁度、お祭りの最中でした。
物凄い山奥を巡ってきた後で見た町の祭りは、とても華やかに思いました。

新宮の廻りって本当に物凄い田舎というか、なんにも無いんですね。
ですから、例えば熊野川の上流の北山村の辺りや、十津川の南部の方、
花の窟神社の辺りでも、身近な町となると新宮にでるしかないんです。
だからかもしれませんが、小さい町なんですけど活気があるように感じました。

その新宮では、三代続いた家は少ないと中上健次さんの本では書かれています。
漂泊的な町なのかも知れませんね。
それと文化的には和歌山というより名古屋に近いといいます。

>二十数年前、黒鯛釣りに夢中だった頃の話です

にっちょさん、僕も黒鯛(チヌ)釣りに狂いましたよ。
僕も釣りで怖い思いをしたことがあります。
渓流釣りに狂っていた頃に、
クルマから1時間近く歩いた上流にある滝壷で、夢中になって釣りをしていて、
ふと気が付けば辺りが薄暗くなっていました。明るいうちの景色とは違い、なにかとても無気味な感じがして、
おまけに滝のゴーという音の中に人の話し声みたいのが聞こえるではありませんか。
空耳に違いないと自分に言い聞かせながらも、竿を素早く仕舞うのですが、
手が震えて上手く仕舞えないし、どうしても人が話しているように聞こえるのです。
そういえば前に滝というところは霊が集まりやすい場所だと聞いたことを思い出したりして、
余計に背筋がゾーとして慌ててクルマのところまで川をサンカ走して戻ったことがあります。
もしかしたらカッパの話し声だったのかもしれません?
足腰の弱った今だったら、途中で転けてカッパに捕まり、カッパにされてしまうかも。
なに、もう充分、カッパみたいだって?

Dongly - 2001/07/21(土) 00:47<

みなさん優雅で

 結構毛だらけ、猫灰だらけだらけ。老い先短〜し、恋せよ。。。
 資料と現地確認のため南愛媛にいって参りました。
 びっくりしました。篠山、そう丹波篠山と同じ山に、ただ独り
 車と二人で上ってきました。唯一のお土産は「浮浪」長寿の水。
 やっぱしカルキなしの水はおいしい。紅茶をつくると香がします。
 ところで、篠山観世音寺の権現、虫送りの際頂上から火を貰ったと
いい、十一面観音を祀るなどで、別所になっていたようですが、懐良
親王を匿った事があるのに、明治になっても壊れた社は神社としても
再建されていません。南朝方に加担した熊野大社は川の中州から山の
中腹に再建されましたが。90代続いたと称する所谷家(神主)は私
がウガヤ朝系と考える黄幡様が氏神です。
篠山頂上近くに変事があると朱色に染まった伝わる「矢筈ケ池」があ
り、虐殺の古事を伝える記憶でしょうか。江戸期でもこの山は「尊い
山」として遥拝したとの記録されております。東側は高知県幡多郡で
中世に公家大名の一条がいたことがある地です。先住民王朝系のアジ
−ルの隣に天皇家の直轄地というのも、とても興味深々です。
先住民族系と別所が一部重なる典型的な例のようです。
もちろん神官家は江戸期は土佐との国境の道番庄屋も兼ねた模様。
篠山の周辺はサンカ地名が見られます。篠山北側は女の夜這(夏
いよいよ真っ盛りですネ!!)で知られています。夜這を「定点観測」
(どのようにするのでしょうか。見る阿呆より踊る阿呆を好きです)
して卒業論文に書いた女子学生もいたそうです。
また元高校教師はマラソンで全国に進出した原動力は、1人の快足持
ち主がいたためといっています。ふーな(現職は飛脚)でサンカの末裔
とみたいのですが。野球で全国優勝した徳島の高校の場合と同様でしょ
うか。南愛媛の方がおられたら調べて欲しいと思います。
エミシまたは別所の女神、白山姫の菊理姫もこの地方各地にお元気に
宿っておられます。

サクラ - 2001/07/21(土) 00:17<

もう、よっぱらっちゃって...

やなさん、なんで驚くの?
   やなさんを酒の肴に飲むのはきっと楽しいと思うのに...(^^)

ピンクのトカゲさん、
     明日は手筒の奉納をされるのですか?
            やけどしないようにね。
子供の火遊びはおねしょするっていうけど、
       大人の火遊びはやけどするっていうよ〜(あはは、違うって!)

だって、ピンクのトカゲさんのイメージがどんどん....
           ん、考えてみたら、まだイメージが出来てませんでした!
                   ほんに貴方はカメレオン...

芸者さんと遊んだ事ないんだから、いろはのいの字から
     ちょっと教えてくだしゃんせ?線香代って花代のことですか?

にっちょさん、恐い話ありがとう...
    舟幽霊を思い出しちゃった。
         釣り舟に乗る時は舟幽霊に御用心...御用心
              海坊主もおるんでよ〜
                  (でも本当は釣りの成果がボウズのほうが皆こわいのかなぁ)

桜ん坊 - 2001/07/20(金) 23:29<

やっつくやっつくやつくな

ピンクのとかげさん・・あたいもよしとくれ!!
  仲間部屋・・チャット・・セブリで話そうかね

桃色蜥蜴 - 2001/07/20(金) 23:26<

桃色柳虫さんへ

線香代清算し、いまからプライベートモードです。
今度は、一緒にしましょうよ。芸者会。
みんなで歌いましょうよ!
一人じゃ寂しいですよ。
さぁみんなで歌いましょう。
「うめがいのちょぉつばち たたいておかねがでぇえるならば〜 もしもやおかねがでたときにゃ そのときゃげいしゃをよぉえぇばよぉい〜」「べろべろのかみさまは しょぉじぃきかみさまで おそそのほうえとおをむける それ おをむける」
いまから芸者の××と朝まで盛り上がりますよ!
皆さん邪魔しないでね!
でもエッチはしないよ!ってつもりだけど
今度は桃色倶楽部で飲みましょう!
桃色協会さん 桃色柳虫さん 桃色野象さん

桃色蜥蜴 - 2001/07/20(金) 23:13<
間違えて登録押しちゃった
パスワード覚えてないよ。
桃色協会.桃色柳虫.桃色野象
みんなで一緒に芸者会やろうよ。
いま、料理屋のパソコン借りて打ってます。
みんなでウメガイ歌おうよ!
頓珍漢小僧君
今日は、豊川進雄神社、からくり花火ありました。
各町内、趣向を凝らし、リヤカーに乱玉・大筒を仕込み、導火(ミチビ)でつなぎ、仕掛け、乱玉、大筒を効果的(鑑賞に堪えるように)工夫を凝らして奉納します。
明日は、今日の午前中に詰めた手筒を奉納します。
あくまでも奉納だから火の粉被るのは当たり前、手筒を抱え、火の粉を被りつつも本殿に一礼して、一人前です。
東三河じゃ火薬なんて一般の人間が調合して当たり前のことです。
さぁもう少し飲みますか
線香代抜きのプライベートで

ヤナギムシ - 2001/07/20(金) 23:09<

とらとーーらとらとら

桃色とかげのお兄さん・・宴会サンカさしてくださいませ
  やーーーーとせ・はいいずれこれより・・御免こうむり音頭の無駄を言う!!
  あーーーそれそれ・・

けけけけ一番は、・・へへへへやなです

     宴会の花・・
       おおおっと・・若い姉ちゃんのご来場・・けけけけ
         んんん・・なんで・・・・

        なんで・・??さくらさんがおるんや・・・

                さいなら

桃色蜥蜴 - 2001/07/20(金) 22:57<

何で誰も来ないの

宴会やってるよ。

にっちょ - 2001/07/20(金) 18:46<

不思議な話

寝苦しい夜は、チョット怖い話でも・・・
二十数年前、黒鯛釣りに夢中だった頃の話です
早朝、渡しの船で(船と言っても船外機15馬力の小さな船です)磯に向かう途中、水死体を見つけ
ました(合掌)船頭が船を近づけ、なにやらその仏様に小声で話しかけていました・・カナラズモドルカラ待ってなさいと・・・・
そして私たちを磯に渡した後その仏様を船に収容して手厚く港まで運んだそうです、ちなみにその場所は
川のように流れの激しいところです、数年後渡しの船頭さんが港を出たまま帰らずにいたところ、船の中で亡くなって海流に流されもせず同じところをグルグル廻っていたそうです、そしてその場所は以前仏様を収容したところだったそうです。(合掌)>船頭さんはお歳を召した方でした。

永く釣り歩くと不思議なことを聞いたり経験したりします。
私の第二の故郷、伊豆諸島神津島にもオモシロク怖い話がたくさん言い伝えられています。

桃色野象 - 2001/07/20(金) 17:30<

桃色シャワー?

今日は朝から山小屋の周囲の草刈りと片付けをしました。
汗が滝のように流れ、喉が渇いてペットボトルに水を入れて冷やしていたのを2本飲みました。(貧乏くさ〜)
途中、タヌキが僕の様子を伺っていましたが、
時々、餌をあげているのだから、少しは刈った草を運ぶくらいしないものかとも思いましたが、
そんなことは知らんとばかりに鼻をクンクンさせていました。
ネコならずタヌキの手も借りたいくらい大変だったのです。

さっき外でフリチンで水シャワーを浴びてクールダウンさせたところです。
ヒグラシがカナカナと鳴いて、夕立ちが降りそうな気配で冷たい風が吹いてきました。

なんだか小学生の夏休み日記みたいだなぁ・・・(-_-;)

ピンクのトカゲ - 2001/07/20(金) 07:59<

桃色シリーズU

サクラさん
予想的中しましたね。
桃色柳虫まで登場しましたよ!
事情知らない人見たら
なんとなく怪しげなサイトですよ。
桃色きょうかいさん
桃色協会or桃色教会なんてしたら益々怪しげですよ。
でも、まだ大丈夫ですよ。
アダルトサイトで検索かけても、このサイトリンクしませんから

桃色×× - 2001/07/20(金) 07:20<

桃色シリーズ

桃色ヤナギムシがダンゴムシだったとは、知りませんでした。
今日から、豊川進雄神社(豊川天王社)と豊橋の吉田神社(吉田天王社)のお祭り
芸者の××のケータイ入れたら今日は、空いてるとのこと
線香代もって出かけますか
煙火見に行きがてら
夕方が待ち遠しいピンクのトカゲでした。

桃色ヤナギムシ=ダンゴムシ - 2001/07/20(金) 01:01<

けけけけけけ

にっちょさん・・人の釣果で一喜一憂しては、なりません
  自分の釣果だけが真実なのれす・・!!

  坊主は・・死ぬまで修行あるのみ・・なんか・・寂しいね!!

おミヨさん・・おひさです

    みなさん・・お暑うございます・・
      ヤゾーもうお帰りですか??

    こんやは、なんかへへへへ浮かれてます
      けけけけ
           ほなさいなら
                   
                   ・・桃色ヤナギムシ=ダンゴムシ

           

サクラ - 2001/07/20(金) 01:01<

おひさしぶりです!オミヨさん

新宮という名を聞くと、やっぱり胸きゅんとなります。
      懐かしい浮島そして、路地...
         やぞーさんがなんとなく新宮が好きっていうのもわかる気がします。
           そして、私も新宮が好き...

雨降りましたか?やっぱり...
それにしても、
桃色蜥蜴さんに桃色きょうかいさんですか?
まさか、桃色何さんや桃色コロコロさんは現れないでしょうねぇ...

桃色蜥蜴さん、頭真っ白にして、体真っ黒、そして桃色に黒蜥蜴...
あはは、まるでカメレオンみたいで笑っちゃいました!
色彩感覚は豊かな方とみた!!?

やぞーさん、おミヨさん同様、伊勢のお話待っています。
   お風呂入って、おはだつるつるになりましたか?
        うふふ...                                             

やぞー - 2001/07/20(金) 00:57<

みなさん、こんばんわ

サクラさんも無事に京都から戻られたようでなによりでした。

ピンクのトカゲ さん、そのウメガイの都々逸みたいの面白いです。

おおおミヨさ〜ん、お久しぶりでした。

にっちょさん、今度は石鯛釣って下さい。

僕は眠くて訳が分らないので寝ます。
伊勢と北山村のことをページにしましたが、
文章があまり浮かびませんでした。

にっちょ - 2001/07/20(金) 00:28<

探索

近くの(歩いて5,6分)白山神社と熊野神社へ行って来ました。
身近に寺社、仏閣、があまりにも多く在るので、かえって無関心に成っていたのでしょうね
Kumanolifeで勉強させて頂いたおかげで、新しい視点でこれらの文化といったものを見つめ直しています。いろいろ周りをみてみると白山信仰のタタラにまつわる地名がワンサカと在りました。

これからも私なりに勉強をしていくつもりですので諸先輩方の専門知識の書き込みを日々楽しみにしております。

釣り友達から石鯛3尾の釣果ありとTel、おめでとーーとは言ったものの内心クヤシーー
私は近々、シマアジのヘチ釣りで頑張ってきます。(目標オオカミ)

おミヨ - 2001/07/19(木) 22:36<

新宮

北山村での探索、無事に終え、何か収穫ありそうな書きこみ、楽しみにしています。
風の王者、中上を育てた新宮、新宮での路地の世界の主人公達に想いをはせ、
一度は尋ねて路地の世界に浸って見たい憧れの土地です。
先日、「火まつり」のビデオ見ることが出来、新宮の駅が画面にでていて手に汗(オーバな!)
別にどうってことない駅でしたが、新宮の景色見ることができ嬉しかったです。
ビデオの感想は?う〜〜ん景色に視点がいっていましたので・・・・・・・。
やぞーさんゆっくり温泉にひたってご無事にお帰りください。

うみさんとはもしかして〜〜近所どうしだったりして・・・。
クミコさんどうしていらっしゃるんでしょうか。
サクラさん京都よかったですね。
おユキちゃん夏バテいかがですか?お大事に。
利田ヤゾウ ヤナさん暑さにまけませんように・・・。
とんちんかん小僧さん Donglyさんもお元気そうで・・・。

皆々さまに書中お見舞いもうしあげます。

やぞー - 2001/07/19(木) 18:29<

これから帰ります

北山村近辺を約5時間ほど探索、なんの探索かは秘密?
北山川支流の林道を進むと、川底がキラキラ輝き、如何にもアマゴがいますといった感じに、
思わず川まで降りていって、石ころをめくって川虫を確かめたりして、
竿があればアマゴ釣りをしてしまいそうになりました。
今度は竿をクルマに積んでおこう!
北山村から熊野川町に出て、熊野川を下って今は新宮にいます。
新宮で少し調べものをしたかったので、遠回りしてしまいました。
帰りに川湯温泉か湯の峯温泉で汗を流してから山小屋へ帰ろうっと。
まだ日は明るいです。

ピンクkのトカゲ - 2001/07/19(木) 12:34<

ヤソー

朝熊山参ってきたか?
内宮だけじゃ片参りだぞ!

やぞー - 2001/07/19(木) 09:21<

お参りしてきました

みなさん、おはようございます。
朝一番に清々しい気持ちで伊勢神宮内宮にお参りをして、
今は紀伊長島町のあたご山前という電話ボックスに居ます。
これから北山村を目指します。
これからの道は物凄い山道だと思います。

ピンクのトカゲ - 2001/07/19(木) 05:56<

雨降ったよ!

サクラさん
雨降ったよ!昨日10時ごろ寝ちゃって知らなかったけど、朝、工場の電気入れにきて道路冠水してました。
祇園祭ですか。いいですね。
ところで知ってます 京都の笛と江戸の笛、指押さえる穴の形違うの 京都は、真丸、江戸は楕円だってこと
そして、なぜか阿波踊りの笛は、江戸と同じ楕円だってこと 

サクラ - 2001/07/19(木) 01:23<

やっぱり、雨は降らなかった...(^^)

暑いなんてこともなく、京都に着いて出かける時には一雨の後..
     ふふ、涼しかったのでした!

16日の宵山は八坂神社に落ち着いちゃって、
鷺舞い・田楽・果ては出雲石見神楽を最初から最期まで見てしまいました。
須佐之男命・櫛稲田姫命を祭る縁で毎年奉納されてるお神楽なそうな...来年が30回目とか..
お神楽の楽しさに引込まれ、母などは、夷さんが蒔いたアメをもらってニコニコ...
やまたのおろちも迫力満点でいいもの見せてもらったと...
昔は4里も歩いて、カラクリを見に行ったものだと...思い出で話も飛び出して...

演目の2番目に「塵輪」があり、「古事記」にみえる仲哀天皇の熊襲征伐を舞台化した演技だそうな。
第14代の帝、帯中津日子天皇が「異国より数万騎を従え攻め来る中に、塵輪ともうして身に翼あり、
神通自在に飛びゆく大悪魔。国々村々を駆け巡り、日々人民を亡ぼすこと数知らず」と聞き、その
悪魔を退治したという舞いである。
*異国とは「新羅」
*塵輪とは、正史にはないが、熊襲と相提携した新羅軍最高司令官の名称では?

と解説には書いてありました。

まつろう人々の暮らしと、伝統があやしい夜風の中
火を吹き、煙りまであげて、八坂神社にきらびやかに、激しく演じられたのでありました。

はてさて、京都のきらびやかな風物は、
     寺社のひろさ、華麗さも、権力者の腕の見せ所...
          千年の昔から、怨霊飛び交う京のまち
               コンチキチンの音聞きながら、さまよったのでありました。

やぞー - 2001/07/18(水) 22:36<

お伊勢参り

みなさん、こんばんわ。
今、僕は伊勢神宮の近くの公衆電話に居ます。
少し前に伊勢市外の銭湯で汗を流して、
月読宮というところを散歩していましたら、
なななんと利田ヤゾウから電話がかかりビックリしました。
もう少ししてから適当な場所を見つけてクルマの中で寝ます。
朝一番でお参りしてから、今度は北山村へ寄ってから山小屋に帰ります。

そういえば、この前は美作のコンビニの近くの公衆電話からチャットを覗いてみたら、
ヤナさんとサクラさんが居たので乱入してやったのでした。
この季節の公衆電話からのモバイルは虫が多いので大変です。

ピンクのトカゲ - 2001/07/18(水) 19:43<

ウメガイ

単純すぎて気にも止めなかったけど
お祭りの若い衆やってるころ、そういや芸者会で「ウメガイの手水鉢、叩いてお金が出ぇるならぁばぁ もしもやお金が出たときにゃ そのときゃ芸者を呼ぉべばよぉいぃ」っていうのよく歌ったよなぁ
いまじゃ裃着て山車の上で笛吹いてるけど、あのころはよかったよなぁ
毎年お祭り終わりゃぁ給料の三倍ぐらい線香代借金あったけど
今年のお祭りに若い衆歌ってんの山車の上から聞いてたら、節違ってたから、ちゃんと教えておきました。
無理もないよな!今じゃコンパニオンだもんね!三味線弾けないから でも、コンパニオンもいいな
週末には、たまには芸者呼んで飲むか?一番若いっていっても俺と同い歳の××呼んで
ヤゾーさんハジメみなさん
来ません?一緒に遊びません? 

桃色きょうかい - 2001/07/18(水) 12:34<

山の裾野か、ジーパンか

NA-NIさん
>結構眺めがいいところですか?
北東から反時計回りで筑波、日光、赤城、榛名、その隙間から中央アルプス
白根、浅間、八ヶ岳、秩父、丹沢、富士山と見えます。ウソぴょんです。
ビルが、なかったらの話。最近、又下の短いジーパンが気になります。

褐色蜥蜴(季節限定) - 2001/07/18(水) 07:49<

訂正

とんちんかん小僧様
武田の軍師・山本家は、武田の軍師・山本勘助の入力ミスでした。あしからず

NA-NI - 2001/07/18(水) 03:07<

こんばんは

やぞーさま

>どうやら僕の質問の仕方が悪かったようです。
>熊襲や隼人が別所といわれるところと関係があるのかという意味の問いでした。

私も早合点でした。
私も探っているのですが、よくわかりません。
長府印内と福岡香椎別所は接点があるかもしれません。
隼人征討の拠点となった場所ですから。

また宇佐神宮は大分県宇佐市ですね。東隣の山間部が院内町です。

きょうかいさま。

ご教示ありがとうございます。
なぁんだ。「鷹番」は関係ないのですか。残念。高台の推測は当たってましたね。
結構眺めがいいところですか?

Donglyさん。

烏森は熊野修験の場でしたか。
高台の住宅地という記憶ですがぜんぜん知りませんでした。

>東北藤原氏(俘囚長?)は、南部にお住まいの非人系(サンカも入り
ますが)のサイト、
 
エミシ系は非人には置かれていなかったと思うのですけれども。。。藩政期においても
エミシのアイデンティティを民衆から引き離すために奥浄瑠璃などが盛んでしたね。 

やぞー - 2001/07/18(水) 01:31<

みなさん、こんばんわ。

さんかうぶ (酸化初心者改め)さん、こんばんわ。
楽しい報告、待ってます。

おユキちゃん、お久しぶりです。
そういって頂けると、僕も嬉しいです。
夏ばて、お大事にね。

ヤナさん、僕もヨダレを垂らしてうたた寝してました。
枕が汗と涙とヨダレで濡れてます。

桃色蜥蜴さん、カワイさを求めますか?
面白いです。

KEIJUさん、ごめんなさい、分りません。

ヤナギムシ - 2001/07/18(水) 00:46<

けけけけっけ

またまた・・又呑んでます
  けけけ・・無能について考えた・・!!
  人の無能である事て・・なんなんだろう
   自分が無能である・・なぜわかるんだろう
    無能である事、それは、あくまで・・他人の評価ではないか・・!!

  そんな事気にしてるから・・そんな事かんがえてるから・・・
          

   ふん・・・ま   !どうでもええか
   
     あーーんぐり・・口をあけてたら・・・・・・
           あほみたい・・・
            よだれが・・垂れた


         今日また・・・蝋燭の火がひとつ・・消えた!!

             

Dongly - 2001/07/17(火) 22:23<

東京は昔穢土

 きょうかいさん。
 唐ヶ崎に「廃疾園」は含まれますか?「宿」山は新宿と同じ「夙の者」
「祝の者」「志久の者」の住地か。西宮の夙川は有名。「烏森」は修験
の溜まり。なぜなら熊野修験のシンボルは烏。「競馬場」は「博労」
「馬飼」「草刈」など馬に関連の方の場所。種付場も付属するはず。
「権ノ助坂」を「権助」由来と見れば「下男」「浮浪窃盗」で、恐ら
く後者の出没した坂。ならば「蜂追い」「源氏おい」「阿弥陀蹴り」
「トンボ追い」など「車押し」の縄張でしょう。伝説があるはず。
明治期東京の「車力」「やど」「ぽん」などの父さん・爺さん。
 横浜の「権太坂」はもっと腕っ節の強い方のテリトリー。
 自由ヶ丘はよく行った焼鳥屋はない。金のない身には「不自由ヶ丘」
東北藤原氏(俘囚長?)は、南部にお住まいの非人系(サンカも入り
ますが)のサイト、
   http://www.tcup5.com/501/masahiro.html/ が詳しいです。

きょうかい - 2001/07/17(火) 17:49<

鷹番

NA-NI さん
 鷹番自体は、別所と関係ないように思います。目黒区鷹番は、
 目黒川と呑川にはさまれた、高台で居住快適の所です。
 徳川時代の鷹狩と関係ありです。ただ、鷹狩に伴う職人としての
 鷹匠、エトリとの関連は、要注意です。(まだ調べてないです)
 目黒通りを鷹番から目黒駅方面へ行くと大きな電波塔が見えます。
 この辺、なぜか「唐が崎」といいます。次には、かつての「廃疾園」
 を過ぎて「目黒競馬場」あと。坂を降りて環六をわたり権ノ助坂の
 手前北西の目黒川沿いが、先の目黒別所につながります。
 烏森は、目黒川をへだてて、ちょうど別所の反対側にあたり、この辺を
 宿山といい、馬頭観音があります。
 渋谷、中目黒、学芸大学、自由が丘など私鉄駅沿線には、関西の宿村に
 似た地域があります。ただこれらは、旧憲法の駐屯地との関係や
 敗戦直後の闇市との関連を視野に入れなければならないようです。
 奥州藤原氏の話は、おもしろいですね。東北のことは、全然知りませんので
 またご教示を・・

おユキ - 2001/07/17(火) 12:45<

ご苦労様でした

暑い最中、岡山での野史研究は本当にご苦労様でした。
現地調査の写真と文章の報告を楽しく読ませて頂きました。
遠く知らない土地をヤゾ−さん達が調査している様子に、
なんだか自分も疑似体験したような気持ちになりました。
ありがとうございました。

おミヨさんサクラさん、お元気ですか。
ここのところの猛暑で私は少し夏ばて気味です。

桃色蜥蜴 - 2001/07/17(火) 12:40<
やっぱ漢字で書くと趣味悪いですね!いつもの片仮名の方がカワイイですね!
Donglyさん 修験ですか 今までそこまで考えたことありませんでした。霞堤は、一般にいう鎧堤・信玄堤のようなものです。
サクラさん
たしか「長髄彦が伊勢から海を渡って三河に逃げた』って『東日流誌』に記載されていたと思います。
それに『東日流誌』、菅江真澄が関っていたような記載もありますし、東三河の伝承が流れていったと思いますよ。
昨年、風琳堂で出版した『エミシの国の女神』でオシラ等が東三河から東北に伝播していったことかなり詳しく考証されています。

Dongly - 2001/07/17(火) 11:56<

御免なさい

利田さん★近年サンカはピーナツや箱入お札を車で運ぶ者がいるようです。
ヤゾ−さん★聖観音はヤッパシ性観音。左手には今ならティ種ですが昔は
サクラ紙、右手はOKの合図で今なら携帯を使用。山椒太夫の安寿と厨子追
から庵主は女。堂=庵の主は女のはず。これがDongly野史です。
NA-MIさん★目黒別所の鷹番は、鷹匠の子分では?そうあの悪行が歌になっ
たサイトリサシの住地では?
黒トカゲさん★火の国(豊の国)筑紫の新羅系磐井の時代、ハヤト?を北へ
流したようです。「西夷」大将軍や「鎮西」八郎為朝がいました。
 「霞」堤は、霞=修験の縄張で、修験と関係ないでしょうか?
サンカ産さん★津山ごんご祭。ゴンゴは河童ではありませんか!臆説では
河童=らい病筋で当然美人が多いのですが、山サンカ(サンガ)でしょう。
おもしろそー!!以前ヤゾーさん紹介の「せこ」「かりこ」「かわがり」、
「ひよー」ともいい、明治期には「筏師」=「川並」=山家者でしょう。
夜店と、もし河原での野合あれば必ずサンカして下さい。

ピンクのトカゲ - 2001/07/17(火) 07:46<

追伸

とんちんかん小僧さん
『武功夜話』に蜂須賀党が、牛窪(牛久保)で諜報活動をやっていたことが載ってます。
桶狭間の前のことです。
同書に依れば、牛窪には、蜂須賀党と類縁の者が沢山居たと出ています。
また、豊川の治水には、霞堤が使われています。甲斐の金堀との関係わかりましたらご教授願います。
因みに甲斐国造祖は、記に依れば、狭穂彦(丹波道主王)、旧事紀巻10国造本紀は、狭穂彦の四世孫・塩海足尼、天孫本紀では、尾張氏(丹波氏と同族)の大八奇としています。

KEIJU - 2001/07/17(火) 06:13<

質問

もしかしてとんちんかんな 質問かもしれませんが 
秋田の藩主 佐竹の流れは 隼人となんか関係はあるのでしょうか???

ピンクのトカゲ - 2001/07/17(火) 02:29<

RE:隼人とサンカ&菓子屋と忍者等々

穂の国のピンクのトカゲから木の国のヤゾーさんへ
>朝廷は、竹が豊富にある九州の隼人が竹細工の高い技術を持っていたことを知っていたのだといわれています。
現在も、竹弓のほとんどが、九州都城で生産されています。
>朝廷に直属された隼人は畿内の山間僻地に配属され、竹製品作りに従事させられれていたようです。
京都の御弓師・柴田勘十郎などもこの流れか?
穂の国のピンクのトカゲから木の国のとんちんかん小僧さんへ
忍者と菓子、近所の年寄りと話していて一つ思い出しました。
私の住む牛久保に『牛久保に過ぎたるものが三つある。菓子に大工に寺の霧島』という口遊がありました。
寺の霧島というのは、法信寺というお寺の庭の霧島をいいますが、
菓子というのは、大菓子屋(本姓・大林家)をいいます。武田の軍師・山本家は、この大林家から山本家に養子に入ったとされています。
大工というのは、岡田五左衛門。代々襲名で、江戸後期、本所立川の彫刻師・二代目立川和四郎と組んで知多半島亀崎の潮干祭の山車をはじめ、豊川稲荷本殿(現奥の院)等の仕事を手がけています。
この立川流の彫刻というのが火焔土器を思わせ縄文の匂いがします。
以上からこの口遊は、江戸期にできたものと思わせますが、例の『米百俵』の長岡藩・牧野家は、家康関東移封以前は、牛久保城主で、牛久保の大工は、江戸城築城にも関わっていたといいます。
築城といえば、土木・石組。とんちんかん小僧さんの世界です。
それと、三河富永氏、饅頭・塩瀬氏(林浄因)とも関係があります。
忍者と菓子屋。見えない糸でつながっています。

さんかうぶ (酸化初心者改め) - 2001/07/17(火) 01:07<

美作見学、ご苦労さまでした。

同行された方々、暑い中ご苦労様でした。
さっそくUPされた写真と文章、興味深く拝見。 その仏像、素人目にもかなり奇妙、
本職の人が彫ったとは思えない、ならばやっぱりか?
さっそく足跡、地図にて推測、作東町眩しい方にソレらし地名ゾクゾク、ううん!

どんぐりさん、私津山初めて、ゴンゴも当然初めて、歌詞に何か民俗学上ヒントが
隠されていないか期待中。 溶け込んでみて発見有るかな?
夜の徘徊、林や薮の中、結果だけ乞うご期待、秋にも祭り有りで次は交代でも。

忍者ハットリ君、国が謝罪した人、河童、何故に似る?


ヤゾー - 2001/07/17(火) 00:03<

隼人とサンカ

NA-NIさん、こんばんわ。
どうやら僕の質問の仕方が悪かったようです。
熊襲や隼人が別所といわれるところと関係があるのかという意味の問いでした。

5世紀末頃には帰順した隼人の一部が畿内に移住していたといわれていますが、
隼人の集団的な強制移住が行われたのは、7世紀後半の天武朝時代だといわれています。
そして朝廷に直属させられた隼人は畿内の山間僻地に配属され、竹製品作りに従事させられていたようです。
朝廷は竹が豊富にある九州の隼人が竹細工の高い技術を持っていたことを知っていたのだといわれています。
また彼等の持つ呪術的な力にも関心があったともいいます。

竹取物語=反朝廷的 竹取翁=賎民視された側の人間 竹細工=サンカ かぐや姫=月の姫であり竹取翁以外には心をひらかない 

眠くてまとめられましぇ〜ん。seburiしゃん、元気にしてますか?

NA-NI - 2001/07/16(月) 22:51<

おっと!

ピンクのトカゲさま。

>やっぱ日本は、多民族国家だよ!

同感です。世界を見ると日本国と同じくらいの面積の地域には何十、何百もの民族(というより、部族とか氏族とかバンドに近いと言った方がふさわしいかも)がいて38万KM2も広大な地域に1億以上もの単一民族がいるというのは世界でも稀なので、民族学的に大いにとりあげるべきです(笑)。

NA-NI - 2001/07/16(月) 22:46<

こんばんは。

まずは訂正です。

>安東氏は鎌倉幕府の時代に、安藤氏は室町期に呼ばれたのですが、実は系譜的につながっているかどうか

すみません。逆です。鎌倉―安藤氏、室町―安東氏です。ただ、文献によっては室町期でも安藤の記述ありです。双方安倍氏を祖先としていますが、連続性を確認できるものはないとのこと。


やぞーさん
>熊襲や隼人といった人たちも、同じように移住させられたことがあるのでしょうか?

あります。といっても私は畿内隼人しかしりませんが。京の周辺に配置させられています。
以前にも私、触れましたよね。
大住というところはそのひとつだったと記憶しています。で氷室・犬飼・三宅地名と関連があるとか。
すみません、記憶で述べています。
それから月読社が隼人の信仰と関係があるとか聞きますね。

隼人の舞とか犬の遠吠えをやらされたとか聞きます。

きょうかいさん。

奥州藤原氏の教化政策は地図で比較しても対別所の統治を雛型にしていたことが伺えます。
(私はその比較から奥州藤原氏の教化支配を知った。)
ただ、白山社については位置付けが少し異なり、被差別集落とは関係なく分布していますし、
総鎮守になっていたりします。

それから目黒別所ですが中目黒駅の界隈だったのですね。自転車で通ったことがありました。
それから近くに「鷹番」という地名があるのですが、これは「鷹巣」と同義でしょうか?>Donglyさん

それから訂正2。

烏山→烏森でしたか。

ヤゾー - 2001/07/16(月) 17:45<

ピースサイン

利田ヤゾウぉぉぉおおお!!!

>僕はいつも1人か2人で調査に出向いているので、大人数での調査旅行にあこがれます。

今度、是非一緒に行きたいです。

>採掘しており、二次大戦中も採掘してた。仁王は笑みを浮かべ、左手に花?右
>手は肩の下辺りで二本指を揃えて立てている。問題はこの仁王?は何かです。

donglyさん、あの仏像は、とりあえずは観音というふうに思われているということには間違いないようです。
なぜなら、聖観音を意味する“サク ”という梵字が立て掛けていた両側の板に書いてあります。
頭の形から十一面観音かも知れません。
手に持っているのは蓮華だと思いますが、見ようによってはウメガイを模しているようにも見えますね。
問題のピースサインですが、修験道で九字を切るときの手印としかいいようがありません。
また仏師の手によるものではない可能性も高いと思います。
もしかしたら、流れてきたサンカの手によるものなのかも知れません。

NA-NIさん、きょうかいさん、別所についての説明、ありがとうございました。
別所がエミシだけの強制移住所ではなくて、
熊襲や隼人といった人たちも、同じように移住させられたことがあるのでしょうか?

もんむーさん、国立国会図書館の検索ページの情報、助かります。

min-min さん、ボルネオの奥地には、プナン族という山の漂白民がいて、
サンカのように竹細工や川魚漁が得意なのだそうです。

ピンクのトカゲ - 2001/07/16(月) 12:57<

カラダ真っ黒

昨日は、アタマ真っ白にして泳いでたら、今日は、カラダ真っ黒になってしまいました。
去年の夏はショックだったな。タイ料理の店行って、タイ人と話してたら、他の客が、そのタイ人じゃなくて、俺に向かって『日本語うまいですね』だって
今年も言われそうだよ!
やっぱ日本は、多民族国家だよ!
donglyさん そうですよね?

利田 - 2001/07/16(月) 12:21<

由緒書き

やぞー、とんちんかん小僧様
お疲れ様でした。写真から民俗調査の楽しさが伝わってきます。
僕はいつも1人か2人で調査に出向いているので、大人数での調査旅行にあこがれます。

>過去の忌まわしい出来事や、また自らに流れる負と思われている血を否定し、嘘で飾り立てた歴史にしがみつこうとする人が圧倒的に多いのが現状であり

という記述を読んで、「サンカ」の人たちが「自分の先祖が天皇家とつながりがある」などと喋っていた理由がようやく理解できました。

*昨日千葉県の九十九里波乗り道路を走っているときに、自転車に乗った「乞食」のような親父とすれ違いました。日に焼けた顔にランニングシャツ、短パンでその姿は新橋駅地下道にたむろする浮浪者そのものですが、
自転車一杯にコンビニ袋に詰め込んだものをぶら下げていました。
もしや「サンカ」か?と思いましたが、竹関連のものはもっていないようでした。
いったい何者なのだろうか?

Dongly <http://hb3.seikyou.ne.jp/home/h-tatsuta/> - 2001/07/16(月) 12:10<

サンカを追い払え

の江戸期広島・浅野藩の古文書を公開しました。『広島県史』近世資料編四の
書き下し文を、意訳と誤訳を交えて添えています。理解できない部分も明示し
ています。上のサイトの「サンカ追放せよ」ページです。

きょうかい - 2001/07/16(月) 10:17<

訂正

各軍→各郡
各号→各郷  
失礼しました。

もんむー <http://webopac2.ndl.go.jp/index.html> - 2001/07/16(月) 08:24<

国立国会図書館の検索ページ

先日、国立国会図書館に行ってきたのですが、そこの検索システムがインター
ネットでも利用できることを知りました。かなり便利です。


http://webopac2.ndl.go.jp/index.html

でわでわ

きょうかい - 2001/07/16(月) 03:34<

ヤゾーさん、お帰りなさい

 「別所と俘囚」 菊池山哉 批評社より抜粋
 「別所とは俘囚の移配置であるとの確実な文書がないと了承の
 出来ない人は別だが、平安中期京都の大原別所,叡山の延昌上人が迷い込み、
 さては餌取りの住みかであったかと恐れをなしたものの、
 宿を貸した老人はすでに念仏行者であり、その老人の極楽往生後、
 上人によって荘厳な供養が行われ、後に平泉の毛越寺(もうつじ)の
 本尊に模されるなど、凡て別所の人柄を知る上に興味ある一連の
 事件と言わなければならない。」
 「別所については・・・平安初頭奥州の俘囚を内地に移配した地と思われますもので
 その地の多くは山間僻地、山川自然に院内を形成しており、当初三戸ないし五戸、
 各軍に1ヵ所または各号に1ヵ所、分散されたと思われるところです。」
 
 渋谷のことで私の知ってる事を少し書いたのですが、思わぬ反響に
 少し責任を感じて今日は、1日、家にある渋谷の本を読みなおしました。
 「昭和20年東京地図」文 西井一夫 写真 平島彰彦
 「続昭和20年東京地図」 同
 「大正・昭和道玄坂」藤田佳世 青蛙房
 私は、連綿と続いている都市は必ず、荒俣宏的、エリアーデ的聖性があると疑わない
 者です。109(マルキュウと言うそうです)とか、センター街とか
 闊歩してる人間が変わってもその繁栄は、その土地の霊性(ちょっと言い過ぎか)、
 歴史から無縁ではないと思っています。
 全然、人様に言えるレベルではないですが、渋谷に関するキーワードで並べときます。
 渋=子母=しぶ=呉音で別所 これは、donnglyさんご存知の「つも」さん説
 渋谷周辺の地名や痕跡;鉢屋、猿楽、猿楽塚、荒木山花街(円山)、鶯谷
 道玄坂の道玄(山賊)
 外外堀としての渋谷川と先の黒鍬地名
 大杉栄事件の甘粕正彦大尉
 五島(強盗)慶太と渋谷
 客家の最終安住の地としての渋谷→渋谷警察焼き討ち事件、関東松田組、安藤昇
   
donglyさん
 東京周辺は、山や谷は少ないので、砂州や中州の配置がキーのように思います。
 そのためには、過去の川の流れや海抜の変化も考慮しなければならないです。 
 その第一歩としてこの前言ってた郷土史の資料編をぼちぼち当たろうかと
 考えています。 
 
 
 

Dongly - 2001/07/16(月) 03:03<

仁王は匂うかな

ヤゾーさん。とんちんかんさん。
 とても熱かったようで申し訳ありませんでした。今後は涼しい時にでも。
 作東町小房の観音堂の仁王?ですが、元は××寺の末寺があって庵主(あん
じゅ)がいた。庵住が居なくなって無住だった観音堂へ、名の知れぬ六部が流
れて来て庵主となった。その方は出身地不明で、名前も無いので、近くの山名
をとってN(仮称)と名乗った。今は尼崎に出て毎年3万円を「お世話になっ
た」として送金してる。以上Gさんの話。その山頂近くに道屋敷があり、銅を
採掘しており、二次大戦中も採掘してた。仁王は笑みを浮かべ、左手に花?右
手は肩の下辺りで二本指を揃えて立てている。問題はこの仁王?は何かです。
 髪型が聖徳太子だとか聞取りしたA子さんは難しく考えすぎだと思います。
 安寿と厨子王は山椒太夫ですが、安寿=庵主で、女性をヒントとします。
 この仁王はさておいて、Nさんはサンカだったと思いますが・・・・。

NA-NI - 2001/07/16(月) 02:01<

Donglyさんお疲れ様です。

Donglyさん、お疲れ様です。
私にもご案内いただいていましたのに返信なしですみません。
純粋に低所得ゆえの旅費などの資金を捻出できないという理由です。
エスパース社製のセブリ持参でよろしければ、あとは交通費だけの問題となります。
交通費と時間は反比例しますのでこの調整も簡単ではありませんが。

サクラさん、

>新羅の前のダンナ様の阿部氏って「東日流外三郡誌」に関わる
阿部氏ですよね。
>和田さんが書かれた偽書の「東日流外三郡誌」
その、
>元資料というか伝承をも含めた話はきっとあったのでは
っておもいます。

安東氏、または安藤氏といいますが、安倍の系譜(安倍貞任の息子、高星丸の子孫)
を称していて、実際はどうか100%断定はしきれません。
安東氏は鎌倉幕府の時代に、安藤氏は室町期に呼ばれたのですが、実は系譜的につながっているかどうか
確実にはわかっていないのです。
安東氏は鎌倉幕府からは「蝦夷」視され、蝦夷管領として津軽などを支配します。
河野本道氏が「和系化した古来民系」とし、菊池勇夫氏が武田信広を婿にいれた末裔の蠣崎氏のアイデンティティを文献から検証するなど、津軽や北海道道南のアイヌ族を支配下に置きながらも「和人」とあながち一括できない存在であったようです。

きょうかいさま

>目黒別所は、駒沢通りの南を目黒川方面に歩いていくと別所坂があります。
>断崖絶壁です。崖と目黒川に挟まれたところに置いたみたいです。
>中目黒駅裏の目黒川の橋の名に別所橋、宝来橋、田楽橋あります。
>恵比寿は、ビール会社からの命名だったと思います。

ご教示ありがとうございました。以前駒沢公園や烏山、中目黒など行ったことがあるので
ひょっとすると知らずに通っていたのかも知れません。
恵比寿はYEBISUビールでしたか。私の住んでいる近くの「恵比須」は昔、出島のような島の浜べだったようで、国際貿易の拠点でもありました(今もそうか)。恵比須神社が目と鼻の先に2社あります。


ヤゾーさま
>読んでいる方の中には、別所が何を意味するものなのか分からない人が結構いるようです。
一度、解説をして頂けると助かります。

俘囚移配地と言われますが、8〜9世紀をピークに東北の先住民エミシが強制移住された地をいいます。
新羅系も押し込められたという説もあるようですが私は留意の立場です。少なくともエミシは間違いないでしょう。同化を推し進めるために政教非分離の時世なので、薬師信仰・白山信仰・十一面観音などを教化の手段として配置していったようで、別所(または院内、カイト)という地名のあるところには共通してあります。逆に配置してあるところが、地名がなくともこれらのお堂の存在でも推測がつきます。

あとはdonglyさんかきょうかいさん、不十分でしたら補足してください。

春之助 - 2001/07/16(月) 00:32<

バースト

昨日、お父さんが車を、運転中の話なんですが!!
 夜中、高速道路を出てすぐ 
  突然、左前輪が、パンクしました
普通のパンクなら、空気がすぐには、抜けないものなのですが
 バーストてやつなんでしょうか・風船を割るようにバシュと音がして
いっきにペシャンコになったんだって

  お父さん普段の高速運転だったら120K位出してるから
    高速のなかやったら・・・今日はお通夜やったかも知れ変な
  なんて話してます

みなさん・明日車のタイヤチェックしてください
      空気圧とタイヤ内側の磨耗調べて下さい
  空気圧が少ないと外側は、減ってなくとも内側は、ワイヤーが見えていたりします
    みなさん・・ご注意ください
  ミキちゃんのお母さんにもおしえてあげてね

         ほなね・・・春之助

ヤナギムシ - 2001/07/16(月) 00:01<

梅雨明けの空

中層に漂う雲・・
  そして更に高いところにある・・・雲
    車窓よりながめる澄んだ空気・・・
  そして、強い日差し・・・
       昨夜来の・・・・・寝不足のための息のつまる
    ハンドリング・・・長く長くつずく・・車の列を眺めて思う

  土生の港・・・・夜明け前の静寂から
  鳥たちが目覚める・・東の空が白み1匹だけの蝉の声
    テトラに寄せる波音・・
   小さなウキが・・・・・漂う
           まだデンキの灯ったウキがスルスルっと沈む・・

                心地好い感触・・

        カワセミだろうか?・・・・視界を横切る

   時間とともに、日が昇り・・強い日差しは容赦なくジリジリと音をたてる

       今日も、いい時間がもてた

                       ・・・・ヤナギムシ

とんちんかん小僧 - 2001/07/15(日) 22:38<

みなさま、レスありがとうございます。

 きょうかいさん、暑い中、渋谷探索ご苦労様です。

>神社の西の渋谷川の谷を黒鍬谷といったそうです。
>渋谷川をはさんで鉢屋町、猿楽町があります。(渋谷別所〉

 すごく面白いですね。あとで地図で見てみます。

 
 ピンクのトカゲさん、大伴細人のお話よく分かりましたありがとう
ございます。

>善阿弥→阿弥衆(同朋衆)=時宗→諜報と逆は考えられませんか?

 阿弥衆は、伊賀の大姓氏族の服部氏や河内(かわち)楠木一族と
血族ですし、風流な芸能者〈総じて文化人と呼ぶ〉らは、<情報
伝達者>として全国を廻国(かいこく)ないし、漂泊していたので、
そうも考えられますね。

にっちょ - 2001/07/15(日) 22:14<

熊野病

『風の王国』及び『鉢屋秀吉』本日購入。
読書には、あまり縁の無かった私ですけれど、頑張って「熊野病」のカンフル剤にします。
 
>四ツは、江戸期は「熊さん」「升」のようで、それ以後は「風呂敷」や「レン
ガ」など・・・・    
Dongly さん、ありがとうございます。
 

とんちんかん小僧 - 2001/07/15(日) 22:00<

Donglyさん、ヤゾーさん、ありがとうございました。

 旅日記
 ようやく、疲れがとれて元気になりました。
 往復28時間という短い旅でしたが、10分以下の睡眠時間だったのでとても長く
いた感じがしました。あちら、こちらに移動し、色々とお勉強させていただきま
したが、寝ていないという事もあり、車から降りて神社・仏閣等の現場に行こう
と歩くたびにめまいがするし、暑すぎでフラフラでした。
 あまり、何を体験学習したか覚えていないですけど、一つ、二つ不思議なもの
を見ました。
 作東町のどこか忘れましたが、今も忘れられないものですけど普通鬼瓦といえば
鬼の顔か家紋をかたどったものが多いですけど、その地区だけは、〈えびす〉の顔
(木彫りか?〉が瓦の真ん中、ちょうど鬼の顔がある場所を円形にくりぬいてあって
木彫りのえびすの顔があった。そこに、住む人が言うには昔からえびす信仰があった
名残だという。今では、業者に注文すれば誰でもえびす瓦にしてもらえるようです。
 もう一つは、Doglyさんも触れられている、ピースサインをし何か不服そうな顔を
し、唇が通常の仏より太くて長い仏像と普通なら烈火のごとく怒っているはずの不動
明王が、優しく笑いかけていた。顔つきは日本的なものではなく渡来系のものだった
気がします。そこの、外には役の小角の碑(古かったです〉と二つの向いあって佇む
お地蔵さん、一つは口をつぐみ難しい顔をし、もう一つは舌を「あっかんべー」と出し
たようにし笑顔でした。
 あいまいな記憶でしかないのでどこに何があったと書けなくてすみません。
 それにしても、体の奥底(背中や肩等の上半身〉から、沸き上がるような熱気が
治まらないです。どの神社・仏閣から連れてきてしまったのかわからないですけど
……まつろわぬ人々の魂魄を何人も引き連れてきたような気がします。

もんむー - 2001/07/15(日) 21:44<

4種類

ヤゾーさん、Donglyさん、とんちんかん小憎さん、暑いなかごくろうさまです。

サンカの4種類についてですが、柳田国男の『「イタカ」及び「サンカ」』と
『美濃越前往復」に書いてあります。

あくまで大垣警察署長の広瀬氏の知見ですが、

神社仏閣、岩や橋の下に露宿することを特徴とする「セブリ」。
神仏の霊験を説き、供え物を横領する「ジリョウジ」。
夢に現われた神仏のお告げなどを言い立てて薬を売りつける「ブリウチ」。
難船者とか困窮人などといつわって財産家の恵与を乞う「アガリ」。

の4種です。

広瀬氏の研究というのはいまのところ柳田氏の文章で知るほかはないのですが、
今後調べてみようと思っています。
 
でわでわ

やぞー <http://www.kumanolife.com/Topics/7_14.html> - 2001/07/15(日) 20:40<

ただいま

Donglyさん、野史研究会兵庫グループのみなさん、大変お世話になりました。
あの暑さの中、本当の歴史を知り、残そうとする姿に感動しました。
お疲れ様でした。

僕も往復12時間の運転に少し疲れました。
美作・作東町での様子をページにしていますのでご覧下さいませ。

ピンクのトカゲさん、こんばんわ。
試験、無事に終えたようでなによりでした。

酸化初心者さん、次回の野史研究会に是非参加してみて下さい。
書物では分からないものを肌で感じとることが出来て面白いですよ。

ふぁるさん、チャーチワード日本人説なんてのもあるそうですね。
巨石文明などがかなりまともな研究対象になっているのですか?
それは素晴らしいことですね。

サクラさん、京都を楽しんで来て下さいね。
京都での話しを楽しみにしていますよ。

min-minさん、中国や朝鮮半島にも入墨の習俗がありますが、
古代海人(縄文系)の流れを汲む人たちなのかも知れませんね。
古代海人系の入墨には三角などの鱗紋が多いそうですが、
日本の入墨にも龍や鯉の鱗物がありますから、
なにか共通したものがあるのかも知れませんね。

もんむーさんのページに書いてあった、
特に明治26年以来、サンカに ついて注目し研究を続けていた広瀬氏からは、
サンカに4つの種類があること やそれぞれの生活や活動に違いがあることなど詳しい情報を得ている。
の4つの種類を詳しく知りたいですね。
その資料が残っているのでしょうかね。

NA-NIさん、きょうかいさん、こんばんわ。
読んでいる方の中には、別所が何を意味するものなのか分からない人が結構いるようです。
一度、解説をして頂けると助かります。

ピンクのトカゲ - 2001/07/15(日) 17:23<

久々にリラックス

やっと試験終わりました。一科目目、勢い余って、若干の勇み足したけど、後の七科目で大分取り戻せたと思います。発表は、9月26日××庁のホームページ(待つのは長い)。それにしても、普段ペン握らないから、手が疲れました。何しろ、サラのボールペン一本使いきったから
ヤゾーさん
私の写真が見たいって?想像通り、コワイ顔系(でも、結構いい男って言われます)ですよ!余り写真とったことないんだけど、10代の頃から顔変らないって言われますよ。
久々に頭真っ白にして、プールで泳いできました。
腹出てないし、胸囲も若干減ったものの一メートル弱ありますから、今日も一回り以上若く見られましたよ!

Dongly - 2001/07/15(日) 14:24<

石見・佐渡・伊豆・院内

など大金銀山の経営者は大久保長安で、石見では神様扱いです。
きょうかいさん。彼は全国の鉱山に配下を配置しリモコン経営です。甲斐
出身の猿樂師とされます(田楽にも分岐です)ので、鉱山師は別名黒鍬師。
渋谷川沿い黒鍬屋敷や鉢屋町あるならば全体がいにしえの別所になります。
スペインの無敵艦隊を雇い、伊達正宗・島津?ら組んで家康政権打倒計画
ありとの伝承が石見に残る、長安も別所の者でしょう。やはり飯母呂(鉢
屋)の匂いがします。おもしろそー!!詳しい調査をお願いします。
渋谷語源は未研究ですが。「しぶ」は1)「四部」なら仏四種の弟子で、比丘
・比丘尼・優婆夷・優婆塞の「四衆」。2)「使夫」なら小使・人夫で「しぶ
さ」と同じ。「しぶや」は小使室。3)けちで、「しぶたれ」と同じ。嘘つき
の意味もあります。新・新羅って何?私、心・身とも新羅系ですが・・・・。
 NA-MIさん。新羅を「しらぎ」と読ませたのは天皇サイド。ならば天皇=新
羅系が否定されて唐系・百済系なのか、それとも新羅大衆への近親憎悪か?
興味深々。近くに子供の友に白木崎さんがいて、遠くに白木山が見えます。
サクラさん。草刈でもテニスでも日射病大丈ビ。ただ熊野熱中症だけは・・・。
ヤゾーさん。明治期兵隊に取れるのが嫌で関東でそのような事件があったようで
す。他では生まれる子に長男らしき名前を付け、分家や養子にやり、国のため命
を捨てる事を避けたみたい。「新しい歴史教科書」のお蔭で命を捨てに行く若者
が増しますから、親の立場としては二度と従軍慰安婦や沖縄の婦女暴行事件を
起して欲しくないので、従軍する若者は男しかない物を切るべきでは。
 他国に迷惑を掛けずに、お国に尽くすのですから、当然我慢です。
四ツは、江戸期は「熊さん」「升」のようで、それ以後は「風呂敷」や「レン
ガ」など四角形状の物で隠語として使用。語源は四足に関係した騎馬・遊牧
民族をさすようです。この部族が担ぐ祭の御輿は四角形が多いようです。
 サンカウブさん。美作は特に美人が多いか否か調べていません。やはり
臆説では「箕・まさか」と読ませて、隠したもの。頭隠して尻隠さずですが。
津山ゴンゴ祭には、伊予西条の祭と同じように、林や薮の中での夜這がある
のでしょうか?青缶・野合・ノヤの隠語で詳細情報を下さい。
あるなら熊野ライフ参加者へ取材指令を、ヤゾーさん・・・・。

ピンクのトカゲ - 2001/07/15(日) 12:59<

試験終わりました。

とんちんかん小僧さん
忍者→庭師の旨書かれましたが、善阿弥→阿弥衆(同朋衆)=時宗→諜報と逆は考えられませんか?
煙火の直接の起源は、火薬の伝来に基くが、それ以前から東三河に拝火的な信仰があり、受入れられた。東三河は、律令制以前は、『穂の国』。716年の好字二字令により『木』が『紀伊』と表記されたと同様、『穂』は『宝飫(ホオ)』と表記され、後に宝飯となる。記開化条の『この朝廷別王(ミカドワケノミコト)三河穂別の祖なり』が文献初出。朝廷別王の父は、丹波道主王。朝廷別王の五人の姉妹は、垂仁の后妃になる。丹波道主王の子孫について記紀に記載はない。一方、垂仁条の狭穂彦の乱の狭穂彦については、子孫の記載がある。祖父の伝承では、記紀の出雲の記事の多くは、実は丹波の出来事。崇神〜垂仁に掛けての出雲神宝献上事件と狭穂彦の乱をパラレル、かつ、経時的に再構築すると、狭穂彦の乱及び丹波五姫の真相が見える。古事記開化条の系図は、丹波大県主(丹波道主家)抹消のため、合成人物を創作し挿入し改竄を図ったもの。由碁理―彦湯産隅―丹波道主王(狭穂彦)−朝廷別王(本牟津別王)が元来。本牟津別は、狭穂彦の乱で狭穂姫が燃え盛る稲城の中で生んだの記載は、イザナミが火の神・迦具土を産んでホトの火傷が元で亡くなったとの記載のリライト。以上から穂別の祖・朝廷別王は、火の神であり、穂の国に拝火的な信仰が古来よりあった。大筒木垂根と丹波道主が同一人物とすれば迦具土(本牟津別=朝廷別王)と迦具夜姫は兄妹。迦具=香具、竹取翁→箕作という図式。乱裁道宗と酒呑童子の関係について『サンカ研究』で指摘さているが、酒呑童子は越後弥彦山の生れ。弥彦神社の祭神は、火明命。丹波道主家も火明命の直系。プリミティブなサンカの形は、丹波道主がキーパーソン。一条戻橋の茨城童子が渡辺綱の髻をつかんだこと、切られた腕をとり返しに行ったこと、河童の駒引きを連想させる?
大伴細人について 母方の実家・冨永家は、伝承では、野田垣内城主・富永千若丸直系。通説は、千若丸夭逝により縁類・田峯城主・菅沼定忠の三男・定則を迎え禅譲。伝承では、菅沼家に乗っ取られ、城主・千若丸は、斬首。千若丸の縁者は、富永の姓の『富』のテンをとり、首無しの冨永とした。江戸時代、定則の後裔・定実は、先祖の故地・新城を領地とし、家老・今泉帯刀が、菅沼家菩提寺宗堅寺に富永家諸霊の位牌寄進。理由は、菅沼家の者に若死が多い→富永家の祟りを鎮魂。因みに田峯城主・菅沼定忠の三男・定則を野田城主に擁立した立役者は、今泉四郎兵衛。富永氏は、野田垣内城主となる以前は、式内社・石座神社(イワクラ)の神官。姓の由来は、伝承では、トミノナガスネヒコ。石座神社の末社には、アラハバキ社が祀られており、祭神は、天御中主とされるが、分社がある額田町石原では、祭神を天照国照日命。
唐突ですが、サクラさん 千若丸夭逝は、1505年のことであり、安日伝承を伝える確認される最古の文献『藤崎文書』の奥付が1506年ということを考えると、サクラさんのいう『東流日』の何らかの伝承と『登美那賀』伝承は、関ってくるのではないかと思います。
とんちんかん小僧さん、大伴細人に戻ります。さて、三河富永氏は、系図上は、三河大伴氏ということで応天門の変で失脚した伴善男が配流途中で八那郡司・大伴常盛の娘との間にできた員助(かずすけ)を祖とする。また、甲賀平松氏は、員助の弟・善平を祖としています。藤原氏の勢力の拡大に伴い大伴(伴)氏は、排されていくが、作家の井沢元彦氏は、『逆説の日本史X』で六歌仙を藤原氏に排除された惟喬親王派とする。井沢氏は、六歌仙の一人・大伴黒主を架空の人物としながらも、藤原氏に排除された大伴氏の象徴として、六歌仙の一人として加えた旨を述べる。惟喬親王といえば木地師。富永氏が居城とした野田館垣内城あとは、現在海倉淵と呼ばれ、椀貸伝説が残っている。大伴氏と木地師、忍の祖・大伴細人、どこかで繋がっているような気がする。
以上まとまりに欠けましたが、お許し願います。

きょうかい - 2001/07/15(日) 11:22<

donglyさんお帰りなさい

NA-NI さん
 目黒別所は、駒沢通りの南を目黒川方面に歩いていくと別所坂があります。
 断崖絶壁です。崖と目黒川に挟まれたところに置いたみたいです。
 中目黒駅裏の目黒川の橋の名に別所橋、宝来橋、田楽橋あります。
 恵比寿は、ビール会社からの命名だったと思います。

Dongly - 2001/07/15(日) 11:00<

新羅俘囚の地

 は吉川と『続日本紀』にあると菊池山哉は『別所と特殊部落』『長吏と特殊部落』
に記してます。また本には出てきませんが、野史調査では吉野の里、吉野川は別所
関連です。現在町史を編集中「美作町町史編纂室」の方々へ、少し教えて頂いたお返
しに、葦=吉=芳=善=美=禎 は史的に同意ですの野史ヒントを差上げました。
素人とて私を馬鹿にされてるかもしれませんが、岡山大学の総力を借りてでも解明し
て欲しい(まず今の枠組みでは絶対無理でしょうが)。
美作町北端の間(はした)にあった十一面観音持つ間山仁王院安養寺は、吉野川と
梶並川合流点の林野(江戸期天領)に移動。この東隣が朽木で以前は別所でした。
「はした」は「半女」「半男」と記して下賎・賎民の男・下男の意味ですが、安養
寺に裸祭(会陽)が盛大に行われます。八切止夫はサンカ祭といいますが・・。
作東町調査からちょっとだけよ。
 作東町鈴家(すずけ)の真言宗薬水寺は赤松氏関連で美作町境の尾根筋にあり檀
家奉納幟に美作町もあり、境内に北向観音も。地名の鈴家の前は高尾だったとかで
別所ミエミエです。なお2キロ北上して山外野(やまとの:恐らく山人の意味)に
安東氏が管理する白山神社がありますが道間違えて藤生(ふじゅー。廃寺があり、
藤原の塔あり。俘囚では?)を通り鯰(なまず)の寺で調査。
 35度以上の酷暑、お寺さんにはお茶を頂くなど、大変お世話になりました。
 作東町鷺巣(さぎす)も真言宗円福寺には秘仏十一面観音持ち、土師地名から
骨壷が出土した、別所です。やはり鷹・雉に加えて「鷲」も別所支配のシンボル
でしょう。
 作東町サンカ地名では、ここの有力者は修験上がり(下がり?)サンカですが、
別所と同じく十一面観音、さらに耳病に良いと言うお銀婆さん祠(薬師)を置い
ておりましたので、原田内科は耳病患者が多いのかも。同じ集落に王子社(王子
は寺社に隷属する奴で最下層の者=童子の意です)がありますので、修験からの
サンカのようです。野史では八十八ケ所あれば別所ですが、今は菊紋ブランドを
粧おう別所寺・大聖寺札所へのルート上にこの集落はあります。
 対岸のサンガ地名?は大海廃寺の寺奴隷の末裔かもしれません。調査が必要。
小房の観音堂に笑みを浮かべ指をVサインしてる大日如来像。流れ者の親子が居
着て世話になり、尼崎に出た現在でも2−3万円づつ送り続けて来るそうです
。出身地も全く不明といいますからサンカの可能性あり。近くに銅山があり2
次大戦中は掘ってたそうですから・・・やはり流れの身か。
カープより有名な広島繁華街「流れ川」があり「薬元堀」は特に人気です。
資料つきの詳細報告は年内の「野史研究会・探訪会」、来年の「野史研究」
を見てください。
 ヤゾーさん。とんちんかん小僧さん。大変お疲れ様でした。

min-min - 2001/07/15(日) 07:32<

やぞーさ〜ん!

やぞー殿、まだ戻ってませんか?
なんか中継ぎ、ってな感じで駄文をもう少し続けさせてください。

やぞーさんの7月13日発言『縄文の風習 入墨』から引用。
>>魏志倭人伝には「文身」と記された全身に施される入墨の風習にふれたものがあるそうです。

昨日書き込みました『海の文化史』で登場する中国・揚子江河口流域にいたと思われる海人も
実は全身に文身が施されていたそうです。
両者の共通点は「銛漁」=「潜水漁労」にあったわけです。潜水して漁をするものにとって
サメ・フカから身を守りたいという強い願望があったはず。
後藤明先生はこれらの海人が用いたであろうと想像する銛=「魚槍」が台湾のヤミ族(蘭嶼島)
の漁にみられる、とおっしゃってます。
「銛漁」という観点から眺めると意外な共通点が発見され、前述のオーストロネシア語文化圏
という発想にリンクしていきます。
尚、揚子江流域にいついた海人はその後フィリピンへ移動したと言われます。理由は不明ですが
一説によると揚子江の大氾濫によるとのこと。
蛇足ですが、彼らは稲作を大々的に行なっていたようで、日本への稲作の伝達ルートとして近年
注目されているようです。

min-min@朝から暑い横浜から

サクラ - 2001/07/15(日) 07:15<

おはようございます

なんと、
渋谷にも黒鍬組や、新新羅系につながっているとは...
若者だけの聖地ではないのですね(^^)
あはは、ほんと私的にも渋谷は想いで深い街でした。
若き日は渋谷をとおって、学校や職場に通っていたもの...

>ちなみに「しらぎ」でなく「しんら」と読むそうで、
>「ぎ」が蔑視を込めた言い方だそうでして。
知りませんでした。しんらと読むのですね。

新羅の前のダンナ様の阿部氏って「東日流外三郡誌」に関わる
阿部氏ですよね。
和田さんが書かれた偽書の「東日流外三郡誌」
その、元資料というか伝承をも含めた話はきっとあったのでは
っておもいます。

暑いからでしょうか?
涼しげな北に想いが飛んでいくのは...


本郷黒鍬屋敷跡は、坂のうえの四つ角に在ります。
家のお寺も近くなのですが、昔は山谷の人たちがよく来て、
お墓のお供え物やお酒を楽しんでいたとか...
今は、カラスのせいも在るけれど、お供え物は置いていっては
いけないことになっています。

お盆です。お墓参りに行かれる方は日射病、熱射病に気をつけて...







s
keijuさんも渋谷には、深い思い出が...(ドイツで何思ってるかな?)

NA-NI - 2001/07/15(日) 04:22<

渋谷別所・新羅系

きょうかいさま。min-minさま。横レス失礼します。

>渋谷川をはさんで鉢屋町、猿楽町があります。(渋谷別所)

その辺りが渋谷別所なんですか。ガーデンプレイスの恵比須はどうですか?
目黒別所というのもあるそうですが、恵比須で同一かと思っていました。
目黒はよく行ったので覚えていますが、物凄く急な坂(権現坂より急)を下って
谷底の知人宅へ行ったものでした。仮谷さんのオームによる拉致現場の前を、しばらく知らずに通っていましたっけ。

>直接は、関係ないですね。ただ、関東武士の出自というとこでひっか かてるとこです。
>別所→遊芸→武士?
>新羅→騎馬系遊芸→武士? 
>たいへん、頼りないとこです。

別所系で武士化した人々はいるのでしょうね。はっきり調べたわけではありませんが。
新羅系は、源氏はそうではありませんか?少なくとも頼義の三男の義光?の流れは。
新羅(しんら)三郎義光といいますものね。義光―武田氏―南部氏で南部(八戸)藩領に
新羅神社というのがあります。新羅系の系譜を意識していた、ということでしょうか。
ちなみに「しらぎ」でなく「しんら」と読むそうで、「ぎ」が蔑視を込めた言い方だそうでして。

それから和系化したエミシ安倍氏の頼時か貞任か宗任のよめさんかわすれましたけど、新羅の前という方がいらっしゃったらしく、姻戚に新羅系が入っていたようですね。

min-min <http://homepage2.nifty.com/TUBA/> - 2001/07/14(土) 23:05<

消化不良

あ、いえ、食べ物の話しではございません。最近読んだ、あるいは読んでいる本からの情報の量及び内容が
我がボンクラ頭では消化されないのです。
かてて加えて今月に入ってからのこの暑さ。脳みそが溶けて流れ出しそうです。そんなこんなで読んだ本の
内容を的確にみなさんにお伝えできるとは思いませんが、なにか私的にエッセンスと思われるポイントだけ
でも書いてみようと思います。

読了分。
☆『海の文化史』後藤明著 未来社
オセアニアにおける真の海人というと、やはりオーストロネシア語を話す人々であろう。台湾先住民、
フィリピン、インドネシア、マレーシア、ニューギニア海岸部、そしてオセアニアなど、東南アジア島嶼部
とオセアニアを中心に話された言語である。
さて、このオーストロネシア語の起源はどこか。まだ確定的な答えはのだが、ひとつの有力な説によると、
そのホームランド(源郷)は日本に近い台灣付近である。
さて、現在、中国大陸にはオーストロネシア語は分布しない。しかし、民俗学者の岡正雄や考古学者の江上
波夫は、かって揚子江流域に勢力をもっていた越や呉の言語がオーストロネシア語であったと推測して
いる。また、弥生時代、『魏志倭人伝』に記される倭人の風習が著しくオーストロネシア文化的である、
とも言われている。

☆『帰化人(古代国家の成立をめぐって)』上田正昭著 中公新書
朝鮮・中国からの渡来者=帰化人を無視して、日本の古代文明の謎を解き明かすことはできない、という
キャッチフレーズに惹かれ読む。文化・技術は言うに及ばず、法典編纂や徴税など、いかに多くの渡来人
たちが政治・経済にもかかわっていたのかが分かる一書。
 
読書中
☆『サンカ研究』田中勝也著 新泉社
三角寛の「サンカ社会の研究」の論文を解説するとともに、『上記』(ウエツフミ)について記している
貴重な本。3分の2ほど読んでいる。


☆『捨て童子・松平忠輝(1.2.3)』隆慶一郎著 講談社
1,2巻読了。隆慶一郎が描く『道々の輩』の世界。家康とお茶阿(殺された亭主が鋳物師<いもじ>で
あったことから自らも渡来人の裔と思われる側女)の間に生まれた赤子は“鬼っ子”といわれ捨てられ
たのだが・・・。例によって傀儡子やら忍者の『道々の輩』世界がたっぷり語られる。

気力が湧いたらまた読後感などアップしてみます。

でわ、でわ。min-min@横浜でした。


min-min <http://homepage2.nifty.com/TUBA/> - 2001/07/14(土) 17:18<

RE:聖なる場所 渋谷

きょうかいさん、この猛暑の中渋谷に出かけられたのですね。お疲れ様です。

『ラッチョ・ドローム』楽しまれたようでなによりです。
金王八幡、実はこの神社は勤務先の会社(先の映画館の近くにあります)で毎年
安全祈願をしている神社です。

>>神社の西の渋谷川 の谷を黒鍬谷といったそうです

へぇ〜、そうなんですか。ちっとも知りませんでした。

>>渋谷川をはさんで鉢屋町、猿楽町があります。(渋谷別所)
>>また、渋谷駅をはさんで500m上流は、幕府が伊賀者を
 
これまた全く知りませんでした。(恥)
地図を引っ張り出してやっと分かったのですが、南平台の南には確かに鉢山町、猿楽町という町名の場所
があるんですね。このあたりはあまり通る事がなく今まで気が付きませんでした。
地名から察するとまさしく別所のようですね。こうした未知の郷土史がわかるのもこのkumanolifeの
掲示板のおかげでしょうか。

min-min@yokohama

もんむー <http://members.jcom.home.ne.jp/mommoo/column/article_001.html> - 2001/07/14(土) 16:53<

田山花袋「帰国」と柳田国男

先日、田山花袋「帰国」の執筆したいきさつについて調べるため、田山花袋の
郷里の館林市に行ってきました。その結果、「帰国」が柳田国男の情報に基づ
いて執筆された状況がわかってきました。

先日公開した「帰国」の解説ページを書き直したので、詳しくはそれをご覧下
さい。

でわでわ

きょうかい - 2001/07/14(土) 14:21<

聖なる場所 渋谷

min-minさんへ
 ラッチョ・ドローム見てきました。東から西へと混血しつつ、しかも なお血脈をつないで流浪していく感じが印象的でした。
 ご紹介、どうもでした。
とんちんかん小僧さん、サクラさん
 映画の帰りに、渋谷の金王八幡に寄ったのですが、神社の西の渋谷川 の谷を黒鍬谷といったそうです。詳しくは判りませんが、
 渋谷川をはさんで鉢屋町、猿楽町があります。(渋谷別所)
 また、渋谷駅をはさんで500m上流は、幕府が伊賀者を
 住まわせたという、隠田村です。
 白山の黒鍬屋敷は、岡の上ですかそれとも運河(川)の近くですか。 いままでの黒鍬シリーズから察して、石運び、諜報には、
 運河が便利 そうですね。
>ところで別所と新羅系って接点があるのですか? 
 NA-NI さん
 直接は、関係ないですね。ただ、関東武士の出自というとこでひっか かてるとこです。
 別所→遊芸→武士?
 新羅→騎馬系遊芸→武士? 
 たいへん、頼りないとこです。

NA-NI - 2001/07/14(土) 05:12<

間違いでした。

きょうかいさま。

>氷川神社は、ほとんど武蔵の国に集中していて200社くらいあります。
>よくわからないのは、基本的には出雲系ですよね。何で関東に集中して
いるのか? 
>岩手県のは、多分めずらしいのでは・・
>古新羅と今新羅との間にアイデンテティの共有があったと思います。
>この辺と八切説をふまえて考えてます。別所も含めて。

すんません。間違えました。氷上神社の間違いです。
でも、きょうかいさんからおもしろいご教示いただけてよかった。

氷上神社は、延喜式内三社で、気仙総鎮守 勅宣正一位氷上三社。
衣太手、登奈孝志、理訓許段神社の三社が祀られております。

新羅系でもなんでもないですね。理訓許段はリクンコタン(リッコタンという説もあり)で「高い所にある村」という意味で、現代アイヌ語で解読できてしまうのはなぜだ。昔、海岸段丘上に村落があったとか聞きます。

ところで別所と新羅系って接点があるのですか? 

サクラさま。

>本郷 白山神社がどうして100年くらい遅いと考えられたのですか?

別所と関係があるのではないかと思いましたので。
「俘囚・夷俘」と称されたエミシがもっとも大量に移住された時期って100年程早い8〜9世紀ごろではないかと思ったのです。少なくとも百年です。しかし、移民3世以降に白山権現が導入されたとしてもおかしくはないかぁ。

酸化初心者 - 2001/07/14(土) 04:14<

エツ! 美作へ!?

絶妙のタイミングだったみたいですね。
こちらとしては、全く最近このHPを知ったトーシロウでして、御名前を聞いても
誰が誰だか全く判らない状態です。 美作へ調査に行かれる御二人(?)さん、
暑い中大変でしょうが、私も結果レポート期待しています。同行したいくらいです、
フィールドワークいいなあ。
こちらは8月に、全くミーハー的に、津山ゴンゴ祭りの夜、一晩だけセブル計画
しています。(近畿地方から行きます)

サクラ - 2001/07/13(金) 23:54<
こんばんわ
ほんとうに暑い日が続きますね。
むかし書いた絵日記なんかには、35度なんて書いた記憶ないのに...

NA-NIさん、
本郷 白山神社がどうして100年くらい遅いと考えられたのですか?
きょうかいさん
以前、テレビでみたのは、タロイモを主食とする村のおばあさん。
家族を失うたびに、指を第一関節から切り落とし、とうとう全部の指先がなくなったと
の話がありました。アジアか何処かの国だったと思います。
なぜか、そのシーンだけが焼き付いています。
歯をぬくということに何か儀礼的な意味があったのならんば、その流れは何処に
消えたのでしょうか?

氷川神社に、巨石文明、美作となんかわくわくしてしまいます。
やぞーさん、donglyさん、とんちんかん小僧さん
楽しみに旅のお話待ってます。

利田さんもおミヨさんもきっと報告まってるよ〜

ふぁる - 2001/07/13(金) 19:10<

そう言えば忘れてました

巨石文明といえば。
先週の木曜だか金曜だかの、テレ朝の夕方のワイドショー(小宮悦子のやってるやつ)で、
南米にも、沖縄の海底遺跡に似てるものが見つかったぜよ、ってやってましたよ。
詳しく見てないのですが、いろんな、世界の巨石群は時代は似通ってそうなので、
シンクロニシティなのか、共通文明なのか、かなりまともな研究対象になりつつありますね。
しかも、白人至上主義に毒されずに。
なにせ、いままでのオカルト系代表の「ムー」カテゴリでは、南海の楽園になぜか白人王国
「ムー」だったんですから。(出自、生前の記録さえ定かでないチャーチワードなる人物の怪説の一人歩き)


やぞー - 2001/07/13(金) 15:05<

美作へ行ってきます

みなさん、こんにちわ。

酸化初心者さん、はじめまして。

>岡山県の”美作(みまさか)”の地名は元々”箕作”だったのでしょうか?

あまりにもタイミングのよい書き込みですが、
今から、その美作へ行って、Donglyさんたちとそういうことも調べてきます。

確かに岡山からは箕作という名字の有名な学者一族が出ています。
有名なところでは箕作 佳吉という動物学者で東京帝国大学理科大学長を勤めています。
また、昭和47(1972) 年、ニューヨークタイムズでの昭和天皇単独記者会見の時に、
天皇がもっとも大きな知的影響を受けた人物として箕作佳吉の弟で箕作元八の名が出て、
側近までも驚いたという話しがあるそうです。
鳩山一族や美濃部 達吉も血縁関係にあるようです。

酸化初心者さん、これからはサンカのことははっきりとサンカと書いて下さいませ。

では、行ってきます。

ふぁる - 2001/07/13(金) 11:27<

もうちょっと

わたしもプロジェクトX好きで見てます。
きっかけは中坊さんの豊田商事被害者救済の巻(これは初回か?)を見てからですが。
昨日(今日未明か)のブナ林を守った人々編もよかったですね。いい気分で寝られました。

神社の鶴亀ですが、これは太平洋側にしか見られない傾向らしいです。
境目は静岡あたり。東西のどちら側が鶴、亀かは、いま職場からなので判らないですが。


酸化初心者 - 2001/07/13(金) 04:26<

美作って?

酸化初心者ですが、最近気がついて、気になる事が有るので、ご存知でしたら
お願いします。
岡山県の”美作(みまさか)”の地名は元々”箕作”だったのでしょうか?
そうだとすると、岡山県はかなり酸化に縁が深い地域なのでは?
ハンセン病の愛生園も岡山の瀬戸内の長島(?)でしたよね?
津山にはカッパを主題にした祭りもあるし(これは関係無い?)。

きょうかい - 2001/07/13(金) 03:37<

焼酎high

NA-NIさん
氷川神社は、ほとんど武蔵の国に集中していて200社くらいあります。
よくわからないのは、基本的には出雲系ですよね。何で関東に集中して
いるのか? 岩手県のは、多分めずらしいのでは・・
 自宅近くの氷川神社を含む大集落を開発したのは、埼玉の新座市(新羅市)の人です。
宮司さんの名は、新倉さんと白子さん。開発命令したのはのは、吉良さんです。
出雲系も二通りくらいあるのではないでしょうか。国津神系新羅と今来系の新羅と。
でも武蔵国で氷川神社とか杉山神社とか統一して作ったと考えるならば、古新羅と
今新羅との間にアイデンテティの共有があったと思います。この辺と八切説をふまえて
考えてます。別所も含めて。
ふぁるさん
>給料もらって学者やってる人に解き明かしてもらいたいなぁ。
 そんなこと言わないで一緒にやりましょう。
 鶴と亀、ぜんぜん知りません。

きょうかい - 2001/07/13(金) 02:34<

ぼろぼろ

プロジェクトX、さっき見ました。ジーンと涙が出るのではなくて
嗚咽してしまった。昭和62年だからついこの前の事だったのですね。
本当によかったなあ・・

やぞー - 2001/07/13(金) 00:03<

縄文の風習 入墨

みなさん、こんばんわ。

日本は酸性土壌が多く、人骨など通常は数千年で溶けてしまうそうで、
縄文人の人骨が発見されることは非常に少ないのだそうです。
ですから貝塚は貴重なアルカリ性土壌であり、
縄文人の人骨も発見されることが多いとのことです。

その発見された人骨の研究から、抜歯の風習が認められているようですが、
同じように成人・婚姻儀礼の風習といて、
入墨が行われていた可能性が高いといわれています。

アイヌでは女性の口のまわりの入墨や、沖縄では手の甲の入墨の風習がありましたが、
魏志倭人伝には「文身」と記された全身に施される入墨の風習にふれたものがあるそうです。

僕が小さい頃には、その筋の人ではなくても、例えば職人や土木建築関係の人の中には、
入墨を入れた人が結構いましたが、
縄文の風習とどこか繋がっているのではと、ふと思いました。

>四っつ 八っつ<産まれたとき、武器が持てぬよう、親指を切り落とした為の呼称てほんとですか?

Donglyさんなら知っているかも知れません?

>「チャッキラコ」<意味の解る方、教えてください。

「ちゃっきらこ」は、三浦市三崎の仲崎・花暮地区に伝わる女性だけの小正月の行事で、
音頭取の唄い手の女性の唄に合わせて、4,5歳から12歳(小学6年)までの少女が
舞扇やチャッキラコ(綾竹)を手にして踊ります。
初いせ・チャッキラコ・二本踊・よささ節・鎌倉節・お伊勢参りの6種類の踊りからなるものですが、
総称して「ちゃっきらこ」と呼ばれているそうです。

くらいしか分りませんでした。

にっちょ - 2001/07/12(木) 22:12<

教えてください

ヤナギムシ さま

きょうかい さま
ご返事、ありがとうございます。

四っつ 八っつ<産まれたとき、武器が持てぬよう、親指を切り落とした為の呼称てほんとですか?

「チャッキラコ」<意味の解る方、教えてください。

ふぁる - 2001/07/12(木) 20:35<

変質とか転回とか

「神社」に何某かの作用やら縁起を転化することは、ここまでの歴史でありえることですね。

ニホンの富士山より西の方では、浄土真宗が明治期頃までは被差別民の宗教であった、というのは
意外と知られていない事実なのではないでしょうか。
もともとの踊念仏を吸収したんだと思いますが、まあ、鎌田さんとかが、ちゃんと給料もらいながら
研究してくれないかなぁ。資料とか地域とか、在野で研究するには限度があるので。

ところで、「神社」。鶴マークと亀マークの違いがあるのはご存知でしょうか。
実はこの理由って定説も無いらしいです。
ただ、地域差はあるようなので、その辺から判りそうなもんだけど。やはり在野では限度があるので、
給料もらって学者やってる人に解き明かしてもらいたいなぁ。

NA-NI - 2001/07/12(木) 19:16<

氷川神社

きょうかいさま。

>氷川神社がありましたが、関係ないのかな・・

確か、岩手県陸前高田市に同じ名前の神社がありますが、関係あるのでしょうか。
エミシで接点があるのかもしれません。

>あの辺は三崎町といってかつて本当の岬だったそうですね。

自然地名で、かつて文字通りの地形だった、というケースは結構あるようです。
その名残を探索するのも、新たな発見があり、面白いですね。

きょうかい - 2001/07/12(木) 12:03<

洞窟

 にっちょ さん こんにちは
 ずっと人骨に興味持ってます。特に縄文後期から弥生前期まで
 あった、抜歯風習です。国立民族博物館の春成秀爾氏の論文によると
 成人の儀式と家族が死んだ時の哀悼の意として抜いたと考えられています。
 でも、多い人でなんと14本も抜いてるのです。それが弥生中期以降
 突然なくなります。その種族が滅んだか、別の習俗にとって換わられたか
 の疑問があります。もしかしたら、同じ身体儀礼としての刺青の発生と関係が
 あるのでは、と思い雑誌歴史民俗学などを見ています。
 あと、解剖学者の鈴木尚氏が、弥生時代のやはり海岸洞窟の骨の研究をしてますが、
 動物のように解体されていて食人との関連を示唆しています。(本出てます)
 この手の研究は、以外に少ないのではと思いますので、貴重な遺跡に違いないです。
      慢性クマノ病患者

とんちんかん小僧 - 2001/07/12(木) 11:49<

Donglyさん、お世話になります。

>小人は士の雑用係り、戦には真っ先に掛けて敵の矢の
>餌食になります。


 これは、『軍法極秘伝書』に、こう書かれています。

 「敵地へ入る前日に、明日行軍すべき道を知ること
 が大切である。まず、物見の者を出し、その報告に、
 敵が山道、坂道を掘り返し、橋をはずしたり、舟渡し
 を潰したり、また伏兵を置きそうな繁みや物陰がある
 と知ったなら、直ちに普請奉行に小人・黒鍬者をつけ
 て先発させる。
  そして道を直し、邪魔になる人家、物陰をとり壊す。
  川には筏を組んで渡れるようにすること。
  こんなとき、必ず敵の伏兵が出てきて、妨害するも
 のだから、騎馬武者一両人に、足軽四、五十人をつけ
 て出し、鉄砲で防がせながら、仕事を進めるのである」

 これはまさしく、小人−黒鍬者の手による戦法である。
 
 “道なきかたに道をつけ、敵の鉄道打ち壊し、雨と降り
  くる弾丸を、身に浴びながら橋かける……”

 戦争が終わったあとには、戦場を歩き回り、味方の負傷者
を見つけ出して、陣中へ連れ戻す。死者の始末をする。戦場
全般の整理をやるわけである。
 仕事としては縁の下の力持ちであり、あくまでも裏方である。
 

Dongly - 2001/07/12(木) 10:41<

大きくてもこびと

とんちんかん小僧さん
 そうですか。小人。御用小人で「御小人」。知人に屋号をもつ庄屋筋が
御小人と威張っていましたが、黒鍬者は江戸期は前の被差別部落身分です
。和歌山市内に小人町あり。初めは商人か上人(乞食坊主)の集落かと
思っていました。お隣の町近くにある前被差別部落の人達が城下の御小人で
威張っていたそうです。小人は士の雑用係り、戦には真っ先掛けて敵の矢の
餌食になります。それで明治期は士族と自称してますが、「死族」でしょう
か、正確には「卒族」ですが。
刀を持てば士族の錯覚。侍や士族とは狂気でない「人殺し」が家業ですから
、今の時代名門と威張るのはどうでしょうか。(ウメガイもちは誇りです
から、ぜひ中古でも欲しい)。今必要なのは、歴史的な反省ですよ。
ヤナギムシさん。
 すみません、ご他聞にもれず多忙で、HPまだアプデートしてません。
デジカメもって一杯写真を取ってきます。もう少しお待ちください。
 今日はいまは雨・・・・・。でもいつかは晴れる・・・・・。

ヤゾ− - 2001/07/12(木) 00:07<

今までの投稿は過去の掲示板へ移動しました

みなさん、こんばんわ。
ほんとうに暑いですね。

>実は私も、保久良山の麓で育ちました。

うみさん、こんばんわ。
それは寄寓ですね。
六甲山系とサンカとは深い関係にあるのかも知れません。
また剣岩を始めとした巨石遺跡が散在していて、
金鳥山一帯には古代都市が埋まっているというような言い伝えもあるようですね。

>その頃はカタカムナのことなぞ、さっぱり知らぬ小学生でしたが。

カタカムナは六甲山系のサンカによって継承されてきたといわれていますね。
それだけでなく他の古史古伝の継承にも山の民・サンカが深く関わっているようです。
真偽のほどは分りませんが?
そういったことが、体制側から差別、迫害された原因の一つになったのかも知れませんね。


>釣れませんでした、あーーー疲れた


にっちょさん、それは残念でしたね。
でも石鯛はそう簡単には釣れないそうですから、
また今度という楽しみが出来ましたね。なんて言ったりしてもやはり悔しいですね。
釣れなかった時は、なんだか三倍くらい疲れた気がしますが、
でも心地よい疲れだと思います。

>この情報って価値ありますか?それとも普通?それとも、てーしたことネーーよ。てなもんですか。

僕も専門的なことは何も知らないのです。
ですから価値のあるないは分りませんが、面白いお話だと思います。
そんな身近なところから縄文時代の人骨が出土するなんて、
縄文時代を身近に感じてしまうお話でした。
案外、今までにそんなことが結構あって、黙殺されていたもかも知れませんね。


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