五角形の箕



東沢美史さんという方から桜箕を譲って頂きました。 箕の材料に桜の皮を多く使っていることもあり、山小屋に暮し始めてから自分で植えた桜の木に掛けて写 してみました。 ヤマガラのピーちゃんも箕に留まってくれて、自然と調和した写 真が撮れました。【箕の解説】この五角形の箕は、宮城県中央地域(仙台周辺)、宮城県北部、岩手県南部地域で 使われているそうです。五角形というのは北極星を現している可能性もあり、信仰や行事で使われることも多いそうです。材料は5種類以上の植物が使われており、竹、桜の皮、藤、縄(細い麻縄など)、 曲げ木(そぞみ、さるなめし、あずさなど)などです。竹は女竹系の鈴竹(すず竹)という料理箸くらいの 細い竹を四割にして、薄皮を剥がしたものを使うそうです。星神の信仰とサンカとの関係を窺わせるるような箕だと思いました。なお、東沢美史さんから箕についての説明をメールで送って頂きましたので、以下に転載させて頂きました。 ※箕が箕らしく使われた昭和20年代の頃までの農村の風景や 農作業の手順などの農民にとっては説明するのもはばかれるほどの 当たり前過ぎる作業を、あえて書いてしまいました。 掲示板に訪問されてるかたの内で 箕を実際に農作業で使ってる農民の方の割合のほうが 箕を実際に使わない人の割合よりかなり少ない気がします。 だからやっぱり農民の皆さんからすれば説明するまででもないことでも あえて書かなければいけないのかなと思ったりしました。 ところが農村をかなり廻ってる私でさえ箕を使ってる風景には 最近あまり遭遇しなくなってます。 ましてや「碾き臼」などは使ってるの子供時代でさえ見たことなど ありませんでした。 記憶が出たり出なかったりの母に根掘り葉掘り数日間聞きこみ、 昭和20年代の、庭にむしろをひいて脱穀、籾摺り道具を並べて 人出を動員して作業した頃の話しをたくさん聞いて やっと確認しました。 とくに「碾き臼」については種類や 地方によって様々で到底説明などし切れない事がわかってきました。 ・・・・でも、少しづつ、ほんとにすこしづつ、要点を書きます。 昔風の農作業を、 昔の農具で米作りを最低一年以上通して体験した方たちにだったら ホントは、はなしがいのあるのかもしれません。 比較的便利な箕や碾き臼でさえ何度も繰り返し同じ米を 曳きなおし、吹きなおしが必要だったそうです。 一粒の米が出来るまで、まったく気の遠くなるような 労働が農民には宿命ずけられていたようです。 そういう農民の生活を箕作り、箕売りは深く知ってたはずです。 写真の箕は 生産地:宮城県の生産者:佐藤さん(68才くらいの方)が指揮して 仲間と材料を取りに山へ入ります。 奥さんは家で箕を編みます。 佐藤さんも編みますが仕上げは自身でします。 箕の材料 桜の皮(樺)、西奥付近か、奥羽山脈山形境近く。 すず竹、松島町、大郷町付近。 ズサの木、(標準語の梓の木か?)赤い実がつきます 藤、山や野に這ってる。桜の皮と同じ方向にすず竹との 隙間を埋めるために細長く詰めるように編まれてます。 麻縄?これは市販のモノを利用。 以上5種類です。 箕が一番活躍する農作業の場面は「磨(す)り臼」で籾摺(もみす)りしたさいに 一緒に出て来る「玄米」と「籾殻(もみがら)を吹き分けるときかと 思います。 籾摺りとは脱穀された「籾(もみ)」を 「磨り臼」」を使うことによって「玄米」と「籾殻(もみがら)」に することをいいます。 箕の使い方は実は私はへたで説明に不足の 点がありますが母にきいたところ話します。 箕は風の強い日に利用する場合もありますが 風の無い日でも利用するのが一般 的のようです。 その辺を聞いてたら母が強い口調で 「風っつのは箕吹ぐがら、おごんだ」といわれてしまいました。 おふくろは 風は箕を上下させることによって起こる、発生するものという 考え方を持っていました。 あえて聞いてみて私もはじめてわかった考え方でした。 箕は両手で持ち上下に振ることで自らが風を 起こすことで、宙に舞った軽く上まで上がる籾殻と 重く上に上がらない玄米との重さの差を利用し 横にずらしたり、して吹き別けるようです。 また風を利用して5メートルも上へ上げて箕で落下したものを 受け取り、軽いごみ、カラなどはそのまま吹き飛ばすしかたも あります。 しかしいずれにしても、東北の農村では全く見ることの出来ない 農作業の風景となってしまいました。 私もかつて一度たりとも見たことありません。 母は昭和20年代に見たことあるそうです。 私は聞いて解ったことなんですね。 昭和20年代までの藩政時代から変わらず続いた農業作業の仕方が 籾摺り機、動力を用いた籾摺り機、やがてコンバインの登場によって 籾摺り作業そのものが目で見えなくなってしまいました。 戦後生まれは「磨り臼」の意味が農家の子でさえわからなくなってしまってると おもいます。 そしてこの「磨り臼」の「臼」とあるようにここに、もっと昔は 米粒のびっしり入った「籾」を「籾摺り」するときには 「臼」と「杵(きね)」を使ったようです。 餅をつくのは見た事あると思いますが、あのようにして 臼に籾をいれて杵でついて籾摺りをしたかもしれません。 箕も米の収穫作業には今現在はほとんど使いません。 使う必要が無くなったのです。 木製の唐箕、動力による籾摺り機、コンバインの出現で活躍の場を失いました。 また平成にはいった頃から宮城の農村では「カントリーエレベーター」の 出現でもはや「碾き臼」や「箕」は現代巨大なハイテク機器農業時代においては なんの役にもたたない生きた化石のようなものとの認識を持たれているでしょう。 農作業で買われる方の多くは 「小豆」「大豆」を「殻」と「豆」に吹き分けるのに 使うためってことがほとんどです。 また農作業での機会化が進んだため農作業に使う割合が減り 信仰の理由から箕を購入するという割合が増えてきました。 「中秋の名月」「お正月」などが主な行事です。 それから採取の時期なんですが、実はこれはあまり他の方には 言ってないんです。 桜の皮は7月の土用のころ山に入って 幹の廻りをグルッと一周するように 根元から上まで刃物(うめがいかはまだ未確認)で傷をつけて おきます。1、2週間たったらまたその山へいくと、自然と剥がれた 桜の皮、樺が根元に落ちてますのでそれを拾ってきます。 こんな真夏の梅雨の時期は毒虫や毒蛇がいる可能性も高く、 山にはいる里人はほとんどいません。 箕について本当に知りたいならば、私は昔ながらの農業を して見なければ解らないと思います。 とくに、臼や箕に呪術性を何故、いにしえの人々は感じとっていたのか 理解するのが難しいと考えています。 ※ 箕の材料 すず竹について  日本列島の箕に使われている材料を見てると なにかに激しく抵抗してるかのような, 非主流の印象を受けてしまいます。 どうしてこうまでして採取しづらい木の皮や竹種を わざわざ択んで刃物で加工して作るのか。 中国や東南アジアのように加工しやすい 男竹(真竹とか柔い孟宗系の竹)を使わないのか。 宮城、岩手で作られる箕の材料である「すず竹」などは 滅多に見つかる竹種ではありません。 高地の熊が出る所に生えてたりします。 しかしそんな山の中にありながらそこが古代の城跡や 平安京で読まれた和歌に登場したりする地であったりする のにはおどろかされますし、なぜなんでしょうか。 この「すず竹」はみなさん、とくにご年配の方々には なじみ深い竹種でもあります。 戦前戦後の民家にはタンスのほかに押し入れなどに 衣装行李というふたつきの四角い着物入れの大きなかごが たいていあったはずです。 関西方面でしたら もしかしたら「きりゅう細工」と呼ばれる 「柳行李」のほうを使用してたという方が あるいは多いかもしれませんが。 しかし東日本が特にそうだったとおもいっますが 関東、東北では山吹色に渋みがかかった この「竹行李」がかなり多く利用されました。 この時代の映画のシーンなんかですと、間借りを するための引越しの場面なんかによくこの 竹の「衣装行李」が小道具として登場してきます。 しかし実はこの竹は昔であればふもとまで運搬するのが たいへんな山の高いところに有るのが東北の場合普通です。 宮城ですと松島、大郷の山間、石巻市の牧山(まぎやま)などが 竹細工をするものの間では有名でこれらの地名がまず挙げられます。 岩手ですと青森県境の数の戸地区、気仙地区の有住(ありす)地区 が戦前の竹切り出しの大産地でした。 このすず竹切り達は関東の竹相場の動向を見ながら切り出しをします。 東北のすず竹切りの間でまず地名で挙がったのが静岡御殿場です。 山梨県の勝沼でもこの甲州ザルが作られていたので すず竹が多く生えています。 またこの竹を使った竹細工の産地としては岩手一戸、 信州松本があります。 なんでまたこの山の高い切りだしにくいところに生えてる この竹を使うのか、まだまだ考えてみなければなりません。 竹切りする冬はかなり寒いです。 私もすず竹運びは雪の中での作業がほとんどでした。 どう考えたって異常です。里の真竹や篠竹をなぜ使わないのか。 また材料については見解を書かせてください。  管理人より ご丁寧な説明に感謝致します。【この美しい五角形の箕を通信販売していますので、欲しい方はご利用下さい.】




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