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2003年06月28日(土)22時30分までのKumanolifeGuestbookへの書き込みです。


はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/28(土) 22:26<

RE:隠し田3

こうへいさん、詳しいお話有り難う御座います。慶長年間で地名が分かっているということは誰が大名だったか調べれば面白いですね。でもやはり老婆が一人で罰せられたというのは裏がありそうです。私が代官だったら殿(笑)に老婆一人の命で村を許したなどと報告出来ないでしょう。代官側もぐるだったのかもしれませんね。村民を許す代わりに老婆の犠牲と姥明神を作って、口合わせの約束をしたのかも。この話が残っているのも目的を持っていたのではないでしょうか?私の持論である「むやみに」人を殺さなかった中世の様子ではないか、と思いこんでます。

こうへい - 2003/06/28(土) 20:19<

隠し田3

ナイスタイミングさん、具体的な話が残っていて、面白そうですね。
はつせさん、隠し田のお話、出来るだけ短く、紹介します。

有田郡吉備町の、高坪山と千葉山に挟まれ、賢谷川に沿って開けた、田角という小さな里の話です。
慶長年間のことです。こんな山の中の里にも、年貢は容赦なく割り当てられていました。
祭りの日にやっと米の飯にお目にかかる位で、アワ、ヒエの粥をすすって生きつないでいました。
そんな暮らしに耐えきれなくなって、川の上流の滝の上にある沼地を干して、共同で、畑にしようという意見がまとまりました。村をあげて沼の干拓作業がはじめられ、溝を掘り、セキをつけるなど、一生懸命に努力して、とうとう、立派な水田を完成させました。
この水田は、隠し田で、出来た米は在所の人の食料として分配されるわけです。
田植えを終え、夏、里をめざして、数人の役人が登ってきます。出来具合を調べる一行です。
村人は、慌てて集まりました。でも、良い考えが出てきません。一人の老婆が立ち上がり、「わしにまかせろ、その代わり何を聞かれても、知らぬで通せ」と言って、出て行きました。
老婆は、滝で役人を待ち、滝壺で冷やした鍋のフタを開けて見せました。顔のうつる程うすいおカユでした。役人は、隠し田も無いだろうと、検見(けみ)をすませて引き揚げていきました。
隠し田は、豊かな稔りをもたらし、里は、裕福になってゆきます。
5年目の秋、祭りの用意で、モチをつき、スシをつくって、うきうきしていました。
その時、突然代官がやってきて、検地をすると申し渡しました。
いつかの老婆は、また滝壺の前に座り込んで、代官一行に村の貧しさを訴えるのでした。
供の者が、滝壺に浮かぶワラくずを見つけました。
代官は、「滝の上流を探せ」と叫びます。刈り取りの済んだ一面の稲田が発見されました。
代官は怒り狂い、滝のそばに、老婆は引き据えられ、夕日に向かって手を合わせた頭上に刀が打ちおろされて、里の幸せを願った老婆は、その生涯を終えました。
隠し田が発見されて、どのような圧迫が村に落ちかかってきたかは、定かではありません。
けれども、村人たちは、この滝を「姥カ滝」と名付け、傍らには「姥明神」を祀って、代々伝えてきたのでした。

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/28(土) 15:47<

遅ればせながら

ヤゾーさん、遅ればせながらようやく相互リンクを登録させて頂きました。私のHPでの紹介文でなにか問題があればお知らせ下さい。私の勝手な理解で書いてしまってます・・

ナイスタイミング - 2003/06/28(土) 13:56<

字名

こうへいさんの釜中調査隊レポート、興味深く拝見しております。
とんちんかん小僧さん、帝国電網省に相互リンクを張られて弱ったことがあります。
(竹下氏はよくチェックされているようです。)


今日、地元のフィールドワークを個人として、組織として行っている
父と話す機会があり、周辺の字名を教えてもらいました。
*(*。。*)*ongly さんにご教示頂いたことで、父の綿密な調査の
話はますます興味深く、時間の過ぎるのを忘れました。

出口という地の対岸の奥地に、タタラという字があったそうです。
今は使われていないとのこと。私は全く知りませんでした。
(昭和初期にはヤナセという鉱山師が居住していたとのこと。)
なにかの番人であった伝えられる家には反りが無い刀があったとの
話も教えてもらいました。
対岸には伊勢国多気郡波多瀬村出身で藩ご用船手配や鉱山の経営をしたと
言われる豪商の屋敷跡あり。
帰省したら連れていってもらうつもりです。

とんちんかん小僧 - 2003/06/28(土) 01:47<

奇妙・・!?

△うぶさん
何だか頭の中が混乱しそうです。
僕は、こちらの海人の部屋(http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ama-top.htm)
を見るまで知らなかったことですが、天皇家(本当のところ判っていない)でありながら異色の人物ですね。海人系でありまた金属系であるなんてややこしいです。

こうへいさん
多々良について調べていたら、久しぶりに『帝国電網省』(http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/index.html)のHPに行き当たりました。
ここでも、多々良については特に真新しい情報はありませんでしたが、他に幾つもある情報の中に「大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について」(http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4-1.html)や『南北朝、未だ終結せず!! 南北朝秘史-其の弐-』『束の間の独立国 ── 幻の「八重山共和国」』等・・。
興味深そうな内容がズラリありました。

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/27(金) 23:48<

RE:隠し田

>隠し田が見つかって、ばあさんは、首をはねられた
 話を合理的に見てみましょう。どの時代の話かは分かりませんが、隠し田を作るのはばあさんでは出来ないことです。もしばあさんだけ処刑されたのなら、村の罪を引っ被った「請負」だったに違い在りません。藤木久志の「戦国の村を行く」によれば「ものぐさ太郎」と同じく、村の犠牲になるために養われた奴隷だった可能性があります。その代わり彼らの親族は村から庇護される契約だったといいます。
 HP少し変更しました。

こうへい - 2003/06/27(金) 19:57<

「蓑津呂」

△うぶ さん、やっと「蓑津呂」みつけました。
美里町蓑津呂 ミサトチョウ ミノツロ
津呂って、未だにわかりません。

こうへい - 2003/06/27(金) 11:46<

隠し田

お百姓が、米を作ってるのに食うことが出来ず、村の上の方に隠し田を作った。
ある村に、調査が入るたびに、村のばあさんが、米の殆ど入ってない粥をたき、役人に見せていた。何年かして、やはりばあさんが、粥を炊いて見せていたところ、上から、ワラ束が流れてきた。隠し田が見つかって、ばあさんは、首をはねられたという話が残っています。
上六川のてっぺんの杉林の中の、水田跡は、隠し田だったのかも知れない。
村総出でないと作れない石垣、改めて見ると、高低の差はあるが5枚ありました。
石ばかりの斜面に必死で作った水田、最後まで、見つからずにすんだのだろうか?
いや、隠し田だとしたらです。
写真アップします。

△うぶ - 2003/06/27(金) 01:42<

倭だつみ

ヤゾーさん、調べて頂いて有難うございます。
内陸へ入った一派や海辺に留まった一派(すなどり)、倭系、新羅系、ETC。いろいろ有るみたい
です。一例、長野県や滋賀県等では日本海系と伊勢湾、淀川系が拮抗していて争いも有ったみたい
でして興味深いです、資源の争奪戦。奇妙な事に古代天皇の僕になったり献上したりしています。
ヤゾーさん前述の倭と古代天皇との融和話に行き当たります。
勿論内陸へ入った一派の内にはサンカになった者も居ると思います。酒田(地名)→酒→坂→サンカ
等が一例のルーツです(自信は有りませんが)。
海人の象徴として竜が有りますが、鉱山師の象徴の百足が有り、共通の長物であるのが面白い
です。
最近段々カッパに近ずいて来た事自覚しています、エロが付くかどうかは、そちらで判断して下さい、
先輩カッパ様。、、、、、私、お水系は好きです。

こうへい - 2003/06/26(木) 20:43<

ヤゾーさん、フォローして頂いて、かたじけのうござる。

「ふる里の泉」が、親戚にあると聞いて、金屋まで行って来ました。
テーブルの上に小さい箕があって、野菜が載っていました。
奥さんが、箕の作り方を習って作ったそうです。
本は、3千円で、財布に2千円しかなく、明日、借金千円返却に行きますので、箕の先生が何者か、聞いてきます。

ワダツミと言えば、元ちとせの「ワダツミの木」が、思い浮かびます。
変換すると、海神と出てきますね。海神が、河童に落ち、エロガッパにまで行っちゃうとは、あんまりですね。

ヤゾ− - 2003/06/26(木) 13:55<

河童(ワダツミ)産鉄民説

みなさん こんにちわ

こうへいさん 釜中の天一神社について よくそこまで調べましたね。
ご苦労さまでした。
まるで一連の話しが 30年間歩いて古老の話を聞き 
跡地を調査したという「ふる里の泉」の著者である鳥居勝さんの遺志を
こうへいさんが引き継ぐように導かれていたかのような気がします。

>帰り道、なぜか涙が出て、しまいには、運転出来なくなってしまいました。
>周りは、彼が歩き回った、山々が緑美しく広がっていました。

その情景が浮ぶような 胸を熱くさせるお話でした。

△うぶさん ワダツミ(河童)が産鉄民であったということについて
『闇の日本史』沢史生著のまえがきに次ぎのように書かれていました。

河童は当初から河川や湖沼をすみかとしていたのではない。彼らは遠い昔、海の彼方からやってきて、
わが国の開発に貢献したワダツミである。すなわち海霊・海神と崇められる倭人であった・・・
古代鉄文明のすぐれた担い手であったがゆえに、小わっぱ扱いされたワダツミの悲劇が、
ことさら歪曲され、後世につたえられたのであろう・・・
ワダツミが産鉄民であったことは、小童が一つ目小憎や、あるいは片足の一本タタラといった
大入道に変容して、語りつがれてきた事実からも推測される・・・
それだけなら河童におとされた彼らも、便所からホト(女陰)を狙うという、穢らわしくて卑猥な妖怪には、
されなかっただろう・・・古代産鉄民であったワダツミたちもまた、彼らなりの自由な生き方に、
その楽土を見い出そうとしたがゆえに、時の王権から、好ましからざる存在として烙印を押され・・・
悲惨な闇にさまようさだめを、担わされたのである。
そのワダツミたちの中に、いかなる神々が含まれていたかは本文にゆだねるが、
大事なことは、河童におとされ、異界に封ぜられたワダツミこそ、
実はわたしたち庶民大方の、祖先たちであったという点である。

『闇の日本史』沢史生著 彩流社 まえがきより

※河童が便所に潜んで 女性のホト(女陰)を窺うだとか
 水浴にきた婦女子を深みに誘い 河童に襲われたとみられるムクロには
 顔に恍惚の表情が残り 微笑みさえ浮かべているが肛門はすっかりと開いているなどという
 そういう話しはあまり知りませんでした。
 エロガッパという言葉は ポテチンの鳳啓介師匠からではなかったのですね。

こうへい - 2003/06/25(水) 18:53<

釜中調査隊 天一神社

1.「紀伊続風土記」は紀州藩公の命により、漢文学者仁井田好古以下多くの藩の碩学者たちが、天保年間(1834年〜1843年)に十数年の歳月をかけて、深く探究して編纂し、藩公への報告書として提出したものであり、信頼のできる名著である。

2.「ふる里の泉」は、鳥居勝さんが、復員後、湯浅の「有田タイムス」に勤務し、30年間歩いて、古老の話を聞き、跡地を調査し、まとめた有田の民話集である。平成8年発行。

「ふる里の泉」は、昨日、県立図書館から借りたものですが、釜中の記述が一つだけありました。
・釜中集落は、田殿神谷の最勝寺の奥の院があったと伝えられる。
(最勝寺とは、田殿丹生神社の前に大規模な寺院があったといわれる寺である。)
・この釜中に天日神社と呼ぶ天一神が祀られていたらしい。この神社は、女神といわれ、あるとき
寸暇を利用して村内を見回ったところ、可愛らしい鶏が遊んでいた。
「おお、可愛い」と抱き上げた。すると、天一神の目をつついたと言われている。
それ以来ここで鶏を飼ってはいけないことになったそうである・・・とかかれてあります。

  以上を見てみると、
江戸時代には、天一社 と呼ばれ、天一神が祀られていた。
鳥居勝さんの聞き取りの時は、天日神社と呼ばれ、天一神が祀られていた。
合祀先の白岩丹生神社では、天日神社と呼ばれ、天照大神を祀る
と、変わっていると見ていいようです。
この、天日神社は、捜している天一神社であると、調査隊は決定します。

尚、今朝、筆者の鳥居勝さんを訪ねましたが、お宅には誰も住んでいなくて、近所で聞くと、
4年程前に、奥さんを看病中に肺気腫で急に亡くなったとのこと。奥さんは、現在、老人ホームに居り、子供さんは、独立して外に住んでるとのことでした。

本のあとがきに、・・七十余歳を、迎えた今日、昔話を教えてもらうべきお年寄りはいなくなってしまった。と同じに私に聞きに来る若者が多くなった、そして医者通いは日課となりつつあり、何時お迎えが来るかもしれないと思うとき、まだまだ研究不足の未完成ながら、みなさまのご協力を賜り、ひとまずまとめさせていただいたのである・・略

帰り道、なぜか涙が出て、しまいには、運転出来なくなってしまいました。
周りは、彼が歩き回った、山々が緑美しく広がっていました。

ヤゾー - 2003/06/25(水) 05:18<

自然の驚異

みなさん おはようございます

四時過ぎに大地を揺るがすカミナリの音で目が覚めました。
外は台風のような雨風が吹き荒れています。
ここのところの長雨で 村の二ケ所で大規模の土砂崩れがありました。
一ケ所が東の谷を挟んだすぐ向かいの山で
時折 バキッドドドドと木々が折れ土砂が崩れる音が聞こえてきます。
窓から外を眺めると フラッシュを焚いたようにカミナリが光り
山の木々が大きく揺らされているのが照らし出され
少し間をあけてからゴゴゴゴゴドドドドバゴ〜ンと大地を揺るがす大音響が鳴り響きます。
なんというドラマチックな・・・というより少し怖いです。
自然の力って凄いな〜と寝惚けた頭でしばらく外を眺めていたのでした。

こうへいさん ガツロはやはり謎ということですね。

ヤナさん ハニーさんの誕生日おめでとうございます。
もしかしたら魚座と蟹座と違いますか。
そうだとしたら相性ピッタシですね。

蜜柑さん 古本屋さんにでも聞いてみます。

蜜柑 - 2003/06/25(水) 04:41<

新たな謎が出てきました。

 水木しげる、つげ義春などのエッセイを読んでいて、「貸本産業」と言うのに興味を持っていました。 彼らによると、昭和40年代にはほとんど「カイメツ状態」で、貸本に漫画を書いていた漫画家は原稿料をもらえずに、餓死した人もいるそうです。

で、今、手元に昭和45年発行の貸本漫画があります。

タイトルは「ごぜ姫お美代」 原作 三角寛  画 真木村昆

なぜ、壊滅状態の貸本産業に三角が手を貸したのか?
これが謎であります。
また、貸本産業の栄枯盛衰、特に「枯&衰」の部分に興味シンシンです。
どなたか、貸本について詳しい情報お持ちの方いらっしゃいましたらご教示ください。

△うぶ - 2003/06/25(水) 01:30<
こうへいさん:「むつ」なら、違うなあー、こちらの誤解でした。(前出でしたね)
トンちゃん:息長(おきなが)は海人系の一派で内陸へ入ってからは金属精錬の一派です。
       長く素もぐりが出来るから=息長い→息長です。宗像系の海人、日本海系で、
       瀬戸内系と対峙していたみたいです(一例:ムカデ退治の寓話)。
       滋賀県米原の丹生が本拠になっています。ワニ族も同系です。ご存知だったかも?
Σ:海人と金属精錬は関係深いのですが、ルーツが複雑で、根気が要りそうです。

こうへい - 2003/06/24(火) 09:50<

釜中道場 補足

道場には、炊事場があり、自炊出来るそうです。檀家が良いと言えば、泊まれるそうです。
今まで、寺を守るとして、何人か住んだそうです。いっぺんに何人かではありません。
これは、今の話。
丹生の安養寺の飛地境内として合併されてます。
天正年間に、浄満寺末として建てられたが、寺号を称するに至らずに明治を迎えた(町誌)
浄満寺の末寺になることを門徒が納得せず、随分争っています。最終的には、謝罪して、しぶしぶ末寺になっています。(町誌)

こうへい - 2003/06/24(火) 09:24<

ゆり

△うぶ さん、六川は、ムツガワと読みますから、どうでしょう?
上六川では、ずいぶん百合の花が咲いていました。うすいピンクの百合が多かったです。
野に咲く百合は、何というか、すきです。
トンちゃん、ありがとうございました。
天一神社も、タタラも見つからず、でもまあ、昨日行っといて良かった。今日、えらい雨降ってます。ゴキくん、最近出てきませんので、ワルサーもどこへ行ったのやら。

とんちんかん小僧 - 2003/06/24(火) 02:36<

難題でした!

こうへいさん
>多々良(たたら)と、蹈鞴(たたら)の語源は、どちらが、先なんでしょう?

あれから、随分調べてみましたが答えを探すに至りませんでした。
調べた後でもう一度、クマノライフでのこうへいさんの質問を読んだときに調べている内容の間違いに気づきました。炉(たたら)と蹈鞴(たたら)の語源について調べてしまっていました。多々良は、次回調べてみますね。
こちらの『ようこそ語源世界へ』(http://www.inetmie.or.jp/~jin/GOGEN.html)というHPでは、<たたら(た-た-るゎ) ta-ta-rwa とてもとても多く群がること>とありました。また、『たたら考』(http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/hp/hp670.htm)によりますと、たたらの語源は、中央アジアの民族タタール人が持っていふいた『皮袋』が、製鉄作業の送風器具(吹子)に使われたところから、『たたら』と名付けられたとも、インド地方の言語『タタール=猛火の意味』から転化したとも言われます、とのことだそうです。まだ幾つか調べてみましたので全て紹介しますね。
『米と酒と鳥と貝』(http://homepage2.nifty.com/amanokuni/sake-tori-kai.htm)
↑には、少し前に掲示板で話題になっていた事が書かれていましたのでさわりだけ紹介します。<・・天之日矛といわれる蚩尤も鞴(ふいご)の風の神、つまり息長氏が奉斎する天目一箇神のような、金工鍛冶の神なのは大変興味深いです>
息長氏という氏族が気になって、さらに調べてみたら、丹生神社と関係深いそうな・・何だか興味が引かれません?
『たたらという言葉について』(http://village.infoweb.ne.jp/~fwif4861/tatara.htm)
『播州刃物の歴史』(http://www.misuzu-hasami.co.jp/banshuu.html)

ヤゾーさん
あはは・・やっぱ、寿命・・かな。
奴も通算10年は経ってるからねえ。
タタラを調べていてたたられたら洒落にならないもんね。
こうへいさん、△うぶさん残念でした〜
最近は体調は最高にイイから○○○に干渉されませんのですよ。

ヤナさん
お久しぶりですぅ〜!!
ゴキをそんな方法で倒せるのですか!それは、僕にとっては、すごく勇気のいる方法です。
僕は、とりあえず「ピューーー」と逃げまどいます。追ってきたら必死にバトルしますが・・。
今年は、まだデカイ奴に遭遇してなくて平和な日々を送らせてもらっていますよん。

△うぶ - 2003/06/24(火) 01:50<

どうなんでしょう?

*(*..*):*ngly さん、「淘」の字でしたか、中国語で金堀人を「淘金者」と言いますので、はっきりしました。
<ゆり>→由利(姓、地名)はどうなんでしょう?それと金森姓は<かね堀り>とも近い発音ですが?
それとも<金護り>の方でしょうか?
。伊勢白粉は堕胎に使用しませんでしたでしょうか(内服して)?。
こうへいさん、上六川、下六川は木地師の村ではないのでしょうか?
「六」←轆轤(ろくろ)←轆轤師=木地師、の線が思い浮かびましたが。
ミミさんの辛夷のタブーは象徴的です。飾ってはいけない花、もう一つは「彼岸花」では
なかったですか?

ya(・ε^)na - 2003/06/24(火) 00:46<

けけけっけ・・皆さんおこんばんわ・・

やっほーーぅ・・
  ヤゾーお元気ですか??
 今日、ゴキブリが現れました・・
    あほちゃいますかいねぇ・・
  ヤナの前に現れるなんて・・バチン!!!スリッパでたたいたりました・・へへっへ・・
    可愛そうに・・おしゃか・・オロクです・・
         ピクピクピク・・あんよが痙攣しています・・
      南無阿弥陀仏・・オロクジになりはりました

ごきかぶり・・ゴッカブリ・・ごきぶり
  五器=一汁三菜ごはんの器で五器なんやったかいねぇ
     そんな器カブるんがゴキブリ・・

   なんやおもしろいですねぇ
     みなさん、なんやほかにおませんかいねぇ・・

  言葉遊びになるんかいねぇ・・

           あははっはは・・今日はハニーの誕生日
      おいしいお酒、シャンパン・メルローのワイン
         久ぶりに・・けっけけけけ・・レロレロだっちゃ・・

           すんません・・もう・・寝ますね。。おやすみやす
                       ばいばい
  

             

こうへい - 2003/06/23(月) 19:57<

釜中調査隊 全容?

釜中の温井原(ぬくいはら)に行きました。集落は、上六川に似ていて、上の家から下の家の屋根上が見えます。
道から、5メートル以上ある石垣の下に家があります。高所恐怖症には、ちょっと怖いです。
そこの、おばあさん?に聞きました。
こちらがわには、神社は無い。蒸炉火(むしろび)、白岩(しらいわ)は、全部水田で家は無く、白岩は、大きな真っ白ではないが、しろっぽい岩が三つほど田んぼの中にあった。
谷沿いには棚田が続き、道は、谷沿いにあって、両側に田んぼを見ながら登り、途中、二股に分かれ、一つは白岩で行き止まり。一つは、茶屋を通って、鏡石を越え、別所に降りずに、鉄塔沿いに行き、大野に降りた。15年前に、蒸炉火、白岩は、ゴルフ場になって、自分の家の田も無くなった・・・という話でした。

つまり、いつの頃から、白岩、蒸炉火には、木がなかった。
水田から、炭焼きの釜が、多く出るので、釜中の名が付いたのだろう(町史)とは、ここの、水田では無いのだろうか?
でも、いまは、ゴルフ場。
工事中に何か見つかっていたとしても・・・?

こうへい - 2003/06/23(月) 19:15<

釜中調査隊 再び、がつろ

がつろの石垣の、水田の可能性・・
がつろのある林までの登りが、石垣を積んだ山椒の畑になってますが、じっとみると、みんな昔の水田であるようです。林の入り口に入らずに、畑沿いに登ると、突き当たりに池がありました。
村の上が、元は、水田であったようです。
で、がつろですが、ここの石垣は、全く、水平を考えて作られていません。
石垣の頂点を結ぶ線が、水平でなく、山の傾斜に沿っているようです。
上の石垣までの間の面が、上に向かって傾斜しています。
水田ではないようです。なにかわかりません。

がつろの、岩の斜面の、左端を見ていくと、端が直線状に揃って上に向かっています。
つまり、ここまでが岩の崩れた所と、線を引かれたようになっています。
自然じゃ、こうはならない。
その、横に石垣が上に続いているわけですが
石垣を積んだ人が、線を引いて、ここからはみ出た石だけを使って、石垣を作ろうとしたのなら、
わかりますが・・・

こうへい - 2003/06/23(月) 18:08<

高さ2メートルの石垣 完結編

ヤゾーさん、巨石は、単なる石英質の岩で、磁気は、帯びておりません。

林の奥の、2メートルの石垣は、水田跡のようです。
坂を下りると、上六川でした。
途中、山側に巨大な岩があり、その横に石垣がありました。自然の岩と、積み石の組み合わせで作ってあります。
登ってみると、古い稲株がありました。
道で、寸断されてますが、下からの水田の続きです。
林の奥の石垣と、そっくりです。
下から見ると、千枚田のように、狭い水田が、あの林の下まで続いています。
林の石垣の下の道路からみると、道の下が杉、檜が生えていますが、水平面をもつ地面で、段々になっています。上を見上げると、巨大な岩が、邪魔してますが、そのずっと上に2メートルの石垣が、あるわけで、崖に突き当たるまで、水田を作ったのでしょう。
岩の斜面の際の池は、水田用のため池の名残でしょう。
というわけで、水田跡と、結論しました。
平地のない村の水田作りの執念を見た思いです。あっけない、幕切れです(^o^)

*(*..*):*ngly - 2003/06/23(月) 16:30<

くちをはさませて

△うぶさん
>ダイヤモンド(金剛砂)の場合はグリースを、砂金の場合はビロードか
>フェルトだったかを貼り付けると旨く採取
 なるほどThe熊野。愛媛県の川辺村に「ゆりたに」があります。百合か淘谷か忘れ
ましたが、銅の産地といってましたが、銅採取に淘板(ゆりいた)は
不要ですね。
ミミさん
「この花は、家に飾るもんではない。」
なぜなのでしょうか?やっぱし鬼(俘囚・夷俘)の好きな花だからか?
「この花を家の中に飾ると鬼が家に入ってくるからダメ」でしょうか?
こうへいさん
>空海が、巨大な、水銀鉱脈を、占有するために、寺を建てて、聖域に?
 高い山にある天台宗の寺は鉱山事務所と考えたほうがよいようで、山門
の仁王は仏を異教徒から守るための脅しと八切止夫は書いていますが、もし
かしたら寺にある水銀を守るガードマン代りかも。三重県勢和町の丹生神
社は完全に水銀採掘の現場・工場事務所のように思えましたが。
 昔は梅毒や頼病の特効薬、木材の防腐剤、後に白粉原料だったようで、
庶民用でなく、金と並んで王家の故郷・中国に大量に献上したはずです。
はつせさん
 そうですね。お布施などというのは金がある方がするもので、金のない
身は体や労働力を提供するだけでしょう。金・物・情報をもっていれば
道場以外に、庄屋や番太(警察)小屋に泊まったようです。私の祖先は
寺の軒下・祠や小堂・洞窟なければ野宿だったようです。

ヤゾー - 2003/06/23(月) 09:39<

多様化=豊かさ

みなさん こんにちわ

こうへいさん また面白そうなものを見付けましたね。
今度 方位磁石を持って行って
巨石が磁気を帯びてないか調べてみて下さい。

>ここ2、3日マイカーの様子が変でした。
とんちんかんくん それは寿命です。

ミミさん 辛夷を家の中に飾ってはいけないというお話しは
興味深いものがありました。

>恐けりゃ自分でずっとかぶっていたらいいのに。
△うぶさん 鏡を覗く度に よけい恐いわ!

>「道場」は「武道記」によると、仇持ち、武芸者、遍路、雲水など一夜の露しのぎに利用したとあります
はつせさん 他所者である貧しい旅人に そういう場所が与えられていたとは豊かですね。

昨夜NHKの番組で アマゾンの原住民のことをやっていました。
なんでも 言語文化神話の違う小さな部族がたくさん存在するのだそうです。
その番組の中で 原住民の人たちを見守っている人が
平準化するということは、世界が貧しくなるということであり
なんでも均一化したがる社会とは 世界を貧しくさせている
多様な世界こそが豊かなのだというようなことを仰っていました。
用事をしながら横目でチラチラを見ていたのですが
その言葉を聞いてから真剣に見入ってしまいました。

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/23(月) 00:52<

RE:釜中道場

「道場」は「武道記」によると、仇持ち、武芸者、遍路、雲水など一夜の露しのぎに利用したとあります。勿論、普通の旅人も利用したと思います。私の小説にも使おうと思ってました。具体的なイメージが沸きました。有り難う御座います。

こうへい - 2003/06/22(日) 23:23<

釜中道場の写真

風の王国 掲示板に、アップしました。

こうへい - 2003/06/22(日) 21:11<
はつせさん、おばんです。
ボクが書いたのは、高野山に限ったことです。
高野山の寺の下に水銀鉱脈があるとの情報からの、ボクのいつもの想像です。
弘法大師が、各地で、水や石油で、民衆を助けたという話が残ってるのは、山師的な知識があったのは、確かだと思うのですが。
民衆を助けた伝承が、あまりにも各地に残ってるので、鉱脈占有をしたとしても、そこから得た富を、民衆の為に使ったか、寺院の建設と布教に使ったか、時の権力者に使ったかは、この前まで、
全く興味の無かった、神社、寺院うぶのボクには、わからない世界です<(_ _)>

>「道場」は確かに浄土真宗の寝泊まり出来る様なお寺を云う
釜中道場も、そんな感じです。扉を閉めれば、仏も見えず、単なる畳敷きの部屋になる構造になっています。
外観も、釣鐘がなかったら、民家と間違う位です。

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/22(日) 19:09<

鉱山の支配

こうへいさんの書き込みを読んでううむと思いました。
>空海が、巨大な、水銀鉱脈を、占有するために、寺を建てて、聖域にしたのでしょうか?
 神社、仏寺が山の上や鉱山に関係ありそうな所にあるというのは、私には確信は無いのですが、常識でしょうか?院内・別所などの地名がやはりそれらに関係した所にあるなら、鉄、金銀の支配は法域という名のもとにされたのではないでしょうか?お布施や中央の資金で日本国中の神社仏閣が建てられたとは疑問になります。そのような経済的な方面からの研究はないのでしょうか?法事で真宗のお坊さんが持っている金鉢や道具を見ていて思った私でした。「道場」は確かに浄土真宗の寝泊まり出来る様なお寺を云うと、井原西鶴の「武道伝来記」の注にありました。

こうへい - 2003/06/22(日) 16:33<

釜中探検隊 高さ2メートルの石垣

今日、東急クラブハウスから、釜中滝に降りる途中に、左(東)にはいるコンクリートの道が見えました。東側は行ったことがないので、車をおいて行ってみました。
300メートル程下って、谷があり、ずっと下にせまい水田が見えました。
平坦な道を行くと、めいっぱい針葉樹林で、途中右上にバスくらいの大岩があり、もっといくと、林のなかに、石英質の白い巨岩が見えました。斜面をよじ登って白っぽい巨岩に着きましたが、高さ3メートルくらいのやら、色々ありました。岩の終わりで、小道に出て、どんどん行って、帰ってきて、迷いました。3メートル幅の、修羅でも滑らすような窪みが上から下に続いていました。
上に登る、小道があったので、行ってみました。
道の突き当たりが、木のない空間で、上まで続くと思われる岩の急斜面があり、際に3メートルくらいの池がありました。堤が土で、松の木が一本たっています。今でも、使ってるのか、壊れていません。沈んだ枯れ葉の下に、沢ガニが何匹も。
その下が、平らで、観光バス一台おけそうです。そこから、飛び降りようとしましたが、下が水浸しで、枯れ葉の間に地山が見え、水が流れています。下に降りて見上げると、高さ2メートル以上の石垣になっています。その下も、ちょっと壊れてますが、1メートル以上の石垣です。
ガツロと違って、人手が随分要りそうです。
随分水気の多い所です。
カメラを車に置いてきたので、撮れませんでした。
道が判らないので、水の流れに沿って降りていったら、はじめのバスくらいの大岩の横に降りて来ました。
釜中なのか、上六川なのか、わかりません。
こういう石垣、ここらには、いっぱいあるのか、たまたまなのか判りません。

その後、上谷に行きました。無いと思ってた「釜中道場」というお寺、見つけました。
民家に毛が生えたような寺で、ちょうどおばさんが花を換えにに来たので、中を見せてもらいました。木で掘った、古そうな色の花の彫刻が、上に三枚あり、4〜5枚の扉があります。
中に金ぴかの仏像がありました。
浄土真宗のお寺で、坊主が居なくて、村人が定期的に花を換えにきます。
釜中は、上半分が、殆ど浄土真宗で、下半分が浄土宗で、同じ村やのに変やなーと思った・・と、おばさんが言ってました。 質屋さんは、来ませんでした。
がつろ聞いて回りましたが、わかりませんでした。
寺跡と思っていた所は、サンマイ(墓場)だろうと、別のおじさんが、言ってました。
五輪の塔のこわれたのが、良く出てくる・・・ここは、前と同意見ですが。
サンカの話は、箕は金屋あたりで買ってきたんやろって感じで、無かったです。
長くなりました<(_ _)>

△うぶ - 2003/06/22(日) 02:36<

?質屋?

こうへいさん
そのへんが話し半分の所以です。そこんとこ突っ込まれると辛い。今日日曜は臨時で仕事ですので
仕事中に考えてみます。高野山の周囲は地図で見ても鉱山だらけ、僕も何かの本で読んだ覚えが
有ります、鉱山押さえる為に寺建てたと。
ヤゾーさんのお面は透明なのでしたか、、、かぶると「ビートたけし」になれるやつですね、
恐けりゃ自分でずっとかぶっていたらいいのに。
トンちゃんの車はお○○さんのたたり?。

こうへい - 2003/06/21(土) 19:36<

質屋の謎4

△うぶ さん、金山ならそうかも知れませんが、鉄や銅の鉱山なら、くすねる人も居ないと思うのですが、早池峰神楽の「金掘り」の様な金山に限った質屋の役目なのでしょうか。

トンちゃん、多々良(たたら)と、蹈鞴(たたら)の語源は、どちらが、先なんでしょう?
トンちゃんの車、なにかにタタラれてるのかも(^o^)

こうへい - 2003/06/21(土) 19:18<

高野山と水銀の鉱脈

ヤゾーさん、透き通ったおじさんの顔に腰を抜かしたって言うのは、笑わしてくれますね。
ユニークな人とは、思っていましたが(^o^)

考古学者で、地質学に詳しい友人に聞きましたが、高野山の一番中心の土は、真っ赤だそうです。
水銀の鉱脈の上に寺が建ってるようなものだそうです。
高野山は、それだけ水銀が豊富だそうですが、有田川流域の丹生の名の付く所はなぜか水銀の鉱脈が見当たらないのだそうです。以外です。
弘法大師の高野山に、丹生津姫が水銀を献上したってなにかで読みました。
高野山にいっぱいあるって言うのに。高野山の水銀の精製に技術を貸したって言うことなのかな?
昔は、日本は、水銀の輸出国だったという話も読んだことがあります。
空海が、巨大な、水銀鉱脈を、占有するために、寺を建てて、聖域にしたのでしょうか?

とんちんかん小僧 - 2003/06/21(土) 12:45<

金堀衆の発生(4)

 近年まで“山師”とよばれる人がいて、ここぞと思う山をこつこつ歩き廻り、鉱脈の発見につとめたものである。
 かれらは、経験と独特の勘をもって、樹木の繁り具合、岩石の色合いなどの山相により、鉱脈の有無、優劣を判断した。そして、掘進するさいの排水や通風を見極めて、坑口の位置を定めたり、山掘り、精錬技術者といった人の手配もした。
 投機的事業なので、ホラ吹き、詐欺師という意味の形容にも使われたが、本来、技術者であるとともに、経営者としての能力も必要とされた。むかしの山地の民―採鉱師も、使用する道具の違いこそあれ、形態に変りはない。ただし、その成果はしばしば伝説にいろどられた。
 石見銀山(大森銀山・邇摩(にま)郡)などがそうで、南北朝のころ、周防の国守大内
弘幸の枕辺に立った氷上山の妙見菩薩のお告げによってはじまる。弘幸が人を遣って探査させたところ、露頭銀が全山をおおい、きらきら輝いていたという。
 大内氏は自ら百済の琳聖(りんしょう)太子の末といい、本姓“多々良(たたら)氏”を名乗る。多々良は蹈鞴(たたら)であり、鈩(たたら)である。鉱山意識の豊かな渡来人が周辺にあまたいたと思わねばならず、同銀山の採鉱が大内氏の手ではじまったのは、理由のないことではないだろう。
・ ・それから三百年ばかりのちの大永六年(1526)にいたり、再び発見される。同銀山は足利直冬支配の一時期を経て、露頭銀はすべて掘り尽くされ、廃鉱のようになっていたのだろうが、ここでもまた、博多の富商神谷寿貞が沖を航行中、日本海の夕映えに輝く怪しい光の山を望見して再発見の道を開く、という伝説が伝わる。

幾つか「たたら」について紹介しているホームページがありましたので紹介します。

http://www.hitachi-metals.co.jp/index.html(日立金属)
http://www.tatara.net/kuroganekai/kuro.html(黒 鉄 会)
http://www.web-sanin.co.jp/local/yoshida/(吉田村)

とんちんかん小僧 - 2003/06/21(土) 12:42<

気持ちがつかめない・・

ここ2、3日マイカーの様子が変でした。
最初の二日が車に乗車するときに鍵を車に差し込んだところ、すべてのドアのロックが解除されずに鍵の差し込んだところしかロックが解除できませんでした。
そして、窓もロックがかかっていないのにもかかわらず開けることができませんでした。
「おい、開いてクレ〜!」と言いながらドア付近を殴ってみたんですけど、機嫌を損ねたらしくて相手にしちゃくれませんでしたが、三日目に元に戻りました。
その三日目は、朝出勤するときに音楽を聴きながら行くのですけど、聴いていて10分するかしないうちに急にスピーカーが「プチっ!」とか言ってスピーカーから音が消えてしまいました。でも、その日の17時過ぎには直りましたが原因不明です。


もしかしたら梅雨が関係しているのかな〜と思っています。それか、おちょくられているのかな〜とも思いました。今はまともになってくれてます。最近、車さんが快適に走ってもらえるようにゴマをするように(!?)しています。

ミミ - 2003/06/21(土) 12:11<

辛夷

辛夷の花のことで、思い出したことがあります。
子供の頃、8〜10歳頃だったと思いますが、遊び場だった山に、きれいに咲いている、匂いもいい白い花、それを手折って家に飾っていた所、母が、「この花は、家に飾るもんではない。」と、捨ててしまった。
なぜ、家の中に飾ってはいけないのか、理由は聞きませんでしたけど、飾ってはいけない花が、もう一つあったように記憶しています。
その時の感覚で、子供心に、「ああ、山のものは、家に飾ってはいけないんだな。」と、自分に納得させていました。
でも、不思議です。桔梗、女郎花、撫子、それは、家の中に入れてもよかったんですよねぇ。
雑木林がいっぱいで、自然の中で、遊べた、懐かしい時代でした。
今は、そこは、ゴルフ場、、、です。

こうへい - 2003/06/21(土) 10:03<

質屋の謎3

△うぶ さん、気が付かなかったですね。くすねた金の回収ですか。面白いですねー。
あれから、西部劇と比べてみたんですけど、あちらでは、銀行がありますね。
大西部鉄道カンパニーなんかに、投資して儲けるからかなー。
家も板を打ち付けただけだから、自分の家に現金をおくのは物騒だったんでしょうか?

日本では、金を預けるっていうのは、無かったみたいですが。金持ちの土蔵が盗賊に破られて、千両箱が盗まれますね。
番頭さん、お金おろして来ておくれ・・ていうのも聞かないし。
金貸しは、居ましたね。博打場にも、金貸しは付き物だし。
日本は、金貸しの文化ですか。 あさから、何をいってるんでしょうか(^o^)

△うぶ - 2003/06/21(土) 01:47<

髭じいさんのおめん

クリスマスの頃に吊下げてみて下さい。今度はきっと有難く拝見できます。ヤゾーさん。

△うぶ - 2003/06/21(土) 01:05<

話半分(でお願いします)

ゆり板についての説明は、こうへいさんにお任せするとして、
ダイヤモンド(金剛砂)の場合はグリースを、砂金の場合はビロードかフェルトだったかを
貼り付けると旨く採取出来るらしいです。
「鉱山に質屋」ですが、洋の東西を問わず、時代を問わず、物をクスメル奴が居るものでして、
口に含んだり、下の口に含めたりで持ち出す奴から回収するには、質屋が適当。買い取って
やって少し甘い汁吸わせておいて、傾城で現金も再回収、全部グル!、負けてない。
(下手に咎めようものなら暴動起きるでしょ?)
辛夷:「つらい」ですが「からい」とも。<ニギエビスとアラエビス>を思い出しました。
北を向いて咲くのなら、常に南を向いてる天子と対峙していますね。

こうへい - 2003/06/21(土) 01:01<

質屋の謎

はつせさん、こんばんわ。
金屋では、「おしまいな」って言ってたみたいです。
なるほど、西部劇で考えるとわかりやすいですね(^o^)
質屋は、元は銀行で、やがて、知らない旅人でも、質草を持っていけば、借りられるように、便利になった。もっと、なにか重要な役目があったのかと、ふと思ったので。
金がなくなった人には、とても重要な存在ではありますが・・・。

こうへい - 2003/06/21(土) 00:42<

ゆり板

砂金採りが、浅い皿に砂を乗せて、水中でゆすって、重い金と軽い砂を選り分けるっていうのがあるでしょう。あれの、横長の板のやつで、横から見ると弓形にくぼんでいて、やはり水中で、ゆすってパンニングする道具です。結構60センチくらいの幅があるみたいです。
ぼくは、ガーネットのパンニングに浅い皿を使いましたが、ゆり板が砂金選別によく使われるって言うのは、たくさん砂を乗せられるとか、要らない砂を捨てやすいとかの利点があるのでしょう。
ボクは、使ったことはありません。

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/20(金) 23:28<

RE:質屋の謎

こうへいさん、御晩です。「ゆり板」とはなんのことでしょうか?ご存じでしたらご教授下さい。質屋は多分、金融業者ではないでしょうか?西部劇を思い出しました。馬で町に入っていくと鍛冶屋、酒を売ってる雑貨屋、ホテル(売春宿付き)そしてよく襲われる銀行ですよね。教会は仏教ではないですけど・・・

ヤゾー - 2003/06/20(金) 22:07<

早とちりに物忘れ

みなさん こんばんわ

こうへいさん 銅剣ですが
学園を建てるときの造成工事の際に古墳の中から出てきたのかも知れません。
早池峰神楽の鍛冶屋の次に質屋という話しは面白いです。
釜中に質屋があったという話しと符合しますね。
続風土記に在田郡石垣荘釜中村に天一社ありと書かれてあるにもかかわらず
それが天日に変わっているのも不思議な話しです。

尾張の国知さん 早とちりしてすみません。
蜜柑さんにも ご迷惑をお掛けしたのかもしれません。
お詫びに最近聞いた話しを少し
サンカに魅せられたというお爺さんが
村々を廻り行商をしていたという人から聞いた話だそうです。
昭和二十年代の終りころまで
十津川の支流のあまり人目の付かない河原で
三角形のテントが幾つか並んだ瀬降り場をよく目撃したそうです。
そういう瀬降り場が 昭和二十年代の終りころまで
十津川支流には何ケ所かあったみたいです。
夏に渓流釣りと聞き取り調査を兼ねて
十津川支流巡りに行ってこようかと思ってます。

*(@・・@)*onglyさん コブシの写真を見せていただきました。
コブシって辛夷と書くんですね。
意味深な文字です。

今日 髭の生えたおじさんのお面が山小屋の途中の道に落ちていました。
最初 何が落ちているのか分らず クルマから下りて近くで見たら
ウワッ〜おじさんの顔が落ちていると そこそこ驚きました。
きっと台風の影響で 何処からか子供のおもちゃが飛んできたのだと思います。
そのまま捨てるにしのびず 拾って山小屋に持ち帰り
誰かが見たら さぞかし驚くことだろうと
悪戯心が芽生えて近くの木の枝に吊るしておきました。
そんなことはすっかり忘れてしまい
日が暮れてから山小屋の外に出たときに
木の枝に半分透き通ったおじさんの顔が浮んで見えたときに
うわわわわぁ〜と 腰を抜かさんばかりに驚きました。
自分で吊るしておいて こんなにも驚くなんて・・・\(>_<)/
物忘れにも程があります。

*(@・・@)*ongly <http://www7.ocn.ne.jp/~iyasi> - 2003/06/20(金) 21:27<

私も訂正です

 今日、所要で「久地」に行きました。場所確認で電話したら「くじ」と
いうではありませんか。昔郷土史家の質問では確か「くち」といってたよう
でしたが。「くち」なら出入り口でしょうが、「くじ」なら岩手県にもある
久慈と同じ?で別所の匂いがします。また機会あれば確かめておきます。
 別所特有の花とされるコブシ(辛夷)の写真を上のURLに無断で引用さ
せて頂いています。
  昔、千昌男(八切流では賎か?)の「北国の春」に出てくる、北国の春の
訪れを告げるシンボルが「こぶし」です。
北を向いて咲く辛夷はつらいエミシ・夷というふうにも読めますが。

こうへい - 2003/06/20(金) 18:09<

釜中調査隊 訂正とお詫び

「風の王国掲示板」等で、写真まで出してご紹介しました、天一神社(天目一箇神を祭る)ですが、写真の神社は、村人も合祀先の白岩丹生神社も、「天日神社」と呼んでいる神社です。
最初、村人が天日神社と呼んでいたのを、間違えたのだろうという勝手な思いこみから、紹介しました。訂正してお詫び申し上げます。

しかしながら、続風土記に、在田郡石垣荘釜中村に、天一社ありと書かれているのだけを頼りに、
天一社の痕跡を追い続けるつもりです。

こうへい - 2003/06/20(金) 17:06<

質屋の謎

文献調査で、失礼します。
奥州刀鍛冶師 「諷誦」(11世紀後半)を伝えると思われる早池峰神楽の中の「諷誦舞」。
早池峰山は、北上山地の一番高い山。
彼ら山伏が、千年位前に鉄山師、刀鍛冶として山間に入り、鉄、刀が作られなくなった後、子孫が、木地師となり、食えなくなって、先祖をしのぶ火伏せの神楽をもって村里に降り、通り神楽として収入を得る道を、見いだした?
早池峰神楽の「金掘り」と言う演目があり、金森善右衛門という男が登場して、
鉱脈からの採掘、唐臼、ゆり板と、金の精錬までの過程を狂言風に見せる。
長くなりましたが、その口上の始まり・・・
「ご当地の山には、金銀銅が埋もれてる事をお聞きしました。これを掘り出すには、大山祇の神を勧進つかまつり、四間四面のお堂を建て、質屋、酒屋、それに千軒の街を建てなくてはなりません。先ず一番先に鍛冶屋がなくてはなりません・・・」
ここで、質屋が出てきますが、なぜ鍛冶屋の次に質屋か?
それを言いたくて、長々と・・・。
昔の質屋は、今と役目が違っていたのでは?という疑問です。

尾張の国知 - 2003/06/20(金) 10:05<

6月13日のサンカのフミの正解発表

「蜜柑さん、こと武蔵のクズシリの、利田親分さん
ご結婚の式典より、一周年。おめでとう御座います。
(ヤゾウの)お身内の方々。(私達)交流のある地方の親分衆一同より、お祝い申し上げます。
奥様の姉御親分との絆も、いつまでも仲良くて、お幸せな事です。
箕作り仲間の、連絡係りからも、その様な情報が聞こえて着ています。
本当に、お幸せな事、お祝い申し上げます。」

この訳文は、岐阜県八幡町の渡辺靖さん(長良川のクズコヤゾウさんです)から、サイギョウのメールで戴いたものです。さすが、ハラコ・サンカの末裔と、感心しました。現在一冊しか見つかっていない、サンカの内部文書『現存者の声』の復刻資料本を、差し上げました。

ヤゾウさん。早とちりしましたね。!!!!!残念賞の、何かプレゼント考えます。

こうへい - 2003/06/19(木) 20:42<

六地蔵

今日、岸和田の山中、大きな家の多い村で、高い畑の端に地蔵さんが六つ、きれいに並んでいました。六地蔵なのかな?
でも、その下、道路端に同じような地蔵さんが、一つ立っていました。
その手前の村でも、地蔵さんが六つ並んでいました。

こうへい - 2003/06/19(木) 20:30<

どこから?

ヤゾーさん、
>そういえば その辺りから銅剣が出土したとの話しを聞いたような気がします。
どのあたりですかー?

今日、サヌカイト原石採取で、久しぶりに二上山を見ました。

一緒に行ったトモダチに聞きましたが、中央構造線の上には、ずっと竹藪が続いてるそうです。
岩石の破砕された上には、竹しか育たないからだそうです。
どこかの金山の周りは、岩石の破砕されたのが多いので、竹藪が多いそうです。
多田郷本渡村の真ん中に位置する里山は、周囲に竹藪がとても多いです。

それから、寺の檀家って、キリシタンの弾圧後、出来たそうです。改宗後の、元キリシタンをどこかの寺の檀家にして、一人一人記帳されてるそうです。今の戸籍みたいなもので、寺の過去帳も
それが、目的だったそうで、豊後高田には、寺数が多くて、キリシタン大名が居たところなので、
改宗用の寺が沢山要ったからだそうです。
昔、奄美大島のトモダチの家に泊まった時に見ましたが、外観は仏壇ですが、中にはマリア像がありました。

ヤゾ− - 2003/06/18(水) 18:25<

▼・ェ・▼

みなさん こんばんわん ▼・ェ・▼
少し用事で留守してました。

こうへいさん そういえば その辺りから銅剣が出土したとの
話しを聞いたような気がします。
また南麓の有田川沿いの山からは銅鐸が出土しているみたいです。

Donglyさん 野史研究会の案内 ありがとうございます。
今 こちらで参加希望者を募っていますので
参加者が集まればご連絡させて頂きます。

蜜柑さん 映像のプロに写真を誉めて頂き恐縮しています。
デジカメは夜の撮影に強いみたいです。
手持ちでも 1/8くらいまでは大丈夫みたいです。(少しはブレますが) 
それと 尾張の国知さんの投稿を少し早とちりしたみたいで
後でよく読み返してみたら どこにも子供の事が書いてなくて
おりょうさんにお願いして訳して貰っても結婚一周年のお祝の言葉でした。
早く ガンバッテ お子さんを作って下さい。

瀬降り物語のサントラ盤 
映画に中で使われていない
ショーケンのボーカルのも入っていて最高です。

こうへい - 2003/06/18(水) 11:11<

六地蔵

*(*..*):*ngly さん、おはようございます。
釜中の元質屋さんの、ずっと上に、番地があって地名?が無いところがあって、六地蔵があったから、サンマイだろうと質屋さんが言ってました。(この前かきました)
質屋さんは、国勢調査(とは、言わなかったけど、そのようなものといってました)に立ち会ってるので、もっとなにか情報が聞けるかも知れません。湯浅から、時々、農業に登って来るので。
六地蔵にそういう歴史があるんですね。
ありがとうございました。

*(*..*):*ngly - 2003/06/18(水) 10:00<

エミシの流れ

こうへいさん
 仕事の合間に書いていますので、うろ覚えばかりで
間違ってたらお詫びします。確かな事は7月野史研究会に
お出掛けください、多分びっくりするようなことばかり
でしょう。
 六に関連して。中世期京都の六か七つの口(出入り口)
の番人を六地蔵党の者といい、俘囚⇒別所の者の流と菊地
は考察しています。六地蔵を置いて番人の印としたようで
す。六地蔵を置いてた地は昔、別所か院内だった可能性が
でてきます。ただし六個の地蔵をそれらの仲間が一個づつ
分散して祀っている場合があるからやっかいです。語源は
サンカ語の六字の名号「南無阿弥陀仏」と同じ。本質が
同じとて六地蔵は墓場や焼き場の番人になりました。
 「六字の」仲間を獲得するために「南無妙法蓮華経」と
殴りこみをかけたのは、今日の新興宗教に共通しています。

蜜柑 - 2003/06/18(水) 02:32<

情報

1 尾張のクズシリ様。精力的なサンカ調査頭が下がります。民俗学調査にはフィールドワークは必須なのに、文献調査ばかりで偉そうなことを言っている人は見習いなさい。と言いたいです。

1 と、言いながら、文献調査のお願い。
昭和40年頃に、「兎月書房」という出版社から「山刃」というサンカ漫画が出たらしいのですが、心当たりあるかたいますか?これの、続編にあたる「疾風・山窩奇談」という漫画が上野の「国際こども図書館」にあって、読んで、あまりの馬鹿馬鹿しさに苦笑した次第です。

1 青木さん。作曲者は井上尭之です。ショーケンの友達です。入手するのに5年くらいかかりました。なにぶん貴重品ゆえ、CDに焼いてあります。今度プレゼントします。

ナイスタイミング - 2003/06/17(火) 23:42<

多分違うと思いますが・・・

》なんかこちらの投稿がナイスタイミングだったみたいですね。

△うぶさん、こんにちは。ホントそう思いました。

山がつの路、ということでガツロっていうのは・・・どうでしょうかっ(^^;)

あおき - 2003/06/17(火) 21:26<

うーん瀬降リ物語のサントラ

 そんなものがあったなんて 作曲者は誰ですか
何枚売れたのかな そんなマニアックなレコード CDにもならないでしょうね
そういえばそろそろ1年たちますね 蜜柑さんほんやら洞オフ会
やりますかそろそろ

こうへい - 2003/06/17(火) 11:26<

むつ

*(*..*):*ngly さん、ありがとうございます。
蝦夷から来た人が、故郷を偲んで、村名に隠して付けたのかと思いましたが、俘囚の民が村名の名付けにかかわれる筈もなく、上六川が監視場だとしたら、よけい可能性ないですね。
六を、そう感じたのは、単なる読みの響きからかも知れません。

*(*..*):*ngly - 2003/06/17(火) 10:48<

「むつ」かしい

こうへいさん
>カミムツガワのむつ
 陸奥との関係はわかりません。一般には東京の六本木と同じです。
久留米ラーメンが一番美味いのは久留米市の六門です。西町や小頭
公園が近くにあります。京浜急行にも六浦という駅があったように
記憶しています。東京では隣が青山だからと言って六本木を獄門木
の訛りとする説は正しくありません。寄席で「暮れ六つの鐘がゴ〜
ンと・・・」と語ると今までざわついてた客席がシ〜ンとなったそ
うです。
 焼場や墓場に多い六地蔵も、争いの元となった田を論田という理
由も関係しているようです。民俗学では論争した田から、論田とご
まかしています。 引用『野史呼び名辞典』

NON - 2003/06/17(火) 10:13<

Re: Re: 私的なこと

暖かい言葉をありがとうございました。
突然同時進行で,家と男と料理人(私よりずっと腕が上だった…)
を同時に手にすることになってしまいましたので,自らの驚きと共に,
報告は困難を極めました。

私の遊び場にも影響するし…,えいっ! てあちこちに報告をしてしまいました。

ヨーガ者としては,人類皆兄弟どころか,根っこがつながっていて…あなたと私は一つで
…そのうち区別がなくなり…ということを 願望としては持っていて…

少しずつ,私的も公的もだんだんとあいまいになってはきていまして…

お騒がせいたしました。皆様。

こうへい - 2003/06/17(火) 09:59<

カミムツガワ

六川のムツって、陸奥と関係があるのかなーって、ふと思いました。六って数字、なんかの意味がありそうな感じがします。

子供の頃、食べたケンポンっていうのが、長い間なんやったんやろと考えていました。
学校に通う道の川のそばに、一本だけありました
木の枝の先が柔らかく食べられたのですが、突然、分かりました。
ケンポ梨って言うそうで、うちの方から、金屋の西ヶ峰の村に遊びに行ったら、おみやげに買って来たそうです。西ヶ峰の名産なのかなー。

蜜柑 - 2003/06/17(火) 04:12<

感想

ヤゾー写真上達しましたね。
手持ちで、シャッタースピード60分の1くらいですか?

△うぶ - 2003/06/17(火) 02:27<
お二人さん、早速レス有難う御座います。
どうも矢張り「ガ」は岩か鉄、刃物かも知れませんね、何か硬い物を想像させます。
津呂は、或る適当な範囲の地域の状況を形容する形容詞が地名に変化した気がします。
既に両手挙げて降参しました。暫く考えさせて下さい。(考えているだけではダメかも)

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/17(火) 02:00<

がつろ

私なりの推測でしかないですが、韓国の映画で「カル(刃)」という最近の映画をご存じですか?古くは「ガル」「ガッ」と読んだようです(李 寧煕説)。「記紀」の「軽(カル)の皇子」というのは「双子」あるいは「刃」の王子(鉄持ち)という意味だった可能性があります。やはり剣に関係ある地名では?

こうへい - 2003/06/17(火) 01:10<

ガツロ

△うぶ さん、ご苦労さんです。
津呂ですか、「蓑津呂」って、何と読むのでしょう、調べてみます。
ガは、岩(がん)だったら面白いのに。岩津呂がガツロになった・・津呂が当て字だと難しいですね。
林の中の、小石を山盛りに積んだのを、村の一人は、塚と呼んでいます。
植林の時、邪魔な石を集めて積んだのなら、そう呼ばないと思うんですが。

△うぶ - 2003/06/17(火) 00:10<

ガツロ、その後

しつこいですが、「ガツロ」を考えて、前述とは別の可能性に行き当たりました。
釜中より北東方に「蓑津呂」と言う地名があります。ツロはこの津呂ではないかと考えています。
全国的には津風呂湖(奈良)、下津野(和歌山)、高知県に津呂地名がたっぷり有り、清水市や
氷見市、伊豆にも存在し、、、、海沿いで漁業関係地に多いみたいです。しかし
<津呂>が一体何を意味するのかは判りませんでした。

はつせ - 2003/06/16(月) 20:26<

ここのつ、とお

私も普通の日本語だと思ってました。高句麗系のルーツの言葉と聞いたことがあります。

こうへい - 2003/06/16(月) 20:18<

ひー、ふー、みー

*(@..@)*ongly さん、具体的なお話が残っていて、いいですね。
ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー・・・って、うちの方では、普通に使ってますよ。

*(@..@)*ongly - 2003/06/16(月) 13:53<

かじ屋とサンカ

 10年位前にたまに買い物にいく金物屋さんの奥に
炉と送風機がありました。主人に聞くと彼の親は鍛冶屋
で十人位弟子がいたそうで、頭のよいものでないと仕事
にならないとかで弟子は一人も残らなかったそうです。
 私の母方の祖父の実家は山のまたその奥にあり、近くの
沢にはタタラの屑(鉄滓)があったと声をひそめて話をし
てくれたことがあります。親戚とも兄貴分とも分からない
隣家には鍛冶屋文書があり昔は道具もあったそうです。
 祖先は野鍛冶のような気がします。
 祖父は明治頃隣村(今は町)の長田からきた「チョンダ
族」と思えますが、正月には沢奥の山上にある黄幡池そば
のオウバン様(祠)に餅を供えてたと聞いてびっくり。
苗字は百済系ですが、カヤ族でもないのから職業神として
オウバンを祭ったのでしょう。正月にお祭りをし餅を供え
てたならサンカ系の鍛冶ではありませんか。そういえば1
・2・3・4・をひー・ふー・みーと数えていましたから
矢切止夫よればひふみ思想の持ち主だったかもしれません。
 箕つくりと同一人物が六部の格好でも来たそうですが
どういうものかサンカを嫌ったそうです。
 生きてるときにもっと聞いておけばよかった。

はつせ - 2003/06/16(月) 01:15<

地名

*(-..-)*ongly さん、こうへいさん、御ばんです。「かなし」とは何と悲しい名前ですね。多田神社も全国にありますね。東京中野のうちの近くにもあります。私は古事記を著した太安万侶の「おふ」氏の関係かと思ってました。

△うぶ - 2003/06/16(月) 01:07<

ショート三連発

ヤゾーさん>有りますねー、旦来ですか、象形文字ですなあ、日の出も辺路も藤も富士山も全部
        それですたい(詳しくは後日)。
こうへいさん>湯浅の(湯)の字が製鉄関連だったこと思い出しました、さもありなん。
*(-..-)*ongly さん>うちの近所辺りでは「めかちん」言います。

*(@..@)*ngly <http://www7.ocn.ne.jp/~iyasi> - 2003/06/15(日) 22:38<

野史研究会のお知らせ

ヤゾーさん失礼します
 来る7月19日〜21日兵庫県で野史研究会現地案内会を
実施します。宿舎は明日予約する予定です。
 20日は大河内町の別所を案内
 21日は生野銀山かまたは千種町鷹巣別所の案内
 現地ガイド:進藤栄さん(野史研究会)
 二泊三日の予定(一泊二日でも構いません)
 宿泊費一泊4000円予定(食事別)、参加費3000円
です。人数が不確定の上に、予約しないと行けないので
ロッジを借りる予定です(男女は別にします)。
 岡山作東町ではサンカ地名を訪れましたが、今回は
カイト地名(別所)がテーマです。
 大河内町も宿もJR播但線沿線(姫路乗り換え)に
なります。いつものように夜に大いに盛り上がります。
募集人員は10名程度とさせていただきます。
詳細が決まり次第上のURLに示します。
 問い合わせ&申し込み先
 hi2001@hyper.ocn.ne.jp(仮事務局です)

こうへい - 2003/06/15(日) 12:39<

地名

*(-..-)*ongly さん、はつせさん、おはようございます。・・もう昼ですね(^o^)
地名に色んな意味があるんですね。比丘尼橋なんて昔、尼寺でもあったのかと思っていました。
多田郷本渡村、ますます可能性出てきました。
地名の当て字、今でもどんどん出来ていますから、ますますややこしくなりますね。

*(-..-)*ongly - 2003/06/15(日) 10:37<

鉄と女

はつせさん・こうへいさん
 古代には鍛師(かぬち)。この流れが【間子:めっこ】とされます。別の
【鐘打ち】【鉦打ち】は宗教・芸能系統です。もうひとつは広島でファミコ
ンばかりやってる子供に言う「めがんち」(一つ目や目が不自由になる)
になるぞ、という脅かし言葉があります。この系統には一つ目小僧伝承です。
 材料採取作業者は【流子】、製鉄精錬(タタラ)作業者は【かなし】【痛足】
、蚊無の地名があると蚊がいない土地と錯覚しますが、蚊の多い地。このような
地では片葉・片足伝説が多いようです。片足のように身体障害者をカタワと呼ん
いました。蚊無地名の近くに印内地名があり祈祷師がいましたが、彼らが金属製
品の行商ににかんでいたようです。
猿飼もまたどうやら金属の営業に関係していたと見られますが証拠は未発見
です(これらのことは本にはないと思われますがあったらご教示下さい)。
 芋は鋳物の当字です。芋地名は賤民地名が多く被差別地だったようです。
現在でも古刀を芋と一緒ににてさび落して刀の値段をつりあげるようです。
 鉱山のように男共が多く集まる所は、魚、酒と×●×が不可欠ですから神社
や比丘尼や御子所在地があります。比丘尼岳という地名が九州にあります。
岳は「だけ」でもちろんONLYという意味でしょう。佐渡では柄杓地名です。
したがって昔の鉱山を探すにはこのような女地名に着眼すると思います。

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/15(日) 01:34<

もうひとつの要素

「かぬち」という言葉があります。「鍛冶屋」という意味だと思いますが、鋳物師は鉄作りで言うと最終製品段階です。かぬちは出来た鉄を次製品にする仕事でしょう。痴呆に依っては「がっち」と変異しているようです。これと関係のある事柄はありませんか?炭は鉄作りだけでなく中世以降は生活必需品ですから、長者伝説も注意深く選ぶ必要があるかも知れません。また、尾張方面では鉄作り関係で「高師小僧」という謎の言葉があると聞きます。どなたかご存じなら教えて下さい。

こうへい - 2003/06/14(土) 23:48<

芋=鋳物

とんちゃん、芋のつく地名は、鋳物やたたらに関係あるそうですね。
鉱滓が、広範囲に積もってる所もあるそうです。金くそっていう地名も、鉄のかたまりや、鋳物の
余った鉄が地中から出るそうです。
上六川の東隣の西ヶ峰には、金くそ、芋の岡って小字があって、行ってないけど、面白そうです。

とんちんかん小僧 - 2003/06/14(土) 22:02<

金堀衆の発生(3)

ほとんど、各地の炭焼き長者譚に変わりない。地名起源と仏教普及にかかわるものである。
『石川県史』の編者・日置謙は、つぎのようにいっている。
「かくの如く各地多少の差違あれども、炭と採鉱とは、ともに山地に関係あるものにして、これらの業に従う者が、世事に迂遠なるにより、この伝統を生じたるものの如く、かつ冶工を鋳物師(いもじ)というがゆえに、炭焼長者は一転して芋掘り長者となり、とくに金山沢・金沼・金沢等と称する土地にありて、巧みに説明伝説として利用せらるるに至りしなり」
 芋は鋳物師の転化だろうという。炭はまた、鉱物をあつかう山地の民−採鉱師(やまし)と考えることができる。
 かれらはたぶん、いくぶんの敬意と畏れと、そしていくぶんの蔑視とをもって眺められていたかもわからない。が、金・銀・銅などを生み出す不思議な技術をもっていた。

(引用文献:前二回分、今回の分ともに戸部新十郎著『戦国の異能人』より抜粋しました)

こうへいさんの釜中調査でのタタラとの関連の話がとにかく僕にとって衝撃的なことだったので、少しそれに近い話が無いかなと探していたら、この本に再び出会いました。
それで、タタラに関係深いお話が掲載されている個所を見つけたので紹介しようと思いましたので今回書いてみました。まだ、ありますので何回かに分けてご紹介したいと思っています。*(-..-)*onglyさんの言った通り、鋳物師=芋掘り長者だったことには、かなり驚きが隠せませんでした。やっぱ*(-..-)*onglyさんは鋭い目の持ち主だ。野史探訪会には、都合が合えば是非サンカしたいなと改めて思いました。

こうへい - 2003/06/14(土) 13:40<

天石神社 おまけ

鎮座に時期、不詳。
寛永21年(1644年)再建の棟札があるので、それ以前からあった。
亨保8年(1723年)、お社が大破して、那賀郡野上荘冷水村(海南市冷水)の原右衛門から、
古宮を、銀二貫一七〇目で買って、移建した・・となってます。
今の、お社は、もと海南にあったものですね。

こうへい - 2003/06/14(土) 12:57<

赤い糸

NON さん、うれしいお話ありがとうございます。
和歌山の寅さん的人生の歴史を持つボクとしては、拍手を送りたい。
思うように生きて行くには、失うものも多いですが、得るものも多いです。得るものは、輝いていますね。

ヤゾーさん、多田郷本渡村の大山に、タタラの痕跡があるかも知れません。
タタラって、もののけみたいな大がかりなものを想像しますが、家一軒くらいの場所でやってた所もあったみたいですね。
鎮守の森みたいな場所を探して回りましたが、まだ、見つかりません。
釜中みたいに、宅地造成のないところは、昔の姿が残ってる可能性がありますが、平野部では、難しいですね。
智弁学園の建ってる丘は、山崎山古墳のあった所で、いくつかの古墳が、あったと聞いています。
ちかくに、比丘尼(びくに)橋って橋があります。
且来(あっそ)って所も離れてますが、海南にあります。

ヤゾ− - 2003/06/14(土) 11:06<

U・ェ・U ワンだfull

みなさん こんにちわん U・ェ・U

尾張の国知さん お久しぶりでした。
結婚式から一年目で蜜柑さんにお子さんができたとは目出度いです。
蜜柑さんガンバリましたね。(ぼくもガンバリたい!)
石川県のサンカの調査 ご苦労様でした。
九州出身の祖母が同じ87歳で 旧姓が鶴田なので なにか親しみを感じます。
世間師の中の・ショケンシ・鶴田さんのお話し とても楽しみです。

△うぶさん アッソという地名には 旦来と書くものもあります。
朝来も旦来も 原住民系が封じ込まれたような土地の感じがします。
また そういう雰囲気が今も残っている土地でもあります。

こうへいさん 多田という地名は タタラと深く関係した地名のようです。
地名学者の説では タタラの縮小語ではないかとの意見もあるみたいです。
また 弾左衛門の故郷が中世の摂津の多田庄だと言われ
多田源氏が富を築いたところとされ 
三輪神社の大物主が 神の子であると告げたと言う
オオタタネコとも関係の深い地名のようです。
その旧地名 多田郷本渡村というところに かつてタタラの神を祭る天一社があり
そこが被差別部落だとされていたというのは興味深い話しだと思います。

※風の王国掲示板の天石社の写真見せて頂きました。
 千木の形が出雲神社等と同じ 原住民系とされるものでしたね。
 小さい方の箕もバッテン模様がありましたが
 紀伊半島で見る箕の殆どにバッテン模様がありました。
 ある方がハヤト系の箕の編み方ではないかとも仰っていました。

NONさん とても素敵なお話ですね。
人生 まだまだこれからだと
なんだかこちらまで勇気というか元気が出てきました。
シゲトンおじさんに対するお惚気も最高でした。
幸せな生活をお祈りしています。

NON <http://www.cty8.com/yoka/index.htm> - 2003/06/14(土) 10:46<

私的なこと

このたび68才のシゲトンおじさんと共に生きていくことになりました。ついでに言うと私は54才。
月に2日のお店をやっており,おじさんは,ここの優秀なお料理の担当者となってしまいました。5月と6月の二回,すでにこなしました。おじさんは10年前に奥さんを亡くした後,悲しみから立ち上がって,定年退職後は無農薬農業や山菜の研究,それらのお料理に情熱を持って励んできました。お酒たばこをやらず,若い時からのテニスを週に二回,真面目で健康そのものです。また美しい自宅を開放し,遊び場に提供しておりました。そちらを急にはやめられませんが,この4月から本拠地をおばさんの自宅のほうに移してくれることになり,二人はとっても幸せに過ごしております。

私は自分のやりたい生活の為に20年連れ添った夫や子供達と別れ,ヨーガやはじめての農業に七転八倒して取り組んで生きてきました。子供達とは行き来がありますが,米やおもちも送っています。元夫とは付き合いがありませんでした。勝手なことをしたとずっと怒っていましたので。ようやく去年の暮れに今の生活を感謝していること,申し訳なかったことを手紙で心からおわびしました。農業ほど見えないものに感動や感謝の気持ちを呼び覚ますものはないと思いました。周りに犠牲を強いて今の生活があることをどうしても一度お詫びしなければいけないと思ったのです。元夫からは山ほどの非難の言葉が返ってきましたが,このやりとりで自分の性格上の問題点を直視することもできました。

そして別れて5年後にこのような出会いがあろうとは夢にも思いませんでした。気持ちの通う二人が50才を過ぎて出会えることは稀有なことであります。シゲトンの両親は共に90才台でなくなったそうで,もう一人看取ることになるのではないかと恐れていますが,私は一人も二人も同じと澄ましています。前がリハーサル,今度は本番とも。
遊び場にも是非お越しください。↓
http://www.cty8.com/yoka/index.htm

尚,今の村は猟師の末裔の村だそうです。公民館の額に,山家のものというちょっと判読困難な経歴が掲げてあります。今度時間前に行って書いてきますね。村民になっていきなりヨーガの講師を頼まれました。←おおらかというか。第二水曜日の夜にはじまりました。

こうへい - 2003/06/14(土) 01:24<
△うぶ さん、
>葛が沢山生えていた壁面だったか、長い斜面の壁面(ながつら)だったのかも
これは、おもしろいですねー。がつらですか?こんど、多くの人に聞いて回ります。

こうへい - 2003/06/14(土) 01:13<

朝日長者伝説

ヤゾーさん、中尊寺と毛越寺の間の金鶏山には、「朝日さし夕日輝くその下に、ウルシ万杯、黄金おくおく」という伝説があり、この伝説のあるところ殆どすべてに金山(鉄山)があったとみてよい・・と「鉄と俘囚の古代史」に書かれています。

ヤゾーさんが調べてくれと言ってた天一社のあった多田郷本渡村で、天一社を捜していました。
たまたま、じいさんに会ったので、宅地造成で、山から鉄のかたまりとか出た話ないですか?
と聞いたら、そんな話聞かないが、昔、うちのじいさんが、こんな言い伝えがあると教えてくれた・「朝日さし夕日輝くその下に、黄金千両、朱百貫」
その山は、智弁学園の西の大山(おおやま)だと聞いてる。捜しに行ったことはないが・・・。
その時は、笑って聞き流したけど。朱って、一朱、二朱の朱って聞いたけど、水銀かな?
めんめ書きで失礼。

とんちんかん小僧 - 2003/06/14(土) 00:59<

金堀衆の発生(2)

 以下は、”金沢“という地名起源に登場する加賀の芋掘り籐五郎の話である。
 山科村に芋を掘り出しては商う籐五郎という者がいた。加賀介藤原吉信(富樫氏)係累で、無欲恬淡(てんたん)な人柄だった。
 おりから大和長谷の里に、生玉右近という長者がいたが、長谷観音のお告げにより、娘和五(わご)を籐五郎のもとへ嫁入らせた。莫大な持参金があったが、無欲な籐五郎はたちまち近在の人に分け与えてしまった。右近は案じて、砂金を幾袋も送ってきた。
 籐五郎はさして貴重なものと思わず、飛んできた鳥を落すために、金の袋を石ころ代わりに投げつけた。和五があきれてなじると、
「かかるものは、わが芋を掘るの地に多し。なんぞ惜しまん。持ち帰りて与えん」
といい、言葉通り砂金をもってきた。かれが芋を洗い、砂金を採った沢は”金洗沢“と称され、それが金沢の地名の起こりになった。
 またあるとき、山から黄・白・黒の三頭の子牛が現れた。よく見ると、それらは金・銀・銅の塊りだった。籐五郎はその地金で、弥陀・薬師・観音の三像を鋳た。それぞれ、現在金沢の寺院の本尊になっている、と。


*(-..-)*onglyさん
鋳物関連の有力者ですとは、断言できるほど僕は調べていないので何も判りませんけど長者というほどですから、鋳物に対して極めて秀でた者なのでしょうね。少しでも自分なりに答えを出せるように努めてみます。

△うぶ - 2003/06/14(土) 00:08<
ナイスタイミングさん
なんかこちらの投稿がナイスタイミングだったみたいですね。
栃木にも阿蘇は有り得ると思いますが、葛地名はちょっと意外でした。
葛は石灰などのアルカリ土壌に適するのかなあ?水も綺麗なはずですので
今は蛍の乱舞でしょう。
朝来+山=朝来山→あっそさん→阿蘇山、は今日昼間に気が着きました。
こうへいさん
葛が沢山生えていた壁面だったか、長い斜面の壁面(ながつら)だったのかも
知れません。ガタローは少々無理があると思いますが?口承変化するなら
やはり(ガツラ)が先ではないでしょうか?葛まで続くかどうかは別として。

とおりすがり - 2003/06/13(金) 17:18<

ここの方々は御承知でしょうが

明石書店「江戸の下層社会」を読むと
「虐げられた人々=貧しい」と言う先入観が見事に覆されます。
案外中世以前も
「別所のもの」は税を搾取される良民より、はるかに豊かで自由だったのかも知れませんね。

尾張の国知 - 2003/06/13(金) 11:49<

石川県のサンカの調査へ行ってきました

皆様、大変ご無沙汰しております。
ア。・・・そうそう。蜜柑さん、こと、武蔵のクズシリ・利田ヤゾウ。

  チュウズキノコトホギノカミマワリ、イズモウ。ハラカラノヤカラ、ウカラノカミヨリ、ツドエテコト
  ホギモウシマス。キャハンアンネヤゾウノツナギ、イヤサカノヤナギムシ、ヤナギムシ。オタカラノサ  イギョウスズメヨリ、シラセキクラゲイリマシタ。ヤナギムシ、イズモウ〜〜。

6月5日〜10日まで、石川県のサンカの調査に行ってきました。小松市の安宅の近くで、鶴田さんという
、もと回遊型竹細工師のヤゾウさんにお会いできました。87歳になっておみえです。なんと、石垣島から
北海道まで行商しながら、時には遊びで旅をした事のある人でした。まさに、世間師の中の・ショケンシ・
です。また『歴史民俗学』に論稿をのせます。

  サンカの上のフミを、市井言葉にどなたか訳してください。ほぼ、正解の方に、サンカ関係の資料差し  上げます。

*(-..-)*ongly - 2003/06/13(金) 10:32<

浅も早から別所

とんちんかん小僧さん
>芋堀長者
鋳物関連の有力者か。鋳物地→いもんじ。鋳物免?→芋面、顔が
凸凹で鋳物に関連してる専業地、と解釈してます。鋳師田→石田と
する説もあり。確かな事は石田姓、関ヶ原で負けた大名です。
ナイスタイミングさん
>「石の町なんですよ」栃木県安蘇(あそ)郡葛生(くずう)町。
>江戸時代からの石灰の産地。
 やっぱり、ですか。呼び名に【あそ】あり。阿蘇も阿曽も、朝も浅生
も安佐も厚狭も石灰関連の別所か?自民党麻生セメント君ごめんね。
葛は屑の疑い、春日はワープロで滓が、糟が、粕がと変換できます。
外れ籤をカスともスカともいいます。東北弁ではスガか?
石灰は鉄に不可欠で、江戸期以前から採掘してるはずです。
ミミさん ありがとうございます
>来月の別所探訪会には、会員ではないおばば様でも参加できますか?
 案内人は野史調査のべテランおばちゃん(九の一)二人です。
もちろん頭が白い者、頭の輝く者や頭の黒い者もいます。大歓迎します。

ナイスタイミング <http://www2s.biglobe.ne.jp/~kkoyama/list/list09.html> - 2003/06/13(金) 09:24<

葛生の洞窟

白岩、猿岩、タカノス沢などの地名があるようです。

ナイスタイミング <http://www.sunfield.ne.jp/~kuzuusyo/rekishi.htm> - 2003/06/13(金) 09:13<
△うぶさんの
がつろ→がつら→かつら=葛=くず=国栖
を拝見して、葛というと今週仕事で行った所の一字と一致する・・と思いました。

この前行った所は栃木県安蘇(あそ)郡葛生(くずう)町という所です。

江戸時代からの石灰の産地で、訪問先の方は「石の町なんですよ」と
おっしゃっていました。
八坂神社、鹿島神社、浅間神社があります。(地図作ったので知ってる)

浅間神社祭礼では神楽が奉納され平方(素面の舞)、猿田彦の舞、岩戸、
恵比寿様、山神などがあるようです。

石灰の切り出しの粉なのか白っぽい空気が漂っていました。
化石の出土数、洞窟の数が非常に多いところです。

また来週行く予定です。

ミミ - 2003/06/13(金) 09:12<

地名と神社名が気になる日々

このところ、どこに行っても、車で走っていても気になって気になってしようがありません。
この間も、見つけました!〔別所〕の文字。バス停でした。思わず、わおーっ、って言っちゃいました。そして、また別の所では〔天日神社〕。  カーナビで走っていたのでメモしなかったため細かい場所の記憶がありません。自分の住んでいるところに関しては、これからです。
*(@..@)*nglyさん、来月の別所探訪会には、会員ではないおばば様でも参加できますか?

こうへい - 2003/06/13(金) 09:09<
がたろ(河童)って言うのもあります。でも、がつろより、がたろのほうが言いやすい。
がらんど(空洞)昔、洞窟だったのか?ガツローさんが、住んでたのか?

△うぶ - 2003/06/13(金) 03:00<

ガツロ、、、ひょっとして?

この二日ほど、「ガツロ」とは何なのかを妄想していましたが光明が差しました、誤解かも知れない
ですが。
がつろ→がつら→かつら=葛=くず=国栖(→栗栖まで到達)。
紀伊半島ですので可能性有ると思います。超原住系ですね。
地元で聞いてみて下さい、大昔の呼び名が形を変えて残っているのかも知れません。
アイヌ語系とも邪推、、、、、。言語不得手ですので誰かにHELPですが、、、
津軽の方言の中に、(むがつら)=顔、恐い顔、ともありました。
更に、かつら→かつうら(=勝浦)まで言えるかな?
もう一つの可能性:長面(ながつら)→がつら
円羽と丹波もミステリーですね、おもしろそう!。丹波とか丹生は忌み語なのかなあ?

ヤゾーさん
「朝来」を<あっそ>と言う。は<あの(さん)>や<あー>で太陽関連ですね。これも
超大昔みたいですね?朝来奥に「鮎川温泉」とやらが有りますが、<あいが温泉>と
発音するなら、これもそれでしょう。

とんちんかん小僧 - 2003/06/13(金) 00:48<

金堀衆の発生(1)

 技術集団としての金堀衆はあったが、その発生はどうかといえば不詳らしいが・・
 古く陸奥に黄金を産したのは事実で、「あづまなる、みちのくやまに、こかねはなさく」の古歌にも見られるところだ。都を往来した黄金商人もいた。
 義経(牛若丸)を案内して奥州路へ下った金売り吉次が有名だが、その親は、陸前の“炭焼籐太”という人物であったという。じつのところ、これは柳田国男の『炭焼長者譚』の一つにすぎない。
 じっさい、“炭焼き”あるいは“芋掘り”を冠する籐太、籐五郎、小五郎、喜籐次などといった人物伝説がいたるところにある。かれらはなぜか、都の公卿や富者の娘を嫁に貰い、豪奢に暮す。


釜中には、直接関係ないですけど、"タタラ"につながり深いお話しです。

こうへい - 2003/06/13(金) 00:18<

写真

天石神社と、上六川の民家、神社で見つけた箕の写真、風の王国 掲示板にアップしました。

こうへい - 2003/06/12(木) 23:01<
*(@..@)*ngly さん、鷲ヶ峰の山城の伝承は、ないですね。
鏡石山の555Mより高いけど。生石ヶ峰の870Mより低いけど。
この、三つとも、山城の伝承ありませんね。
鳥屋城山に石垣城、後の外山城・鳥屋城(とやじょう)とも言う、今は、こっちが有名。
ほかにも、山城がいくつかあるのに。

*(@..@)*ngly <http://www7.ocn.ne.jp/~iyasi> - 2003/06/12(木) 21:21<

鷲ヶ峰も別所か?

こうへいさん釜中調査隊おつかれさまです
>鷲ヶ峰の頂上は風力発電の基地になって
 そうですか通信用のアンテナなどがあり眺望の良いる山は
古代別所に関連した山かもしれません。特に中世山城の場合
はなお疑いが増します。多分警備所や、狼煙でなく鏡を使っ
た連絡所と予想しています。前回ご紹介の鷹巣もそうです。
鷹巣山などは山としての固有な特徴があるようです。歴史伝
承や口碑を求めても失われたりしているので困っています。
鷹巣が別所であることは野史研究1号(10年前)や昨年の
『歴史読本』にあるようです。野史研究6号は鷹巣地名の別
所的要素を追及した調査報告がのっています。
 7月19日からは兵庫県大河内町(姫路市北方)で別所の探訪
会を行います。地元のベテランがご案内します。現在この地方
での宿所を探しています、ご存知の方はご教示下さい。
 

こうへい - 2003/06/12(木) 15:56<

釜中調査隊

*(@。。@)*ngly さん、いつもありがとうございます。
真実は、一般人には、わかりにくい所にあるんですね。
気をとりなおして、釜中調査隊ですが、「がつろ」は、天日神社のある小字上谷(かみだに)の西の端、吉備町との境にある鷲ヶ峰の頂上までの斜面です。鷲ヶ峰の頂上は、観光コスモス畑と、吉備町営の風力発電の基地になって、開けています。2日程まえ、トンちゃん等と登りましたが、がつろ登り切ったら、コスモス畑のトイレの裏で、変な所から出てきたので、10人くらい種まき準備していた人が、一斉にびっくりしていました。
鷲ヶ峰の頂上が、586メートルですから、がつろの頂上もそれくらい。
上谷で、2〜300メートル位ですか。
行って見たかった白岩の小字は、東急のゴルフ場になってます。痛い!
怪しげな、蒸炉火(むしろび)って言うところ、まだ残ってるのかなー?
上六川のてっぺん、小字2つくらいも、海南高原ゴルフ場になって消えています。

天石神社が上六川でも下の方にありましたが、上六川も急峻な村で、坂を大分登って、集落につきましたが、曲がりくねった道の下に、家の屋根を見下ろせて、その家の道の下に、下の家の屋根が見える。道が無ければ、上の家と下の家の間は、垂直に近い斜面です。もちろん、村のほんの一部を見ただけですが。
村を下りて、街道を登って行く途中、「上六川 六の段」と標識があり、小道があります。しばらく行くと、「上六川上の段」の標識がありました。ところが、上六川には、上の段という小字はありますが、
六の段っていうのは、無いのです。

こうへい - 2003/06/12(木) 14:48<

お返事 2

ヤゾーさん、見えない何かの陰謀ですか(^o^)

こうへい - 2003/06/12(木) 14:28<

地名と神社名が変わってますのお返事

ヤゾーさん、ぼくの地図でも、円羽口のバス停名になっています。
朝、金屋町役場に地図を買いに行ったとき、受付に時間表かなんかあって、丹波口ってあったので、おねーちゃんに、地図で円羽口になってるんやけど・・と聞いたら、いいえ、丹波口です・と言われました。
白岩丹生神社に、今、電話して聞きましたが、おばあさんがでて、白岩丹生神社です、名前変わってなんかいません・・って、いわれました。
今日、役場の帰りに上六川の天石神社を見てきました。住民は、アメイシと呼んでます。
そこで、小さい箕みつけました。写真、またアップします。

ヤゾ− - 2003/06/12(木) 13:50<

地名と神社名が変わってます

みなさん こんにちわ

こうへいさん *(*。。*)*onglyさん △うぶさん
釜中の南麓にある丹波口という小字名ですが
あたらしい地図では確かに円羽口になっていました。
また地図検索サイト マップファンで調べたところ
その近くにある白岩丹生神社の名前が白岩円王神社となっています。
最初は丹という字と円が似ているので 書き間違いなのかとも思いましたが
神社の名前まで変わっているとなると
これはどういうことなんでしょうね。

*(@。。@)*ngly - 2003/06/12(木) 12:46<

残せ庶民信仰

こうへいさん
 神仏混交や神仏習合として日本の美徳とする歴史学者もいます
が、そうでなく、初期の日本仏教は民衆救済ではなく護国仏教であり、
実態は仏教側(真言密教はカースト制度も導入)による先住民系の信
仰の弾圧と従属と、私は理解しています。江戸時代徳川の覇権確立に
加担した修験道や浄土真宗は優遇され、その他の宗教は抑圧されたと
いう構造があります。江戸期に寺は神社や宮の上に君臨し、戸籍管理
をしてましたから、その利益を活かしてどこでも大きな建造物なので
す。呼び名的にも、宮とか神は戸時代は差別語です。
 調査してみると昔の熱い信仰が「もろくも崩れていたり」していま
すが、なぜも崩れたのかの検討は十分でないと思います。昔の信仰が
生き延びているケースは2つあるようです。@村の古い秩序に組みこ
まれている、A医者や保険制度がない時代、病治癒や悲願を「安価」
にかなえてくれるという庶民の期待、のようです。
 @は村が過疎になる理由、シガラミの1つです。Aの場合宗教学者
のいう理論というよりも、語呂合せや付会がきっかけのようですが、
野史研究会はAも重視します。Aに関連した小堂や祠を残すには真実
の歴史を伝える必要があると地元の方には訴えています。

こうへい - 2003/06/11(水) 13:31<

このまえ、手に入れた箕の写真、「風の王国掲示板」にアップしました。
サンカの人が作ったものでしょうか?

こうへい - 2003/06/11(水) 09:59<
△うぶさん、おはようございます。
きょうは、また嘘みたいな良い天気です。

>仏教が長い時期、神社を監視コントロールしていた事があります
真言密教が入って、神仏混交で、共同でなにかをやっていたのが、次第に寺が神事を行って、神主が消えてますね。明治維新までなんですか?そうじゃないですね、時の都合で、仏教弾圧なんてあったですよね。ボクの単純な頭で考えても、
天朝をかついで、官軍になった薩長が作った明治政府は、天皇が中心だから、神社がメインですよね。天皇が、やがて神となって暗い戦争に民衆を引き込んで行きますよね。
すべて、時の支配者の陰謀ですか。
なんか、面白くないですね。
わが、釜中の村人は、天日神社が合祀され、帳面上では、すでに無くなったいまでも、全く変わらずに、行事その他、神主村人持ち回りで、行ってます。明治の終わりの合祀いらいずっとかどうか分からないけど、ボクには、なんか救いです。
五稜郭に立て籠もった、幕軍のなかで、陸軍奉行の土方歳三が、ほかの連中が、降伏を考えてるのを察して、今更、薩長に下れるか、と、五稜郭を出て、敵陣に切り込んで行きます。
一本木で、官軍に遭ったとき、新撰組の土方歳三と名乗って、切り込んで、銃弾に倒れます。
武士の出でなかった故の、激しい武士への、憧れと理想、時勢に関係なく自分の美学に生きた
彼が、ボクの理想です。

△うぶ - 2003/06/11(水) 03:45<

日本に於ける宗教

こうへいさん、調査報告興味深く拝見しています。
>坊主って、お宮嫌いなの?
>日本の中でも宗教がその様に使われたって、、、、、、
正にこれらも、その一種でしょう。*(*。。*)*ongly さん、弁の、民衆のコントロールに利用した、事と
、更に、仏教が長い時期、神社を監視コントロールしていた事があります。歴史上神仏混交と廃仏棄釈
と神仏分離等の試行錯誤を経て近世の、(支配者側にとって都合良い)理想の形態に落ち着いた
のだと解釈しています。本来各系住民のオリジンが捻じ曲げられて存続しているとも思っています。
又更に、支配者側の物欲を満たす為に宗教が利用されてきた事も忘れられません。
政治システム、芸事、やくざ、○○○教、産別団体など、上納世界の異常な結束は醜くて直視に
堪えないです。

こうへい - 2003/06/10(火) 23:00<

日本の宗教

>行基・空海らは食事(施餓鬼)と仕事を提供し民衆の労力を巧く引き出し自らの宗派拡大と支配者への貢献をしました。
うわー、そうなんですか。幼児期、ばあさんに空海の絵本を与えられ、親しんだっていうのに・・。
タタラの神は、確かに支配階級にとって利の元ですね。
>日本ほどそのため宗教が露骨に寄与した国は少ないのではないでしょうか。
ウーン、キリスト教が、侵略支配に最も使われたと思っていましたが、日本の中でも宗教がその様に使われたって、考えたこともなかったです。
*(*。。*)*ongly さん、いつもながら勉強になります。ありがとうございます。

こうへい - 2003/06/10(火) 22:40<

宮名が変わる

このまえ、寺の坊主に聞いたんですけど、願成寺の鎮守堂?の熊野権現社が、千種(ちぐさ)神社に合祀されたとき、元々 百XX神社か、十XX神社だったのが、祭神が増えたので、千種神社になった。宮の名前なんてそんなもん・・といってました。坊主って、お宮嫌いなの?
天石神社も、テンイシではなく、アメシと読み、雨師明神とも書かれ、雨乞い祭りが行われてる。

*(*。。*)*ongly - 2003/06/10(火) 21:49<

日本の宗教

こうへいさん
>別所の被支配者が、神社を建てる財力も力も無かった。
 食うにも事欠く者(餓鬼)にはそのような財力はありません。
行基・空海らは食事(施餓鬼)と仕事を提供し民衆の労力を巧く
引き出し自らの宗派拡大と支配者への貢献をしました。

>タタラの神を、祀ったのは、支配者が怖れて祀った?
 馬頭神や踏鞴神は職業神でしょう。金銀の生産と確保は支配者の生命
線です。直接の政治的狙いは少ないのでは。

>支配者が自分の神を祀らずに捕虜にした奴隷のような者達の神を祀ったか?
 アメリカのイラク侵略も、最初は軍事侵略ですが軍事支配を永続化することは
不可能です。ポルトガルやイスパニアは宣教師を派遣して日本を宗教支配しよう
としたとの説もあります。支配を永続化するには被支配者の自主的隷属や従属が
最も効果的ですから、宗教支配は好適です。別所の信仰の一、薬師信仰はまず
その目的にかなうものですが、藤原氏の信仰も篤かったようですし、両面あるの
かもしれません。マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」は歴史的名言です。
 支配者が「被支配者のために」することはすべて自らのためにすぎません。
 日本ほどそのため宗教が露骨に寄与した国は少ないのではないでしょうか。

こうへい - 2003/06/10(火) 21:43<

丹波口

ヤゾーさん、こんばんわ。
>釜中からちょうど鳥屋城の方向へ下ったところに白岩丹生神社がありますが
>その近くに丹波口という小字名がなかったでしょうか
やっと、見つけました。ボクの地図では、円波口というバス停が載ってます。
「たんば」じゃなく「えんば」ですか?
口というには、えんばかたんばが近くにあるはず・・と町誌捜したらありました。
鳥屋城の北側の城下町ですか?小川という、大きな大字があります。
その小川に、喜んでください「丹波」という小字がありました。
位置から見ても、この丹波の下(南)だから、本来は「円羽口」ではなく、「丹波口」でしょう。

ところで、田殿丹生神社の楠の木、焼ける前の西本願寺の天井板に使ったと、神社の奥さんに聞きまして、ここにも書いたのですが、「がつろ」を捜して歌を見てたらですね、
大津絵ぶし歌 ”丹生村で名高きものは、・・中略・・まだ大きのは金閣寺の、天井はったる楠の森・・・”と歌われています。金閣寺の間違いかも知れません。金閣寺焼けてますし。

今日、白岩丹生神社の神主さんと、やっと電話がつながって、話したんですけど・・
釜中の、天日神社の祭神は、天照大神と言うのが先ず判りました。
続紀伊風土記にある、天一神社については、聞いたことがなく、天一が、いつしか天日と村人が呼ぶようになって、町誌にもそう書かれてることは、十分ありうる話で、古い資料が殆ど残ってなくて、分からない・・と言うことでした。
伊勢市の神宮文庫で調べれば、もしかしたら判るかも・・と言われました。
先日、和歌山県史(古代)を借りて、漢字だけの文章で、読むのすぐやめたとこなので(^_^;)
天日神社が、昔の天一神社だったのか、幻の天一神社がどこかこの村にあったのか、結論は出ませんでした。祭神も違うし・・祭神が変わることもあるし・・・・ムムム(^_^;)
とりあえず、明治のおわりの神社合祀の時に、天一神社という名の神社が無かったことは、確かです。

ヤゾ− - 2003/06/10(火) 18:25<

梅雨入り

みなさん こんばんわ

こうへいさん 釜中の調査 ご苦労様です。
釜中からちょうど鳥屋城の方向へ下ったところに白岩丹生神社がありますが
その近くに丹波口という小字名がなかったでしょうか。

あおきさん つい最近 後ろに村上水軍と大きくかいたバスが本宮大社の方へ走って行きました。
熊野にも水軍がありましたので 村上水軍の末裔が熊野詣に来たのかな?
などと思ったりしました。

ナイスタイミングさん 熊野古道は実際に歩くと大したことはありませんが
あまり知られていない辺鄙なところには まだまだ面白いところがありそうです。
そういうところで フィールドワークを御一緒できると良いですね。
ちなみに 僕の暮しているところの小字名は朝来と書いてアッソと言います。
古老の話しでは アイヌ語地名ではないかと仰っていました。

おりかべさん お久しぶりでした。
「ロンドマンくれ。」は楽しい話しでした。
青森のモヤ山のことを 地元ではモガリの山とも呼ぶそうですね。

*(^..^)*nglyさん 一度 Donglyさんご自身が釜中と周辺を調べられたら
いろんな事が分ってくるのかも知れません。
きっと こうへいさんが手厚く案内してくれると思います。

バリ師さん 亀捕師について ありがとうございました。
水族館館長が はっきりと最後の山窩と書いていましたね。
映画「ガメラ」の影響か 小さな頃 よく亀取りをして遊んだことを思い出しました。

写楽保介さん ナガスネヒコと義兄弟の関係にあったニギハヤヒですが
記紀では もののみごとに訳の分からないように抹殺されたようになっています。
そのスサノオの系譜にあるニギハヤヒこそが 原住民系と融合を果たした大王だったのかも知れません。
東日流外三郡誌といえば 安東水軍というのも浮かんできますね。

今日は朝から一日中雨です。
こちらでも梅雨入りしたみたいです。

こうへい - 2003/06/10(火) 13:42<

釜中調査隊 誰の為の神社?2

別所は、天然の牢獄であるから、支配階級がその中に自分の神社を祀る訳がない。
建てるのは、牢獄内の神社だから、捕虜の為の宮である。・・こういう事なんでしょうか?

こうへい - 2003/06/10(火) 13:18<

釜中調査隊 誰の為の神社?

*(*..*):*ngly さん、突然質問なんですけど、別所の被支配者が、神社を建てる財力も力も無かったと、しろうとには思えるんですが。
タタラの神を、祀ったのは、支配者が怖れて祀ったと考えるべきなんでしょうか?
支配者が、自分の神を祀らずに、捕虜にした奴隷のような者達の神を祀ったりするものでしょうか?
支配が解けたのち、被支配者が自分たちの神を祀ったと言うのは考えやすいんですけど、作られたのは、もだ、支配が続いてる時ですよね。
捕虜が、反乱を起こすのを防ぐ為に、お前達の為に建ててやったぞーという、支配者の陰謀?なのでしょうか?

こうへい - 2003/06/10(火) 11:06<

釜中調査隊 お宮さん

写楽保介さん、こんにちわ。
猿田彦って、ごく一般に祀られているのですか?
というのは、今調べてる、金屋町の上六川の天石神社に配祀されています。
明治の終わりに合祀された、大字黒松にあった里神社の祭神が猿田彦命でした。
ちなみに、黒松には、3つの神社があって、
奥の宮神社(大国主命)、山神社・・奥の宮神社の境内社・(大山祇命)、里神社(猿田彦命)
弁天神社(市杵島姫命)です。
ボクには、分かりませんが、出雲族と関係あるのでしょうか?

写楽保介 - 2003/06/10(火) 10:21<

ナガスネヒコは出雲族の一員

出雲神族の伝承を伝える富氏の口伝によると、逆賊第1号のナガスネヒコは出雲系の人物です。事代主命の子孫であったらしい。そこで例の東日流三郡志にでてくる、「ナガスネヒコと兄の安日彦が大和の地で神武軍に敗れた後、会津で落ち合い古代東北の地に落ちのびた」という記述も信憑性が出てきます。
ナガスネ彦の塚は青森にあるし、大国主をまつる神社もある。更に東北弁と出雲地方の方言が似ているということもこれで良く説明できます。もともと出雲族は列島を南下して近畿地方に王国を築いていたそうだから、南下の途中で東北に居残ったもの更に、神武とかいう盗っ人集団に敗れて東北に亡命した者などがいて、東北地方とは縁が深いわけです。
出雲大社は大国主を祭っていることになっていますが、実際は祭っているんじゃなくて、封じこめているんじゃないですか?梅原猛が言っていることですが、出雲大社では4拍手をするそうで、これは死に通じる。
つまりおまえやおまえの眷属は二度とこの世に出てくるなということです。
記紀に描かれた猿田彦も似たような扱いを受けている。この猿田彦こそ出雲族の祖神であるクナトノ大神でしょう。

おりかべ - 2003/06/10(火) 01:43<

モヤ あれこれ

ナイスタイミングさん、こんばんは。
>私が知っているのは茂屋方山という山です。

秋田県田代町にありますね。茂屋(上茂屋・下茂屋)地名もあります。
藻谷山は2箇所見つけました(能代市東端、鹿角市十和田)、青森の八甲田に
行く途中にも雲谷峠という山があります。スキー場です。

>岩木山を連想しました。お山参詣なる行事があるようです

岩木山の「イワキ」も、一説には同様の意味で、「元はカムイ・イワキ」とい
う話を聞いた事があります。
昔、登頂したことがありますが、8合目まで車で行けます。山頂は鯵ヶ沢方
面の日本海を一望できます。東側は確か断崖絶壁だったと記憶しております。

ご教示のお山参詣は知りませんでした。ご来光を拝む行事ですか。
「サエギ」は「佐伯」かと思ってしまいました。

岩木山の神事といえば、猿賀神社の神事で正月七日に藁で作った鬼形を神事が
射て、矢を立てたまま土中に埋めるというのがあります。
『永録日記』には確か正月十一日に鬼面を弓で射る神事の記述があります。

ナイスタイミング - 2003/06/09(月) 23:49<

たった一つとは!

*(^..^)*nglyさん、ご教示ありがとうございます。
ひょっとしたら字ではなく通称地名で残っているのかもしれませんが、
入口という地名が数少ないどころかたった一つとは驚きです。

》中世以降もくち(口・朽・久地など)は何かの番所が置かれた地名です

釜・鎌と同じように音は同じで当て字なのですね。
(今日、栃木に所用で参りましたら安蘇(アソ)という地域があり、
 アソは阿蘇だけではないのだな、と思いました。その地名も市町村合併で
 数年後には消えるようです。)

》とすればその対岸には、河原や石井があるかも

字の地名では記憶にないので調べてみることにします。
(5kmぐらい離れたところに鷹巣という地名はあります。)

ナイスタイミング - 2003/06/09(月) 23:33<

円錐形の低山

おりかべさん、こんにちは。

》クロ・マンタは、クロ・マダ→クロ・マn(*)ダ→クロ・マンタ
》では、ないでしょうか?(* 音節短めの「ン」)

あの地方の事ですからそうだと思います。

》モヤ山は米代川流域に2つあったと記憶していますが(藻谷山、茂屋方山)、

唸ってしまいました。
私が知っているのは茂屋方山という山です。
(標高が低いのにキレイな▲の山でした。円錐形の低山に見えました。)

》 私はふと、アイヌ語でいう、モ・イワ(MO-IWA[K])「小さな山」と同様の語で、
》 IWA[K]は確か同じ「山」でも信仰的意味合いを含めたニュアンスがあったかと

岩木山を連想しました。お山参詣なる行事があるようです。
(秋ごろは白装束の大集団が登山するらしい。)
http://www.tsugarushu.com/sightseeing/festival/oyama/

こうへい - 2003/06/09(月) 22:42<

ありがとうございます

*(*..*):*ngly さん、いろいろ調べて頂いてありがとうございます。
金屋の山間部に、俘囚以外の別所も存在するということなんでしょうか。
俘囚の別所も想像の域を超えませんが。
和歌山大学の渡辺氏の部落史というの、捜してみます。
現場も、釜中の小字の一つ上谷だけしか見ていません。それも、ごく一部です。
聞き取りも引き続きやって行きます。
いつも、ありがとうございます。

*(*..*):*ngly - 2003/06/09(月) 22:15<

またまた失礼します

こうへいさん
 方言にないとすれば「がつろ」はがつがつ食うに関連あるかも。
カイト地名は藤原氏の主領地だった奈良に最も多く、カイト地名
研究の池田末則氏は、村や小集落の意味とします。ただこれでは
草葉の陰にある親分の柳田國男氏は涙を流すことでしょう。
 本当が分かっているなら今の時代しか主張できないのですが。
 上六川は地名から別所関連と思います。点のない良はウシトラ
(丑寅)と読みます。西村も上六川と同じような意味を持つと考え
られ菊地山哉は中世奈良で文殊信仰の主要地として、忍性菩薩が
行基菩薩のまねをして、粟粥か何かを食べさせて非人を大量オルグ
し獲得した地です。他の要素を考慮しなければなりませんが、別所
かもしれません。昔の往還や脇往還沿いにあるか否かも番人集落の
判断材料です。六地蔵や道祖神にご注意をして下さい。
 和歌山大学の渡辺氏の部落史は地名と賎称がセットになっています
ので別所⇒中世賎民の歴史を考えるとき非常に参考になると思います。

こうへい - 2003/06/09(月) 16:45<

釜中調査隊

>ところでガツ口は・・ すみません、「がつろ」です。
>垣内の共通の職種は何だったのでしょう。
 垣内とは、色んな意味を持ってるが、小字が多い。村内の小集落と解して良いのでは・・と、町誌に書かれ、職業についての記載はありません。共通の職業があれば、そのような説明があると思うのですが。
>上六川(何と読むのですか) カミムツガワ です。
海南市との境、鏡石や白髪畑の稜線に源を持った本谷川(玉川)に沿って山腹にかけて出来た集落で、上手にあるのが大字上六川、続風土記に、「釜中村の*9町にあり」と説明し、南に小名西村のあることにも及んでいる。 *は、良の上の点のない字
地名、部落の形成不明。小字は18ある。天石(アメシ)は、天石神社の鎮座地、神田(ジンデ)は、は、その神饌田のあった所だろうし、上の段、下の段は、垣内の位置からと想像できるが、他は不明。
小井戸(コイド)上立場(カミタチバ)の地域の家居を西村と呼び、本集落と距たりがあるので、今は、別の区長を置いて大字ならびに扱われてる。
西村から、西の尾根を越すと釜中の部落に通じる。・・・以上町誌より。
別所番人なら、釜中に通じる、小井戸(コイド)上立場(カミタチバ)の西村でしょうか?

*(*。。*)*ngly - 2003/06/09(月) 12:26<

調査ごくろうさんです

ナイスタイミングさん
>川の対岸には外河原という集落があります
 とすればその対岸には、河原や石井があるかも
釜中調査隊さん
>釜中には、中の付いた苗字。明治5年の45戸の内8軒。
>中家、中東、田中、中井、中元、中北、中西、中岡。
 明治以前は名前がなく屋号だったかもしれません。中は釜
中の住人を示してるのかも。釜中の東西南北に位置したのか、
地形にもご注意ください。固有の信仰や序列があるはずです。
小字の数が多いのは多分昔寺の領地だったが、寺が力を失っ
て・・・・「所有権」が細分化されたのでしょうか。
 ところでガツ口は「がつくち」ですか、「がつろ」ですか?
垣内の共通の職種は何だったのでしょう。
 上六川(何と読むのですか)が別所番人地名かもしれません。

バリ師 - 2003/06/09(月) 01:53<

草魚とスッポン

日曜日の午前中、近くの市川へ行ってきた。

子どもらが「とーと、ごっつう大きな魚がおる!」と叫んだ。見にいくと1mほどの真っ黒い魚がおった。最初、鯉かと思って近づくと、昨夕の夕立で少し増水した岸辺の草をパクパク食っていた。これは草魚である。悠々と草を食む姿に「やっぱ中国の魚やな」と妙に感心した。

しばらくして今度は「とーと、スッポンや!」と叫んだ。私が駆けつけた時には姿がなかったが、子どもらは「甲羅がツルツルで、あれはでったいスッポンやった」と言い張った。

こうなると血が騒ぐ。今晩、草魚の釣り方とスッポンの捕まえ方を検索していると、下記のように「亀捕師」という言葉に出会った。

うーん・・・姫路に「亀捕師」のサンカがいたと唸ってしまい、近いようで手の届かないもどかしさも感じた。

しかし、何やら得したような良き一日でありました。

バリ師 <http://kame55.cool.ne.jp/isigame/isigame01.htm#kametorisi> - 2003/06/09(月) 01:25<

亀捕師2

以下同じ。

バリ師 <http://kame55.cool.ne.jp/isigame/taishougawa/5-6kametorisi/5shugyoureki.htm> - 2003/06/09(月) 01:23<

亀捕師

スッポンのことを調べていて、こんなページがありましたので、上のURLに貼り付けておきます。

こうへい - 2003/06/09(月) 00:10<

釜中調査隊 外へ

*(^..^)*ngly さん、釜中には、中の付いた苗字が多いです。明治5年の45戸の内8軒。
中家、中東、田中、中井、中元、中北、中西、中岡。
周囲に口とか木戸とか、見当たりません。

釜中の東に上六川と黒松の在所があるのですが、その隣に、西ヶ峯という在所があります。
100も小字があって、126軒、561人という大村で、
こぶく、風穴、金くそ、下炭屋、炭屋、七ノ尾、糸巻、雲向、芋岡、はしり、休場と、何となく
タタラに関係有りそうで、小字が、すごく細かく分かれています。

その、西ヶ峯をしたから受けるようにあるのが、有原で、小字が、上から梶上、下垣内、前垣内、
東垣内、ちょっと飛んで・・北垣内、堂垣内、前垣内、鳥居垣内、寺垣内、東垣内。
北垣内以降は、バラバラに離れていますが、垣内が多いです。

*(^..^)*ngly - 2003/06/08(日) 20:41<

入口はただ一つ

ナイスタイミングさん
 全国の10万分の1の道路地図で調べた所、入口という地名は全国に唯一ヶ
所だけだったようです。何県だった忘れました。よほど入りたくなかった所で
あることが伺えます。菊池山哉は別所の苗字として西出や東出などをあげてい
ます。中世以降もくち(口・朽・久地など)は何かの番所が置かれた地名です
から、古代からの支配の法則は受け継いでいるようです。鉱山の管理所がある
ところは口金や口銀の地名があります。管理する側と管理される側では人間関
係は順調に行くはずはないので、昔は何かの敵対的または対立的要素が残って
いたはずで、これは容易に確かめられます。
 仏典『起生経』の「あの世の地獄には八つの地獄があって、その各地獄に、
更に十六ないし十八ケ所の別所がある」を援用して菊池は別所を「俘囚の監獄」
と断じていますから、地獄の釜の中→釜中となり、地獄の鬼の役を演じた者の
痕跡は残るものです。例えば私宅近くの院内地名には「上木戸」があり院内には
木戸番を配置して管理していた事が予想されます。傍示(ぼーじ)も民俗学が言
うような物でなく、古代は出る者を管理する者がいた地名のようです。

おりかべ - 2003/06/08(日) 10:35<

黒又山、靄山

ナイスタイミング樣、ヤゾー樣

>黒又山、ご存知でしたか。
>「東北地方では、三角形の山を「靄(もや)山」と呼んでいます。」と
>解説しているサイトがありました。(初めて知る話です。)
>http://www.michinoku-yume.net/myn/db/db09-m002-t006.php3

クロ・マンタは、クロ・マダ→クロ・マn(*)ダ→クロ・マンタ
では、ないでしょうか?(* 音節短めの「ン」)
「オラ、山田だ〜。」というとき「ヤマダンダ」みたいな発音を聞いた事がありますし、
私の故郷では「ブドウ」を「ブnドォ〜」という感じに発音する場合があります。
昔、自転車屋の卸会社にて倉庫内作業のバイトをしていたとき、とある自転車屋の
おやじが「ロンドマンくれ。」というので、「何のこと??」と思っていたら、
「ロードマン(ブリヂストンの通学用自転車)」のことでした(笑

あと「モヤ」は「モイワ」の縮約した名前と違いますかね?
モヤ山は米代川流域に2つあったと記憶していますが(藻谷山、茂屋方山)、
私はふと、アイヌ語でいう、モ・イワ(MO-IWA[K])「小さな山」と同様の語で、
IWA[K]は確か同じ「山」でも信仰的意味合いを含めたニュアンスがあったかと
思います。

黒マンタは四角錐だそうですが、モヤは円錐形の低山でしょうか?

地名研究家で実地踏査をされて評価の高い山田秀三氏も同じようなご見解
のようです。
http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-88323-063-5.html

ナイスタイミング - 2003/06/08(日) 01:04<

出口

とんちんかん小僧さん
世の中には歩行不能になっている人を一瞬で直せる人もいます。皆さまおすすめの
整骨院でしっかり直された方がいいと思います。
(一時、歩行不能になったのは私の父。「不思議な人もいるものだ」と感心しきり。)


「地名には出口しかありません」
Donglyさんのご教示によって長年のもやもやが取れました。
私の育った土地が出口。(入口という地名は無し。)川の対岸には外河原という集落があります。
土地の人はどうしてそのような名称なのか誰も知りません。ありがとうございます。

ヤゾ−さん
フィールドワーク、本当に羨ましいです。
お言葉ありがとうございます。機会がありましたら是非お願いいたします。

@ウチのヨメさんはTVで熊野古道などが取り上げられていると
 見入っています。行ったことがないのですが憧れの地のようです。

あおき - 2003/06/07(土) 21:10<

蒲刈島は

 四国から無人島だった蒲刈に多賀谷氏が移り住んで 水軍になったそうです
僕の祖母の一族が記録を残しており ネットで調べると確かに一致していたので
水軍の特殊な島であったことは確かです 倉橋島も多賀谷氏が支配していたそうです

こうへい - 2003/06/07(土) 20:51<

釜中調査隊 ガツロ

東北地方中心に方言捜しまくりましたが、見つかりません。

ヤゾ− - 2003/06/07(土) 19:51<

千手十一面観音

みなさん こんばんわ

はつせさん ほんとうですね。
二十代といえば かなりの旧家になるのかもしれません。
今度 その方と御会いすることがあったら
何を根拠に二十代と言うのか聞いておきます。
こうへいさんなら 早く聞いてくれるかもしれません。

こうへいさん 釜中の謎の斜面 確か“ガツロ”だったと思います。
今度行ったら サンカの人たちとの交流がなかったか
聞き取りお願いします。

ナイスタイミングさん フィールドワーク楽しいですよ。
山を歩いたり 村のお年寄りから話しを伺ったりと
機会があれば 御一緒したいです。

とんちんかんくん なにはともあれネットに復活できて良かったですね。
またパソコン壊さないようにして下さい。

Donglyさんのおっしゃるように
確かに釜中の土地は脱出しにくい地形のように感じました。
最近 Donglyさんの影響もあってか
行く先々で十一面観音に出会います。
釜中の途中にある別所のお寺にも
鎌倉時代に作られた千手十一面観音が本尊としてありました。
この前に行った城崎温泉のお寺にも 本尊として二体の千手十一面観音がありました。
十一面観音は抹殺された神 ニギハヤヒを投影しているとも
戦で原住民系の人が多く死んだところに祀ることが多いという説もあるみたいですね。

こうへい - 2003/06/07(土) 00:21<

釜中調査隊 お礼

*(@・・@)*ongly さん、ありがとうございます。推理が、同意されたの初めてです<(_ _)>
釜中が解れば、願成寺の別所も説明出来るのでは・・と、はじめたのですが。
釜中や、周囲の村も関係してると思われます。現地調査、聞き取りも限界はあるのですが、
今しかないっていうのもあります。
難しいことは解りませんので、よろしくお願いします。

トンちゃん、腰が治れば、行きましょう。辻秀輝の向こうに、小川整骨院があります。
ボクが、信仰に近いほど信頼してるところです。予約制ですが、よかったら行ってみたらどうでしょう。痛いですけど。掲示板で実名で宣伝したら駄目なのかな?まあ、いいか。

*(@・・@)*ongly - 2003/06/06(金) 23:05<

釜はゲットーの意味

こうへいさん おじゃまします。あなたの推理に同感です。
 「ボクの想像ですが・・・別所に産鉄、鍛冶の技術を持った俘囚が送り込まれ、朝廷
の命により、周りの山中を巡って捜した結果、釜中に場所を決め、たたら場をひらいた。
釜中が、上から開けたというのは、こういう成り立ちだったのではないか。たたら場が
無くなったのは、伝承にないくらいだから、古い話なんでしょう。釜中は、別所以上に
急峻な村です。ここ自体、別所だったのかも知れない。」
 なぜかというと広島の蒲刈島は別所島のようで、昔は釜や鎌の字も使ってました。
野史研究4号に垣内・垣外も内外に関係なく、周りを取り囲むという意味からゲットー
(八切流には居住限定地域)となります。また内という字などは語形的には上から被せ
る(支配する)の意味があり、釜・椀・釜・鍋も同様です。またこのように脱出しにく
い地形に隔離し封じこめて、また捕虜が出入りを番人をおいて管理する事が重要です
から、地名には出口しかありません。それは地名や地形で確認する事ができます。また
周辺には捕虜の反乱や脱出を防止する集落をおいたと菊池山哉はいっています。鳥取の
氷山別所や兵庫千種別所などは江戸期の支配構造(番人集落)の痕跡があります。
 柳田國男、谷川氏や池田末則氏らの民俗学者もこの点には触れていません。実際の
歴史から支配と隷属の政治を抜いてしまうと民俗学になってしまいます。また柴田氏
も巧みに政治を避けており、また金属関連だけにこだわると別所の実像が見えてきま
せん。別所はその名前を変えて「生きつづけている」ものが結構あります。
 たたら場を含むゲットーを山内(さんない)も柵を設けて出入を管理していました。
 調べれば何かの痕跡があるようですね。釜中調査隊、期待しています。

とんちんかん小僧 - 2003/06/06(金) 21:49<

ネットに復帰します!!

昨夜ようやく、ネットに完全復活することができました。
また皆さん、今後ともよろしくお願いします。
これからは、今までのように簡潔すぎる文章を少し長めに長めに書いていけるように出来るので、とても助かります。また、携帯電話からだと丸一日チェックを怠ると掲示板を読み取れなかった事もしばしばあり、前後何が書かれていたのか全く分からずじまいになったこともあったから・・。昨日、掲示板を見て知ったことですが、ナイスタイミングさん、レスありがとうございました。
>仙腸関節の引っ掛かっりは、通常の生体の動きではとることが困難なようです。
>骨盤調整手技療法が効果的なはずです。

何だか大事になってきた感じがします。でも、もう注射一本が大変効き目があったらしく初日に一度湿布をし、二度の食事の後に薬を飲んだだけで痛みや張りが吹っ飛んだようです。ただ、あまり長い時間、同じような姿勢で突っ立っていると背中から腰にかけて少し痛みがあります。

こうへいさん、ヤゾーさん、素敵な体験されたようですね。もしその石群が人工のものでピラミッドの痕を残す残骸であったとすれば大発見ですね。でも、その石群がある場所は、石工の者達の石切り場であったという可能性もあるのでしょうか?一度ナマで見てみたいものです。

こうへい - 2003/06/06(金) 19:38<

釜中調査隊 斜面

岩の斜面の呼び名を思い出しました。
確か、「ガツロ」だったと思います。ヤゾーさん、どうですか?
子供が、そう呼んで遊んでいただけのことですが、この言葉に伝承が隠されているかも知れません。
普通、ガツロなんて、呼び名どこから出てきます?

こうへい - 2003/06/06(金) 19:25<

釜中調査隊 質屋

女郎屋は、湯浅にあり、通ったと、△うぶ さんが、言われております(^o^) 違ったかなー?
金持ちの息子が、家の槍を内緒で持ち出し、質に入れ、金を握って糸野街道をかけ下り、
湯浅に走ってる様子が、目に見えるようです(^o^)

ナイスタイミング - 2003/06/06(金) 19:00<

釜中調査隊、いい名前ですね

先に山上の方へ人が入って、という土地なんですね。
商家、女郎屋が軒を連ねていたという鉱山で栄えた所が、今は面影
さえ留めていない辺鄙な地になっている、という近年の例はありますが・・・

四国は山の上に道があり平地より栄えていた、という宇野正美氏の話を
思い出しました。(1200mのところにある宮崎駿氏の山小屋の話も連想。)

こうへい - 2003/06/06(金) 17:39<

宮と寺のややっこしい関係

宮や寺を調べてると、出来たり、消えたりして、疲れます。頭を整理してちょっと書いて見ます。

古代から、住民の生活、政治の根元であったので、神社は、絶対信仰の聖域であった。

仏教伝来後、神と仏の関係が問題になり、高野山開創後、平安朝以後、妥協で神仏同体とし、
寺院には鎮守堂が、神社には神宮寺が設けられた。祭事は寺で行って神主が居なかったり、
様々である。

明治の新政は、新道中心に戻そうとして、つまり仏教は、外から入ってきたものとして、寺を廃した。これは、先に神社に作った神宮寺だけを廃したのか?

明治34年頃から、新道国家護持の立場で、雑然とした神社を整理のため神社合祀を推進した。
一村一社をめどに、小さい神社、神主の居ない神社などを、ひっくるめて大きな神社にまとめてしまおうとなった。
金屋では、明治40年頃、ほぼ完了している。

白岩丹生神社なんかは、27社も合祀している。
この時、釜中の天日神社もこの中に入ってる・・ここが、まだ未解決です。
天石神社は、白岩丹生神社に入れられることに反対してもめた結果、4社を天石神社に合祀することで、存続させてます。
合祀されたあとの神社は、消滅したり、自分の氏神は、何と言われようと、この神社だ・・と言って変わらずに祀るところもある。 頭が痛くなって来たので、このへんで・・・

こうへい - 2003/06/06(金) 03:51<

釜中調査隊

もと質屋さんだった人が、言ってました。二十代続いたっていうのは。その人は、広川から養子に来てますから、そういうふうに家人に聞いたというところでしょう。
願成寺のある別所から、鏡石を越えて釜中に下りる。釜中の入り口に茶屋跡があり、糸野に抜ける街道の途中だから栄えたというより、釜中が質屋が成り立つ程の町であり、街道のほうがその為に出来たとボクは見ています。
明治5年に、戸籍に45軒あるが、苗字が45ある。家は、個別に苗字を決めたらしいと、町誌の書かれています。
その明治5年の苗字に道場とあり、苗字でなくて、釜中道場(寺名:天正年間に建てられた)の僧侶で明治27年の調査では、無くなってます。この間に寺も寺屋敷も無くなったのか?
明治の記憶なら、屋敷、寺の建ってた場所がこことはっきり残ってるのではと、思います。

金屋の知名は、中世以来、鳥屋城の御用に武器を鍛錬する治工が住んだ集落であったので名付けられた。近世では、鋳物屋が十数件あり、釣鐘等作っていたようです。
鍛冶屋の息子で、太刀やあいくちを残した刀匠も出てます(幕末、明治初年)・・町誌より

金、銀の話は、伝説にもないですね。町誌の編纂者も聞き取りを大分やってるようですが。
タタラの伝説も残っていません。

ボクの想像ですが・・・
昔、願成寺の有る別所に産鉄、鍛冶の技術を持った俘囚が送り込まれた。朝廷の命により、周りの山中を巡って捜した結果、釜中に場所を決め、たたら場をひらいた。俘囚は、釜中や周囲の村に移住した。産鉄のために多くの炭窯を作り(他の村にも広がった)、鉄の運搬に糸野に抜ける街道が出来た。鉄は、クニの勢力に欠かせない武器を作るので、役所が出来、やがて、商人や労働者が集まり、町になって栄えた。
釜中が、上から開けたというのは、こういう成り立ちだったのではないでしょうか。
たたら場が無くなったのは、伝承にないくらいだから、古い話なんでしょう。
釜中は、別所以上に急峻な村です。ここ自体、別所だったのかも知れない。

はつせ - 2003/06/05(木) 23:56<

釜中調査隊

ヤゾーさん、二十代続いたとはどの時代からの記憶があるのでしょうか?名家と言われるなかでもそのぐらい記録があるのは公家か古い神社の禰宜ぐらいでは?
 天目一箇神を祭る神社があるのですから古代の鉄場だったことは明白と思いますが、近年まで裕福で武器があったというのは、金山か銀山があったのでは?関ヶ原の戦前後の上杉家に岡左内という家臣がいました。彼は土地の豪族で、上杉家が米沢に移っても会津に残ったのです。彼は吝嗇で有名で上杉家が戦をするときに数千両もの献金をしたそうです。しかし禄をはんで居る一介の家臣がそんな献金を出来るとは思えません。考えられるのは彼の本質が山師で金山を持っていたのではないかと思ってます。記録に無いのは、そんな隠し金山だったからではなかったかという思いです。

ヤゾ− - 2003/06/05(木) 10:35<

釜中調査報告

みなさん こんにちわ

昨日 こうへいさんと行った釜中の謎の斜面の報告です。
はっきりいって 何なのかまったく分りませんでした。
石垣の部分は明らかに人工のものですが
その中に点在する大きな岩や斜面を轢きつめるようにしてある大量の石は
人工のものなのか自然のものなのか判断できるものではありませんでした。
山頂に大きな岩で構成される祭祀跡か何かあって 
それが崩れたという見方もできるのかも知れません。
面白いのは村人たちの話しです。
山の頂上付近にあるその村は 今でも軽自動車がやっと通れるくらいの急な山道しかなく
その道もなかった数十年前は そうとうに不便で隠れ里のようなところだったみたいです。
そんな辺鄙な村の中に質屋があったというのです。それも二十代も続いた旧家です。
そして質蔵には刀や槍が沢山あったというのです。
村民の中に刀や槍を持っている家が多かったということなのかも知れませんし
遠くから刀や槍を持参して お金を借りに来ていたのかも知れません。
そんな山奥の村なのに 昔はお屋敷が幾つもあり
質屋まであったというのです。今では そんなことは想像も出来ないくらい
山椒畑の中に 古い民家が点在しているだけのところです。
村に人に この畑は屋敷跡 そこにはお寺があったそうだと言われてもピンと来ませんでした。
不思議なのは  そんな隠れ里のような山村で どうして質屋をするだけの財力のある者が居たのか
また幾つもあったお屋敷に暮していた人たちは 何をしていた人たちなのか分らないことです。
村の人が言うのに ここは山の上から人が暮し始めて開けたと伝わっているみたいでした。
もしかしたら 先祖が悪いことをして逃げてきたのかもしれないとも言っていました。
平家かなにかの落人だったのではと言うと そんな大層なものでないと笑っていました。
また村民が皆古くからの住民かというと
三代前にどこからか流れてきて暮しているという人もいました。
こうへいさんが調べたところでは たぶん珍しいことだと思うのですが
40戸ほどある家の姓が 皆違うのだそうです。
天目一箇神を祭る神社を 合祀に反対して頑に守っているところも面白いです。
謎の石垣と石の斜面ですが 二十代続いた旧家の人に訊ねたところ
石垣があるのは知っているが それが何なのか 何があったのか伝え聞いていないということです。
おそらく平安時代以前からあったのだろうと言ってました。

蜜柑さん 沖浦氏の素晴らしい著書「竹の民俗誌」の中に
南北朝時代に南朝につき 島津勢と最後まで戦って敗れ賤民に貶められたという
被差別部落に伝わる竹細工のルーツについての記述がありました。
それには 島津勢の目を逃れるために山深く隠れ住んでいた時に
その困窮ぶりを見たサンカの人たちが 親切に箕の作り方を教えてくれ
それ以来 竹細工を生業としたという話しでした。
大飢饉時代の窮民が 山に入ったり漂泊することになり
サンカの人たちに助けて貰ったということはあったかも知れません。

蜜柑 - 2003/06/05(木) 01:49<

サンカの起源

沖浦さんはサンカの起源を幕末の「大飢饉時代」としています。「大飢饉」で農村に居られなくなった窮民が山に入って、元手の要らない竹細工で生計を立てはじめたそうですが、
だったら、おおよそ全ての「漂泊筋」の人々の起源が「大飢饉時代」で片付けられそうで、ちょっとこの考えには賛成できません。

△うぶ <http://material.miyazaki-c.ed.jp/cec/jyoumonjin/hikaku/k-kaa6.jpg> - 2003/06/05(木) 01:40<

弥生人です

↑(上)のURLクリックで出ます

△うぶ <http://material.miyazaki-c.ed.jp/cec/jyoumonjin/hikaku/k-kaa2.jpg> - 2003/06/05(木) 01:38<

縄文人です

↑(上)のURLクリックで出ます

こうへい - 2003/06/05(木) 00:19<
はつせさん、写真は捜しまくって見つけた、もしかしたらの岩です。
斜面の殆どは、加工跡は見られないようです。
上から見ると、意志を持って作られたと思えるのですが、与那国の海底遺跡ははっきり人工ですが、ここは、もろ人工とは言えないだけに、うーん・・です。
何の為に・・・これだけの量の岩や石を・・・。うーん 謎です。

こうへい - 2003/06/05(木) 00:07<
ナイスタイミングさん、相当量の岩です。
斜面はなんとか登れます。てっぺんまで岩です。
てっぺん近くに、横たわったもとからここにあったと思われる大岩もあります。
岩は、殆ど緑泥片岩のようです。(古墳の石室に使われてる石)紀州は、この石が多いです。
青石といわれるやつです。
下りると、スネがガクガクになります。
いくらみても、何かわかりません。
下の石を盛り上げた所を、一つ位崩してみたら、何かヒントが見つかるかも知れません。
小さいもので、長径5メートルくらいのがあるので、それ程苦労しないと思います。
山主に断る必要はあると思いますが・・そのうちやってみるつもりです。

はつせ - 2003/06/04(水) 23:54<

ぞくっとします

こうへいさん、ぴったりと曲面同士密着した岩。どこかで見たことがあります。確かギザのピラミッドの礎石の写真です。すごい発見ではないでしょうか?

ナイスタイミング - 2003/06/04(水) 22:28<

お疲れ様でした。ありがとうございます。

こうへいさん、岩の斜面の画像、拝見しました。
これが斜面の一部ということですが、全体となると相当量の石があるわけですね。

水曜日にヤゾーさんと行かれるということでワクワクしておりましたが、
金属探知器もご用意されたそうで、なにか・・・ものすごく羨ましい!
(近くだったら是非とも行きたかったです。)

こうへい - 2003/06/04(水) 22:04<

岩の斜面の画像「風の王国 掲示板」にアップしました 

こんばんわ。
今日、ヤゾーさんと、釜中村の岩の斜面の調査に行きました。
村には、岩の斜面も石垣も伝承はありません。
斜面で子供の頃遊んだ・・とは、金屋の山椒栽培の開祖のおじさん。場所の呼び名、思い出せない・・・ウウッ
斜面の写真・・結局撮れなかったなー。
山中で、熊の?フンを見ました。コワー(^_^;)

こうへい - 2003/06/04(水) 17:57<

土器

海底の鍾乳洞の探索で古代の土器発見・・・これは面白いですね。
日本の土器は、1万2千年前とか、1万3前年前に初めて作られたと考えられています。
地上でしか、鍾乳洞は生成されませんから、1万2千年前に鍾乳洞が水没したとして、それ以前
に誰かがそこに置いた(生活していた)。縄文人なのか、縄文人に土器を伝承した古代人のものかも知れませんね。動物の骨とか、石器、装飾品なども見つかるかもしれませんね。楽しみです。

ya(・ε^)na - 2003/06/04(水) 00:28<

海底遺跡・・2

この一月くらい前にTVでやってたんですよう
  沖縄のどこかの海底の鍾乳洞の探索で古代の土器の発見があったこと!!
   ヤッパリ海底遺跡は海面の上昇か地盤の沈下が原因!!なのかも!!

 http://www.ocvb.or.jp/ja/archives/yonaguniundersea/001.html

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/03(火) 00:53<

道々の輩

柳生兵助さん、素敵な名前です。新陰流三世柳生兵庫助の幼名ですね。恥ずかしながら私の小説に10歳頃の彼が出てきます。私も隆氏の「一無庵風流記」に触発され、前田慶次郎の事跡を調べだして遂に小説まで書いてしまいました。でも、蜜柑さん達が書いている歴史民俗学No22には、もと山窩の人達へのインタビューがあって、「川魚を捕る人達」や「猿回し」などの人達とは「別」のグループ(山窩ではない)との証言もあります。想像するに我々は職業の自由を謳歌しておりますが、それでも職人になるには組織に入らねばならない。社会保障などない昔には想像できない人間の結びつきがあり、かなり隔離された社会であったと思います。「道々の輩」ももっと複雑な機構と「掟」を持っていたのではないかと思います。山窩も浮遊民の一つであった、というのが今の私の考えです。

ヤゾー - 2003/06/02(月) 23:05<

みなさん こんばんわ

柳生兵介さん はじめまして
隆慶一郎さんについて ありがとうございました。
過去何度か ここでも話題になりましたが
あらためて その小説の影響の大きさを感じています。
渡来系を考えるときに 最近ちょっとだけ読んだ「闇の日本史・河童鎮魂」沢史生著の中にも
倭人は中国や朝鮮半島にもいたという話しが載っていました。
倭人をワダツミとし 倭冠には高麗の賎民が多く参加していたとありました。
国境を越えて 共通したルーツを感じ取る何かがあったのかも知れません。
今後とも よろしくお願いします。

はつせさん 天という意味には 
無理やり天孫側に組み込まれたということも
あるのかも知れません。

こうへいさん 水曜日に伺いますので
よろしくお願いしますね。
軍手とナタも忘れずに持ってゆきます。
金属探知器でもあれば もっと楽しいかも知れません。
方位磁石も持ってゆきます。

ヤナさん 虫は物凄く苦手なんですが
爬虫類はそうでもないです。
一番恐ろしいのは 磯でエサがなくなったときに
あのゴキブリにも似たフナムシがグレ釣りの良いエサだということを思い出したら
素手で捕まえて針に刺すのですから 釣りの方が恐ろしいのかも知れません。
海底遺跡から土器が見付かった話し知りませんでした。
もっと知ってたら詳しく教えて下さい。

ナイスタイミングさん 黒又山を実際に見たことがあるんですね。
津軽半島にも モヤ山と呼ばれる奇麗な△山があって
星神信仰と深い関係があると何かで読んだ気がします。
神代文字などを黙殺するのにも
そろそろ限界がきているのかも知れませんね。

△うぶさん 城崎温泉のことをページにして良かったです。
ありがとうございます。
調子に乗って またどこかの温泉へ行きそうです。
>ちなみに私も最近某地で命の洗濯してきました、癒しです。いや、むしろ<いやしい>の方か?。
なんとなく想像できます・・・(*^^*)

こうへい - 2003/06/02(月) 09:12<
ナイスタイミングさん おはようございます
>石がゴロゴロしている光景と、板状の広い石がある光景を脳裏に描いています
板状は、見あたりませんでした。捜して見つかったらいいんですが。
自然の岩が、風化で欠けたりして、そんなのがごろごろして大いにでこぼこだけど、全体に見れば斜面という・・・・

△うぶ - 2003/06/02(月) 03:44<

温泉マークです(要マークです)

城之崎温泉の写真、拝見しました。規模の大小に関わらず、温泉は、このHPに興味持つ者に
とって格好の資料になりそうです。薬師、大師、白山、千手菩薩、観音、療養所(病院と変名)、
里へ帰れなかった人々の就職の為に出来た特産品産業、洗濯女、無縁墓、六地蔵、、、、、、などなど、、、勉強になります、遊行句人の足跡まで有れば完璧です。
ちなみに私も最近某地で命の洗濯してきました、癒しです。いや、むしろ<いやしい>の方か?。

柳生兵介 - 2003/06/02(月) 02:18<

通りすがりの者ですが

 はじめまして、通りすがりの柳生兵介と言う者です。よろしくお願いしますね。

 サンカについての考察、非常に興味深く読ませていただきました。面白かったです。縄文人の心や忍者との関係、スサノオの考察まであって漠然としたイメージだった山の民のイメージに肉付けが出来ました。ありがとうございますね。

 サンカの優しさや自由を目指す意思、腕一本で生きる事による先進性などを読んでいるうちに、一つ凄い重なるイメージを持つ作家さんがいたのでまずはお伝えしようと思いました。サンカとは直接には関係ないとは思うし、小説なので史料価値を問う事も出来ないのですが、この方の書くテーマは何故かここで読んだサンカのイメージとひどく重なるんです。

 ご存知か、もしくは既に過去に話題に上っていたなら恐縮なのですが、時代小説家の故・隆慶一郎さんと言う方です。この方の作品の「吉原御免状」や「一夢庵風流記」「影武者徳川家康」他にも多くの作品で『みちみちの者達』と言う漂白者や自由人がたびたび出てくるんです。その者達は主に渡来人の子孫として描かれてますが、腕一本で生きていく、自由だが人として大切な事を見失わない、弱い者への労り等、非常にここでのサンカのイメージと重なる物がありました。

 サンカの解説文で、渡来人達とサンカの交流についての文面を読んで、それが自分の中でひどく腑に落ちたのはこの小説のせいだと思ってます。時代小説家と言う事もあり、またその印象の一致が何か非常に因縁のような物を感じたので、まずは報告させて頂きました。

 サンカとは直接に関係の無い私事を述べさせていただいて、申し訳ないです。
 それでは、これで失礼しますね。皆さんの研究が進む事を影ながら応援させていただきます。

ナイスタイミング - 2003/06/02(月) 01:45<
こうへいさん、こんにちは。

》とてつもなく大量の石ではありますが・・・

すごそうですね。
石がゴロゴロしている光景と、板状の広い石がある光景を脳裏に描いています。


ヤゾーさん、こんにちは。

さすが。
黒又山、ご存知でしたか。

見たことがあるのですが、キレイな三角形とは言えないのでは、という印象があります。
黒又山の近くに山容が又山に似通っている綺麗な三角形の小山があって山には名前が無いと、
あるサイトで紹介されていましたが、その小山の名前は「茂屋山」と言います。

「東北地方では、三角形の山を「靄(もや)山」と呼んでいます。」と
解説しているサイトがありました。(初めて知る話です。)
http://www.michinoku-yume.net/myn/db/db09-m002-t006.php3


@学校教育には詳しくないのですが、いつぞや
「日本にはですね、大陸から漢字が来る以前は文字が無かったのです」と
大阪のとある小学校で教えているというのを何かで読みました。
「夢が無いね」と感じるとともに、せめて、解読できないが象形文字が発見
されているぐらいのことは教えてもいいのではないか、とも思いました。

ya(・ε^)na - 2003/06/02(月) 00:32<

あああああ・・また1日が過ぎてもた

ふーーーぅ・・
  今日は朝から雨漏りの修理!!
  この台風のつれてきた雨雲のおかげで雨漏りでしたんよ
ヤナは、高所恐怖症屋上から下見たら・・・おおおおおおおこわーーぁ
 早々にセメントぬっておしまいですぅ

 そのあとは、趣味の拓本の整理・
   二三枚額にいれてみました・・なにや・・・んんん  ええかんじです!!

 ヤゾーは、爬虫類OKなん??
   昆虫も爬虫類も同じやおもいますねんけれどもねぇ・・

 そうそう・・沖縄の海底遺跡やねんけど・・
 海底洞窟のおくから土器が発見されてんてぇ
   とゆうことはやっぱり、海に遺跡が沈んだんやねぇ
     ううううん・・夢がいっぱいや!!

          ピラミッドみたいな山や巨大な石・・
 そうそう・・六甲芦屋のなまず石の古代文字なんかも・・
  夢があって大好きです

こうへい - 2003/06/02(月) 00:25<

天石神社2

はつせさん、偶然ですね。
金屋町史借りてきて、読んでますが、はっきり分からないと書かれてますね。
宮司がいなくて、ほかの宮に入るように命令されて、村人が必死で反対しています。
釜中の寺もそうでした。
釜中の天一神社なんか、町史に名前も出ていない。存在にも触れられていない。
天一が天日なんか、天石神社で聞こうと思っても宮司がいないので、どこで聞いたら良いものやら。

ヤゾーさん、鵜呑みにしないで下さい・・(^o^)
よくみると、鷲ヶ峰の斜面の一部かも知れないので、知られていない単なる山城のものかも知れない(^_^; ・・・カーナビの携帯でもあれば、場所も分かるんですがねー。
とりあえず、行ってみて、いろいろ調べて見ましょうね。ユンボ熊野から持って来ますか(^o^)

はつせ <http://www.ne.jp/asahi/songshang/hatsuse/> - 2003/06/01(日) 23:26<

天石神社!?・・・

こうへいさん、私の小説に和州天石村が出てきますが、これは全くの偶然です。私が作った名前だと思ってました。「天」ということは天孫族のシマ(鉄の場所という本来の意味があると聞きます)だったのかも。

ヤゾ− - 2003/06/01(日) 23:05<

隠蔽工作?

みなさん こんばんわ

ナイスタイミングさん 黒又山(クロマンタ)が祭祀遺跡であるという特集番組を
10年くらい前に見た覚えがあります。
本格的な調査で 自然の山に手を加えてピラミッド型にしたものだという
説得力のあるものであったように思いましたが
いつのまにやら そういう話題は闇に葬られるのか
山口県彦島のペトログラフにしても 与那国の海底遺跡にしても
あまり歴史の表舞台には出てきませんね。

こうへいさん 過去 何度かに渡り 縄文時代の遺跡などを
故意に破壊隠蔽したことがあったように感じています。
お話しを聞いていると ますます何かの遺跡のような気がしてきました。

今日 草刈りをしていたら もの凄く大きなトカゲが出てきて
咄嗟に捕まえてしまったので タッパウエアに入れて家の中で眺めて遊んでました。
トカゲは割と可愛い目をしているので嫌いではないのです。
深めのタッパウエアだったので カサコソ暴れても逃げることは出来ないだろうと思っていたのに
ジャンプされて家の中で逃げられてしまいました。
さぁ大変! 捕まえるのに悪戦苦闘してシッポはちぎれてしまうしで
やっと捕まえて外に逃がしてあげました。
切れたトカゲのシッポがウニョウニョ動くのを見たのは小学生以来でした。
トカゲさん シッポちぎって ごめんなさい! 切れたシッポはヤマガラの餌入れに葬りました。

こうへい - 2003/06/01(日) 11:41<

追記

斜面が、本来の姿では無いような気がするんですが・・・。
積むのなら、下に大きな石使うでしょう。
例えば、何かがあって、上から袋に入れた石をぶちまけて埋めてしまったって感じもあります。
とてつもなく大量の石ではありますが・・・
下に何か埋まってるのかも・・・掘り出すなんて出来そうもないけど・・・・

ナイスタイミング - 2003/06/01(日) 00:34<

ありがとうございます。

こうへいさん、こんにちは。
詳しい描写を元にその光景を私なりに想像しています。

》人が積み上げたにしては、上のほうに巨岩があったりします。

うーん、巨石を操る人々の残したものかと思いたいです。


ヤゾーさん、こんにちは。

》こうへいさんに案内して貰って その巨石群を見てデジカメで写してきます。

おお!期待が高まります。

城崎温泉とは夜景が美しいところなのですね。
(そそろ歩く浴衣姿の人達の写真がとてもいい雰囲気)


@昔、秋田県北部にある通称・黒マンタという山がピラミッドではないか?という
 ことを地元TV局の有力者が力説。地元の中高生もかりだしての頂上の調査が
 行われたということをちょっと思い出しました。
 (調査はどうもそれっきりになったようです。誰が言ったか?超・古代とかUFO
  という話が出てきたようで教育委員会がしかめっ面になったか?)

ヤゾー - 2003/05/31(土) 23:35<

久しぶりに熊野ライフ通信を更新しました!

みなさん こんばんわ

ナイスタイミングさん はい!分かりました。
こうへいさんに案内して貰って その巨石群を見てデジカメで写してきます。

こうへいさん >石の斜面あたりが、小字は、白岩みたいです
△山が ピラミッドのようなものだったとしたら
本来 白い石で覆われていたという話しを聞いたことがあります。

きょうかいさん ギックリ腰の原因 ぼくも思い当たることがあります。
悪い座位でパソコンを長い時間すると腰にきます。

少し前に 用事のついでに行った城崎温泉のことを
熊野ライフ通信にアップしています。
歴史といで湯の温泉郷は どこか熊野と共通したものを感じさせるところでした。
温泉街を望む大師山に 高野山真言宗の別格本山・温泉寺というのがありましたが
そこの本堂本尊が十一面観音でした。

こうへい - 2003/05/31(土) 16:20<

天石神社

ヤゾーさん、天石神社は、釜中の隣の上六川にありますね。カミムツガワの呼び名と、神社の出来た時期も不明。上六川と黒松の産土神。
祭神:天石門別命 
明治初年まで、境内に薬師堂があった。こっちも怪しいのかなー?

釜中は、「昔は、炭を焼く山林だったのか、炭かまの跡が田畑のなかに多い」村名の由来の一部。
石の斜面あたりが、小字は、白岩みたいです・・はっきりはわかりません。他に、蒸炉火(むしろび)弓場(ゆば)という面白い小字もあります。
黒松には、森の尻、おしり、いもさこ・・なんて所も。

下六川(しもむつがわ)には、新多羅っていうのが・・。

こうへい - 2003/05/31(土) 14:07<

石の斜面3

>国勢調査に立ち会って見付けたということは
>その近くに人が暮していたということですね
山の境界を確認した時に、見つけたようです。
一q離れたところに、平らな場所があるそうです。
昔、なにか建ってたのかも知れないとのことでした。

番地があって、知名?が無いってところも。
六地蔵があったそうだから、サンマイ(死体の焼き場、埋めた所、墓地)だろうといってました。

きょうかい - 2003/05/31(土) 10:23<

鍛えよう

>仙腸関節のずれは痛み止めの薬と湿布で治りそうですか?
 しばらくすると、坐骨神経は引っ張られるのに慣れて(延びて)
 痛みも収まるようです。これを治ったと言ってもよいか、は
 わかりません。でも、もうしばらく放っておくと、今度は
 反対側(今回の逆)に同じことが起こるようです。
  原因 運動不足、筋力不足(お尻の周りの)、悪い姿勢、悪い座位
   思い当たるのがあれば、考慮ください

こうへい - 2003/05/31(土) 08:22<

石の斜面2

ナイスタイミングさん、おはようございます。
表現しますと、見上げると岩と石だらけが、急勾配で上まで続いています。
大きな岩が、あってその隙間を小石が埋めているって感じ。平らな斜面を作ってる訳でもないんです。斜面を登ってると、自然に出来たとは思えない感じです。
でも、人が、ハンマーで割った石でもなさそうです。風化で、これだけ、岩がくだけるか?ってのもあります。

人が積み上げたにしては、上のほうに巨岩があったりします。
岩だらけの斜面をむりやりならしたのか、何かあったものを壊したのか?
岩のあいだを小石できれいにならしてあるように見えます。
大きな木が生えていないので、結構厚いと思います。
下の石垣は、ここの石を利用して、畑用に作ったのかも。
杉林を切り開いて作った道も、そこから現場に登って行く間も、岩は殆ど見られなかったように思います。

ナイスタイミング - 2003/05/31(土) 01:21<

見てみたい光景です

こうへいさん、貴重な体験をなさっているようで羨ましい限りです。
(巨石を操る人々の作ったものか?)

》デジカメでは、撮り様のない斜面です。

ヤゾーさんと行かれた時に周囲の光景などを風邪の王国掲示板で
見せて貰えると嬉しいです。


とんちんかん小僧さん、
きょうかいさんからご教示あると思いますが、私の知るかぎりでは
仙腸関節の引っ掛かっりは、通常の生体の動きではとることが困難なようです。
骨盤調整手技療法が効果的なはずです。
痛み止めの薬と湿布では根本的に完治しないと思いました。

ヤゾ− - 2003/05/31(土) 00:07<

△山

みなさん こんばんわ

ヤナさ〜ん 久しぶりに山小屋に戻ってきたら台風です。
木々がうねるくらいならよいけど ときおり激しい風に山小屋が揺れています。
土日 夜釣りでイサキ釣りに行く予定が台風のお陰で飛びました・・・(T_T)

こうへいさん それは凄い発見かも知れませんね。
国勢調査に立ち会って見付けたということは
その近くに人が暮していたということですね。
どういう人が暮していたも興味のあるところです。
地図で見たら △山の白山をご神体とした田殿丹生神社から釜中までは ほんの少しの距離ですね。
それに その辺りの地名を見ていたら 丹波口や丹後の森という面白い地名もあり
天石神社という面白そうな神社も山の中にありました。
丹波は大江山の元伊勢神社の神体山である△山の日室ヶ嶽が浮んできます。
また その巨石のあるところを案内して下さい。
箕 手に入れられて良かったですね。

やな - 2003/05/30(金) 23:11<

おおおい・・ヤゾー

ヤゾー・・タイフウヤゾー
  大きなうねりと・・風のざわめき・
   自然の驚異!
            木々がうねっています
       
  小石の鼻・・

     きっと・・大波小波が打ち寄せてるんでしょうね

                  

            血が・・騒ぎます!!

とんちんかん小僧 - 2003/05/30(金) 22:16<

うおおおお!!(感動表現です)

きょうかいさん >尾てい骨の先から、左右どちらか10cmくらい上の所ではないですか。 はい!まさにご指摘の通りの左側を指で押さえると思わず奇声をアゲズニハいられない痛みがあります。では、仙腸関節のずれは痛み止めの薬と湿布で治りそうですか?

こうへい - 2003/05/30(金) 19:07<

箕は手に入れることができました

ところが、話をしてると、変な所がある・・行ってみるかい・・はい、ぜひ!!
草刈り、途中で放り出したおじさんのトラックで、山奥へ。
杉林の奥に石垣が何段かあり、その奥です。
石で出来た広大な斜面が、てっぺんまで続いています。なんじゃ、こりゃーです。
人工的か、自然の産物か?ピラミッドの斜面みたいです。でも、切石ではありません。
山の向こうの斜面にも、規模は小さいけどあるそうです。
他は、石がごろごろではないのです。所々、大きな岩もあります。デジカメでは、撮り様のない
斜面です。おじさんが、国勢調査に立ち会って見つけたそうです。

きょうかい - 2003/05/30(金) 10:36<
痛みの場所は、尾てい骨の先から、左右どちらか10cmくらい上の所ではないですか。
ここには仙腸関節というのがあります。これがずれると、坐骨神経が引っ張られて
筋肉が異常に緊張してギックリ腰となるようです。

とんちんかん小僧 - 2003/05/29(木) 22:52<

続・ぎっくり腰

あれから一週間余り経ちましたが、どうも痛みが治まらないので今日、病院へ行ってきました。すると、腰は腰でもお尻近くの骨盤に痛みがはしってることが判りました。ただレントゲンで検査してもガスが映るだけで何が原因なのか判らないそうなので、また月曜日に経過報告して下さいと言われました。大便堕してないのは今日だけなのに・・ガスがたまりやすい体質なのかしら。注射好きの僕も撃つ場所が尻近くだったので看護婦さんに見られているという感覚に少し恥ずかしさがありました。

こうへい - 2003/05/28(水) 12:59<

『海辺の散策者』

いいお話ですね。
そういう方向に生きた人々、感動しました。
箕は、今、湯浅に住んでる人なので、根性棒の家の人に聞いてくれるよう頼んでおきました。

管理人ヤゾー - 2003/05/28(水) 11:00<

今までの投稿は過去の掲示板へ移動しました

みなさん こんにちわ

ニルスさん はつせさん 出雲と熊野には風葬の習俗があったと聞いたことがあります。
それと修験道ですが 渡来系の影響を強く受けながらも
いちばん縄文色の強い宗教だと感じています。

△うぶさん お久しぶりです。
早くスランプを脱して面白いこと書いて下さいませ。

こうへいさん あの時は もう少しでウンコちびるところでした。
運良く 帰り道にゴルフ場があって
それも豪華なトイレで用が足せるなんて
これも普段の行いが良いからでしょうか・・・(-_-;)
みなさんもフィールドワークの際には 紙は忘れないようにして下さい。
話しをして箕を手に入れることができましたか?

『海辺の散策者』

ミミさんの投稿を読ませていただいて
むかし読んだ「宇宙船 天空に満つる日」という本の中に紹介されていた
生命科学者のライアル・ワトソン博士の「海辺の散策者」という話しを思い出しました。
それは ワトソン博士が少年の頃に アフリカの西海岸で「海辺の散策者」と呼ばれる
不思議な古代人骨を発掘した話しでした。
その人骨は 胎児の姿勢で埋葬されていました。
身体の部分の骨は 現在の子供のものより小さく きゃしゃであったそうですが
驚いたことに 頭蓋骨だけがとても大きく 
現在人の脳より30パーセントは大きいかったと思わせるものだったそうです。
最近になって考古学者による発掘調査が行われたそうですが
建物や武器 装身具などの痕跡は一切発見できなかったそうです。
博士が魅せられたのは それだけの脳を持ちながら
物質文明を発達させた痕跡がなかったことにありました。
彼等は海辺で食物を採取し それを生のままで食べ 砂浜を寝床としていたようです。
では彼等の巨大な脳は何のためにあったのか・・・?
埋葬されていたというのには根拠がありました。
その人骨の手の部分には 白い丸いものが置かれていました。
それは美しい螺旋模様の大きな貝の蓋であり
決して人工物ではないが それは慎重に選ばれたものであり
とても神聖なものであることが見てとれたそうです。
以上のことから 彼等は物質文明を発達させるより
精神の中で喜びを見い出した徳の高い人たちではなかったのでは・・・と結論したそうです。
「決して人工物ではないが それは慎重に選ばれたものであり」 という箇所が好きで
それを死者の手に握らせて埋葬したのだと想像すると
死者への優しい想いが伝わってきて妙に印象に残っていました。
この話しが本当にあったことなのかフィクションなのかは知りません。


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