自然の中へ、そして心の中へ!

 


自然の中へ そして心の中へ

第1章

都会を離れ自然の中へ

無性に自然の中で暮してみたくて、都会での生活を捨て、熊野の山に自ら建てた山小屋にて暮す隠者の記録です。適当に読み流して頂ければ幸いです。山小屋暮し? はっきりいって楽です。なにが楽かって気持ちがとても楽なんです。季節のうつろいを感じ、ゆったりとした生活を過ごしています。お金なんかそんなに必要ではありません。価値観を変えれば、とても豊かな生活だと思います。日本国中には、まだまだ安く買えたり借りられる土地や山がいくらでもあります。小屋なんか50万もあれば、それなりの物が建てられるものです。僕の場合、かなりいい加減で体たらくですが、その気にさえなれば、なんとかなるものです。 東京を離れるまでの数年間、効率のよいアルバイトとして美術品商なるものを営んでいました。バブルがまだ残っていた時代でもあったので、お金にはなりました。ベンツに乗ったり、少しは贅沢な暮らしもしてみました。しかし、そんなものにはなんの価値も見い出せなかったのです。さまざまな人たちと接し、教えを乞い、ものを見極めるということを学んだことが価値のあるものでした。住んでいた中央線沿線の街も好きでした。愉快な人たちがたくさん暮していて、影響も受けました。でも、急速に街の風景やそこに暮す人たちが移り変わってゆくことに寂しさを感じていました。好きだった情感のある古いアパートや建物が取り壊され、それにともない住む人たちも街から姿を消してゆきました。もともと芸術方面や精神世界に興味を持って生きていましたので、知人の何人かも街を出たりしました。そんなとき、意気投合した何人かの仲間と田舎暮らしを考え、無謀にもなんの当てもないまま、1988年に紀伊半島の山奥をめざして旅に出たのでした。

テント生活
 

東京を離れるときにトモダチから餞別として貰った古いニッサンキャラバンで、仲間と理想の土地を探す旅をしていました。クルマで行きつける所まで行き、渓流でテントを張って何日かキャンプ生活し、そしてまた移動するといった生活をしていた頃の写真です。今思えば、この頃が一番楽しかったのかも知れません。雨が続いて難儀な思いをしたこともありましたが、希望に胸を膨らませ、なにもかもが新鮮で 、都会では望めない星空の下で焚火を囲み語り合ったことは、一生の思い出となりました。その頃、トモダチも僕も菜食をしていたので、圧力釜で玄米を炊いて食していたのが写真に写った圧力釜から思いだされます。「そんなときもあったのだなぁ」と、今の乱れた食生活を改めようかと思ったりしちゃいました。

 
気に入った場所を見つけ、しばらくそこでテント生活をしていると、何をしているのかと地元の山仕事の人に声をかけられて顔見知りになりました。それで僕たちの田舎暮らしをしたいという思いを話すと、それなら空家ならいくらでもあるからと、何人かの空家の持主を紹介してもらい借りることになりました。今思えば幸運だったのかも知れません。オーム真理教が社会問題になる以前であったので、どこの誰だか分らない僕たちを、すんなりと受け入れてくれたのかもしれません。本来、僻地の人たちというものは親切な人が多いのは間違いないと思います。借りた空家は村外れの山の中腹にあり、見晴らしのよい、清々しい風の入る家でした。最寄りの街までは2時間以上かかり、タバコを買うのにも20分はかかるところでした。その頃は、そういうことをとても嬉しく感じていました。しかし空家を住めるようにするということは想像以上に大変なことでした。まず掃除をして寝られるようにするのに何日もかかりました。雑巾で拭いてもなかなか綺麗にはなりませんでした。やっと綺麗になったので借りた家で寝てみたところ、 網戸のない状態で窓や縁側を開け放っておいたので、夜に虫たちの乱舞に見舞われ、思わず家の中にテントを張って寝たこともありました。


借りた家も綺麗になり、電気、ガス、水も使えるようになったので、東京から仲間の何人かを呼んで生活していたころの写 真です。 一番手前に写っている人は、会社を定年退職して田舎生活を志し仲間となったYさんです。右側の女性は左側で料理をしているトモダチのガールフレンドで、アメリカから日本文化の研究に来ていて、日本の田舎生活がしたいと一緒にしばらく生活しました。水は裏山の沢から塩ビパイプで引いてきたもので、いつも新鮮なとても美味しい水が流れていました。その水と昔ながらのカマドで炊いたご飯は、とても美味しかったです。でも、大雨が降ったら後などは、水が濁りサワガニやヒルがパイプから出てくることもありました。また大雨が降った後などは水が止まり水源地まで点検に行くこともありました。

 
空家を借りての生活

借りた家での数カ月間の生活は、本当に楽しいものでした。五右衛門風呂を焚いて入浴するのも、その為の薪作りも新鮮な面白さがあり楽しいものでした。トモダチのトモダチを頼って、ランプ生活をしながら反原発運動をしている人たちに会いに行ったり、理想の土地を探してあちらこちら巡ったりもしました。借りた家のある村内に、ホピインディアンの人たちが来て、ティピーの中で平和の儀式をしたこともありました。しかし、当初の目的である自給自足の生活をするということは並み大抵のことではない現実が見えてきました。 それに伴って土地を探すこともなくなり、それぞれ時間を持て余すようになってきていました。僕は借りた家から下ったところにある渓流で釣りをすることを始めました。当初、玄米粒でハヤを釣ったりしていたのですが、たまたま釣りに来ていた大阪の医師に、アマゴ(地元ではコサメ・アメノウオといい、渓流の女王と言われるヤマメと同種の渓流魚)釣りの面 白さを教えられ、朝早くから玄米おにぎりを持って日が暮れるまで釣り明かしていました。糸と針以外はすべて現地で調達しての釣りでしたが、35センチをこえるアマゴを釣ったこともありました。それが釣りバカとなるきっかけだったようです。大きなアマゴを持って帰ると、仲間はびっくりして、シャケのような顔した魚が、なんでこんな山の中で釣れるのかと不思議がっていました。そんなことで僕は釣りばかりするし、仲間は本を読んだりして時間を潰すようになり、これではと田舎生活に幕を閉じることになりました。仲間は東京に戻りましたが、僕は土地を探している時に知り合った人を頼りに、今暮しているところへ移ってきました。なぜ僕だけが残ったかは、もう少し釣りがしてみたかったのです。結果 、その人にはよい土地を紹介して貰い、製材所を営んでいたので、山小屋も安く建てることができました。しかし、山小屋を建てるまでには、いろいろと経緯がありました。そのことは次章に書くことにします。






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